第六章 継承 攻城の果て(2)
吉法師は馬を駆る者に首裾を掴まえられた状態で、河原から浅瀬を渡り土手を越え、その先に続く荒れた平原を連れ去られていた。
「儂を何処に連れ行くつもりか!」
憤慨しながら男に問い掛ける。
この男が味方なのか、敵なのかは分からない。先程刃先を向けて来た農民姿の者たちから救い出してくれたという点では味方の様に思える。しかしこの連れ去り方は味方の者が成すべきものとは思えない。
「わっ!」
突如馬首を切り返すことによる起きる視界の変動が自然と恐怖の声を上げさせる。その様子を見た男は笑みを浮かべていた。
「ははは、舌を噛まぬ様に口をしっかり閉じておけよ!」
その話し方にカチンとはするが敵意は感じられない。少し安堵感を感じた吉法師であったがその安堵感は続かない。
「うおっ!」
突如飛び跳ねる馬にまた声を上げる。もし味方とすればこの首裾を掴んで振り回す様な運び方は荒いのではないかと思う。吉法師は突然の視界の変化を回避すべく進行方向に首を回した。するとその時目の前に高い石組みの壁が迫っているのが見えた。
(激突する!)
その壁の高さも壁に迫る速さも激突を回避できるものでない。瞬時にそう思った吉法師は心拍数の上昇と共にこれまでに無い大声を上げた。
「うわー!」
咄嗟に身を丸めて衝撃に耐える態勢を取る。しかし次の瞬間、吉法師は宙に浮きあがる感覚を覚えた。
タン、タタン!
何が起きたのであろうか。一瞬分からなかったが、馬は壁の手前にあった小さな段差を利用して、軽やかに目の前の石組みを飛び越えていた。
「ふぅ~」
安堵して力抜けした吉法師は屈んでいた体を間延びさせていた。
その後吉法師は高まっていた脈動が落ち着いてくると、馬上の男が敵か味方かという事よりも、その高度な馬術に興味を沸かせていた。自身も幼少の頃から馬を乗りこなしておりその腕には覚えがあるが、これ程の馬術を披露する者にはこれまで出会ったことが無かった。
(何者なのだろう?)
自分を浚った男ということでは無く、馬術に優れた男として、その身元が気になる様になっていた。
やがて小高い丘の麓にある小さな祠の前に着くと、馬上の男は吉法師を地面に下ろし、笑みを見せながら声を掛けた。
「無事で何よりじゃ、吉法師殿」
「ぬしは何者じゃ?」
笑みながら話し掛けて来る男はやはり自分を織田弾正忠家の吉法師と知った上でこの行動に至っている。吉法師は武装した農民集団からの救出への礼半分、その後の自分を運ぶ扱いの酷さへの怒り半分で問い掛けた。その吉法師の様相に男は笑顔を見せながら答える。
「ははは、儂は前野小右衛門という者じゃ」
「儂を如何するつもりじゃ?」
間髪空けずに問い掛ける。しかし男はその問い掛けに対して、馬から降りながら何か困った様子を見せている。
「はてさて、どうするかのぉ」
男は一言そう言うと、近くの木に馬をつなぎ止め、傍の湧き水の場に向かって行った。そして吉法師のことを余所に汲んで来た水を馬に与えた。
元々この場では休息を取るつもりでいたのであろうか、男は何かこの場でのんびりとした様子を見せている。馬に水を与えながらその走りを褒めているその様子は男が常日頃から馬を大事にしている事を思わせる。それは何か男への安堵感につながるものになっていった。
(この馬への接し方は良き者の証だな)
男は馬に対して道具ではなく身内の様な対応を見せている。その様な者に言葉や物で身元を示させる必要は無い様に思えた。
その後吉法師とこの前野小右衛門と名乗る男は正面の小高い丘に登り、周囲を見渡しながら馬の鍛錬や育成方法の話で意気投合する様になっていた。
「ぬしの様に馬を乗りこなすにはどうすれば良いのだ?」
その問い掛けに小右衛門は少し考えて答える。
「そうだなぁ、馬の鍛錬は当然だが、馬上で自分の意志を瞬時に正確に伝えられる様になることが重要かな」
その答えには吉法師はなるほどと思った。馬は道具ではなく生き物であり意思を持っている。馬上で刻々と変化する状況への対応を瞬時に伝えなければならないと思う。
「そのためにはどの様にすれば良いのだ?」
吉法師は更にその方法について問い掛けた。
「そこは日頃からの意思疎通が大事になるな、自分が伝える事と同時に相手の意志も汲み取らねばならぬからのぉ」
確かに意思疎通となると相手側が示す意志を知る必要がある。それは鍛錬で出来る様になるといったものでは無く、常日頃から意識するべきものであろうと思う。
吉法師がその様な考察を行っていると今度は逆に小右衛門が話し掛けて来た。
「吉法師殿、ぬしは弾正忠家の嫡男ともなれば既に家臣もたくさんおるのだろう、儂も少し子分を持っている身だが、彼らに良き働きを期待して意思疎通を図るとすれば普段から良き関係を構築する必要があるだろう。そこは人も馬も同じ、日頃から手の抜けぬ所だよ」
それは小右衛門が何気なく口にした言葉であったが、吉法師はその時の構築という言葉を聞いてはっとなった。
(そうだ、天下の再構築は周囲との関係性の構築で成り立つものなのだ!)
天下の再構築が織田家の発展による天下統一という路線上にあるとすれば、天下の再構築は織田家臣や尾張領民との関係性の構築が基礎ということになる。領主として家臣や領民とどの様に意思疎通を図り良好な関係を築いていくか、他国ではそれをどの様な形で築いているのか、そして現在父はどの様に築いておるのか、吉法師は深く考え込む様になっていた。
その時であった。
「すまん、小右衛門、ちょっと遅れた」
背後から一人の男が現れ声を掛けて来た。どうやら小右衛門はこの男とここで待ち合わせをしていたらしい。何やら見たことがある男、するとその男は吉法師を目にした途端、驚きの声を上げた。
「おぬし、吉法師じゃないか、小右衛門なぜ二人でおるのじゃ?」
吉法師が話し掛けたその男は蜂須賀小六であった。小右衛門は川並衆の中で小六と義兄弟の関係を交わした仲であった。
「いや兄者、何やら通り掛かったら揉めておってのぉ、良く分からかったので取り敢えず浚ってきたのじゃ」
そう言って笑顔を見せる小右衛門は冗談のつもりの様あったが、目の前で供の姿無く吉法師が一人でいる状況は小六にとって冗談になっていない。もし本当に浚って来たとあれば義兄弟の自分を含め川並衆全員が尾張中の尋ね者になってしまう。
「ふぇ-!」
小六は困惑の表情を見せながら奇妙な声を上げた。するとその声に反応する様に人が集まって来た。
「おぉ、あそこだ」
「良かった、無事の様じゃ」
それは三左、五郎八と子供衆の四人、そして八右衛門であった。
「吉法師様、御無事ですか、良かった」
「ほんとに心配しましたよ」
「変な連れ去られ方をされてましたし」
「また責任取っての切腹を考えましたよ」
一度吉法師の行先を見失っていた子供衆の皆は吉法師との再会に安堵の表情を浮かべていた。その横で八右衛門が笑顔を見せていた。八右衛門は気持ちが折れかかっていた皆をこの場に誘導していた。ここは生駒家が出先の休息場所に指定している場で、吉法師を浚ったのは小右衛門と見た八右衛門はここで待機していると推測していた。
「心配を掛けたな」
そう言って皆を労う吉法師は先の小右衛門が述べた言葉を思い出していた。この者たちとの関係から自身の織田家が構成される。そしてそれは尾張の国の仕組みとなり、やがては天下の構築となる。そう思うと何か感慨深いものがあった。
「吉法師様、そちらのお二方は?」
吉法師が将来への思いを巡らせていると、犬千代が二人について問い掛けてきた。二人共に見た目の風体が良いものではなく、一人は自分たちの前から吉法師を浚って行った者であり、気を許して良いのかどうか、犬千代は判断出来ずにいる様であった。そしてそれは他の皆も同じの様で警戒の雰囲気を醸し出している。吉法師はそんな子供衆に笑顔を見せた。
「こちらは川並衆の二人でな、こっちの馬で儂を浚ったのが前野小右衛門殿、そしてそっちは津島槍対決の時の敵将だった蜂須賀小六殿じゃ」
この紹介で吉法師は二人については大丈夫との自身の見解を示したつもりであったが、子供衆の皆は逆に警戒の度を強めていた。
当時槍対決に参加したのは子供衆で勝三郎だけであったが、その時の話は観覧していた者たちから聞いている。目の前の一人の者はその時の敵将の男、そしてもう一人は吉法師を先程目前で浚って行った男、吉法師は特に心配していない様であったが、何か策が仕掛けられているのではないかと子供衆は皆で不安な気を抱いていた。
一方で小六はその様な子供衆の雰囲気を感じる事なく、槍対決を交えての紹介に笑い声を上げた。
「はっはっは、あの対決は楽しかったのぉ」
津島での槍対決は非公式な吉法師の初陣としてちょっとした巷の噂となっていた。小六は初陣の相手として話題となり、それを上手く商売上の利点として活かしていた。小六にとっては今に至って遺恨がある訳でも無く楽しい思い出になっている。しかし小右衛門はこの時の敗戦という結果の評判に納得できず、しかめ面をしていた。
「兄者、津島の槍対決、儂も参加したかったぞ、儂がおれば勝利間違いなしであったろうに」
その言葉に小六が反意の様子を見せる。
「あの対決はぬしのおらぬ時に突如決まったものだからな、しかし小右衛門、あれは負けてこそ良かったのじゃ、もし逆に勝っておったら我らは尾張中から敵とばかりに睨まれ、商で皆を敵に回しておったやも知れぬ」
それを聞いて小右衛門の表情が変わる。
「なるほど、名を捨てて実を取るという諺はこのことか、さすが兄者じゃ」
吉法師はその二人の会話を槍対決の時を思い起こしながら聞いていた。負けるという事がその後良き方向に働く、その様なこともあるのかと思う一方で、一つ気になる点が浮かぶ。
「小六、負けてこそ良かったと申しておるが、ぬしはあの時負けを認めるのが嫌で必死に逃げ回っておったではないか、結局最後まで逃げ通していたから最後は良く分からぬ決着で終わっているというのが実であろう」
その吉法師の追求を受けて小六はまた笑い声を上げた。
「はっはっは、実のところあの槍対決を行うこと自体が気乗りせず災いみたいなものであったからな、まぁ災い転じて福と為す、という諺の方が妥当かな」
「兄者ぁ!」
小右衛門は最初小六の話を聞き、対決の勝ちは譲ってあげたものと考えたが、そうでは無いと知りがっかりしていた。
「それはそうと吉法師殿はこの様な所で一体何をされておるのか?」
笑顔の小六は小右衛門の様子を他所に吉法師に問い掛けた。
普通であれば美濃攻めの最中、本拠の留守居を担っている筈であろう吉法師が国境まで出張って来ていることは変なことである。その問い掛けに対しては小六の出仕先である生駒家の嫡男八右衛門が答える。
「小六、吉乃が正体不明の盗賊団に誘拐されたのだ、吉法師様にはその捜索をお願いしておる」
「は?」
八右衛門の返答に小六はその身を固まらせた。生駒家の小さな娘が頭の中で自分の名を親しげに呼んでいる。その娘が誘拐されたという。小六の頭の中は真っ白となっていた。
小六が空虚な様子を見せる中で、皆の話は先程襲って来た者たちの話になる。
「先程襲って来た農民の格好をした者たちだが、明らかに吉法師様を狙っておったよな」
「あぁ、吉法師が連れ去れた途端、意味を失くしたと言わんばかりにその場から去って行ったからな」
「吉法師様を知っている者たちということですね」
「うむ、金目当てとかではないという事だ」
「美濃の者であろうか?」
九右衛門の推測に内蔵助が声を上げる。
「いや、違う、後ろの方に覚えのある者がおった」
「お、内蔵助も気付いておったか」
三左が内蔵助の洞察力に感心しながら声を上げる。それは黒田城の山内であった。山内は他の者たちに紛れて農民に偽装していたが、祖父江と現れた際に見たその特徴的な顔付きを二人は記憶に留めていた。
「しかしあの場を指揮していた者は別の者であった」
「あぁ、だが祖父江殿ではない」
「うむ、吉法師様の縁からしても祖父江殿はあり得ぬ」
「と言って部下の者を使っている感じでもなかった」
「あれは一体誰であろうか?」
黒田城の山内は先に会った様子から自分の意志を以て農民に偽装し自分たちを襲う様な人物ではない様に思えた。もし他に関わっているとすれば誰であろうか、続けて弥三郎が声を上げる。
「もしかしたら窃盗団との関りがあるのではないか?」
「確かに、捕えていた者たちが別の窃盗団に襲撃されて逃げられたと申しておった様だが、自ら逃がしたやも知れぬ」
「もし窃盗団と仲間になっているとすれば由々しき事態じゃ」
「吉法師様を狙う意図も深刻なものとなる」
「あぁ、今行われている美濃攻めに関係しているかも知れぬしな」
皆が自身の思う所を述べる中で、吉法師はそれをひたすら聞いていた。確かに窃盗団を追う自分たちの背後で黒田城の山内が暗躍しているとなればその動向は今後脅威なものに成り兼ねない。しかしその確認に時間を要すれば、いつまでも窃盗団に追い着くことが出来ない。それは吉乃との永遠の別れを意味する。
「吉法師殿、如何致しましょうか?」
皆の議論が出尽くしたと考えた五郎八が見解を求めてくる。
先に向かうのも後を確認するのも深刻な課題が生じる可能性があり、その結果には思い責任が生じる。自分は未だ元服前の子供であるが、この場でこの判断できるのは自分以外にいないであろうと思う。
「覚悟か……」
皆の目が自分に集まる中、吉法師は一言そう呟いた後、意を決して声を上げた。
「今の急を要する状況で山内の背景を探っている時間の余裕はない」
皆はそれを聞くと、このまま後顧の憂いを残して前の盗賊団を追うという判断だと思った。しかし吉法師は空虚な様相を呈している小六の方を振り向くと力強い声を上げた。
「小六、今すぐに川並衆を集めよ!」
それは突然の、そして家臣かの如くの招集指令であった。我に返った小六は驚きの表情を浮かべる。その目をパチクリさせている表情を見て自分の指示が認識されたと見た吉法師は他の者に続けて指示を出す。
「八右衛門殿にもこちらに人を回してもらう手配をお願いしたい」
「九右衛門と弥三郎は来た道を戻って関殿と祖父江殿に事の次第を報告せよ」
「五郎八と三左は儂と共に周辺の武家に招集をかける」
「犬千代、内蔵助、ぬしらは……」
そこで吉法師は一度指示を止めた。皆がその二人への指示に着目していた。ここまで他の指示では吉法師が何をしようとしているのか分からない。しかしそれはこの二人への指示で分かる。そう思いながら皆がその指示に着目していた。すると吉法師は一層の力を込めて二人に指示を出した。
「今の問題に対する全ての答えは山内の黒田城にある。ぬしらは先に城に向かい状況を偵察せよ、時間は掛けぬ、今宵一気に攻め込んで彼らの真偽のほどを確かめる!」
その吉法師の判断に皆が驚愕した。
吉法師は窃盗団との関係性や指示の者の身元など、時間の掛かる様な調査を行わず、一気に押し掛けて敵対の意志を確認するという。それは皆が全く考えていないものであった。
小六が涙を浮かべている。
「吉法師殿、頼む、頼む、生駒家の娘御を……、吉乃様を一刻も早く救い出してくれ……」
小六にとって吉乃は出仕先でその成長を楽しみにしていた存在であった。誘拐という不幸な状況から一刻も早く救出したい。しかしその様な時に自分は何をすれば良いか分からない。しかしその状況でこの吉法師は自分に成すべき指示を出してくれる。小六は心底から吉法師を頼る様になっていた。
その時小六の横にいた小右衛門は弥三郎と九右衛門の方に歩み寄り、二人に声を掛けた。
「儂が送ろう、その方が早い!」
小右衛門は義兄小六の必死な姿を目にした後、自分は今何を行うことが一番効果的かを考えていた。そして一刻も早くこの者たちを南方の二か所に送り届ける事だと考えると同時に、二人を馬に乗せ再び馬を駆けて行った。
その後、他の皆も吉法師の指示に従いそれぞれの行き先を目指してその場を離れていった。