第二章 敦盛(7)
尾張古渡城本丸御殿、吉法師は朝日が差し込む大広間の真ん中で目が覚めた。
「あいたたた、ここは」
吉法師はガンガンする頭を抱えながら起き上がり周囲を見回した。昨夜この広間に散在していた宴の料理や酒樽などが造酒丞や佐々兄弟達と共にきれいに消え失せており、まるで別の場所の様になっている。
「昨夜の宴は夢だったのか、あたたた」
しかし唯一その頭の痛みだけが宴が夢では無い証拠として残っている。
「おはようございます、吉法師様」
突然の大きな声が吉法師の頭に響いた。頭を抱えながら広間の入口を見ると、いち早く起きていた勝三郎が入口に坐してこちらを窺っていた。
「勝三郎か、おはよう、昨日はご苦労であったな」
「いえ、先に寝てしまった様で申し訳ございません」
「いや、いい」
そう言って吉法師は頭を抑えながら勝三郎に感謝の笑顔を見せた。しかしそれは頭の痛みで引きつったものになっている。勝三郎は吉法師のその奇妙な笑顔にその胸中を図りかねながら自身も苦笑を返した。
その時であった。
「たーっ!」
突如外から子供の掛け声が聞こえてきた。吉法師はその声にあっ、と思いつつ勝三郎を見て、無言でその声の主を訊ねた。
「勘十郎様です」
吉法師はやはり、と思った。勘十郎はもう中庭で朝稽古を始めている様であった。吉法師は今朝その手合せをしなければならないと思った時、頭の痛みと面倒だと言う思いで憂鬱な気分になった。
「はぁー、相手をせねばならぬ、いくぞ」
そう言うと吉法師は勝三郎を伴い大広間を出て御殿の中庭に向かった。そこには昨夜の吉法師の推測の通り、木刀を振りかざす勘十郎の横で、うまいうまいとおだて上げる権六の姿があった。しかし吉法師から見れば、その勘十郎の鍛錬は子供を相手にしたお遊びにしか見えない。
傍の縁側では何人かの女中達と共に母の土田御前がその鍛錬の様子を見つめていた。土田御前は我が子が鍛錬を受け成長する姿を見守り、勘十郎はそんな母の期待に応えるべく、良い所を見せたいと言った様子が感じられる。早く終らせて帰ろう、吉法師はその様な二人の間に入る事に更に憂鬱な思いがした。
吉法師は母の土田御前の前を通る際に軽く挨拶をした後、勘十郎と権六がいる方に向かって行った。勝三郎は少し離れた所に控え留まって、吉法師が一人になった所でその接近に気が付いた勘十郎が声を掛けてきた。
「兄じゃー、おはようございます。今朝起きたらもういないからどこ行っちゃったかと思ってましたよぉ、さぁー勝負、勝負」
勘十郎はそう言うと、目の前に来た吉法師に対して挑戦的に木刀の先を向けた。毎朝、権六に鍛錬を受けていつも褒められている。同じ位の年の子と勝負しても負けた事は無い。自分は相当強くなっている。勘十郎はたとえ相手が、幼き頃より武術の鍛錬を受けていた兄の吉法師であろうとも負ける気がしなかった。しかしその隣では権六が申し訳無さそうな顔をしている。
「やれやれ」
吉法師は相変わらず続く頭痛と母が着目する気の乗らない心境の中、城の近習の者から木刀を受け取った。気が付くと中庭には何人もの城中の者達が噂を聞きつけて集まって来ている。朝の軽い手合せのはずの兄弟の一戦に城の多くの者たちが着目していた。
「いざっ」
勘十郎が木刀を構える。
「たぁーっ」
そして勘十郎の打ち込みと同時に放った甲高い気合の掛け声に頭痛が反応する。
「あいたたたた」
吉法師は頭痛が気になって最初の一太刀目こそ慎重に身構えて受けたが、二太刀以降はもう勘十郎の太刀振りを軽く受け流す様になっていた。太刀筋が遅い上に弱い、打ち込みの後に大きな隙がある、動きが雑で無駄が多い。吉法師にはそれらが気になってならなかった。勘十郎は威勢良く何度も何度も打ち込んでくるが全く苦にならない。
「勘十郎様、がんばってー」
それは母の周りにいる女中達の声援であった。女中や城中の者達は普段その鍛錬を見てきた勘十郎を一生懸命に応援している。
吉法師はふと母の様子が気になり、勘十郎の打ち込みの合間に覗き見た。すると声には出していないものの、やはり母も他の女中達と同様に勘十郎がんばれという表情を見せている。それは吉法師が軽く勘十郎に打ち込んだ時には危ない勘十郎、と言っている表情にない、勘十郎が威勢よく打ち込ん出来ている時には行け池勘十郎、という表情に変わっている。明らかに母も勘十郎の応援をしている様であった。
集まって来ている城中の者達も母の周りの女中達も勘十郎に大きな声援を送っている。そして母までもが兄弟の手合せで弟の応援をしている。
この周囲が皆弟の勘十郎を応援する状況に吉法師は何か寂しさを感じていた。勘十郎の打ち込みはなおも続いていたが、その掛け声の大きさとは裏腹に、その太刀筋はまだまだで、吉法師は苦も無く躱す事が出来る。
「やーっ」
しかしその掛け声がいちいち頭に響くのは難儀だった。この様な太刀筋ではいくらやっても自分を負かす事などできない。しかしわざと負ける事など出来ないし、勝って母に嫌な思いもさせたくもない。勘十郎の自分に勝ちたいと言う思いだけは伝わり、これが兄弟かと思う。弟が兄を超えるのも大変だと思うが、兄として弟を手懐けるのもたいへんだと思った。
吉法師はそろそろこの手合せを終了にしたいと思い、まだ止めにしようと言わないのかと、権六に目線を送って手合せの終了を促したが、一生懸命に木刀を振り続ける勘十郎に、権六も中々終わりを言い出せずにいた。
「もう少し、もう少し!」
勘十郎は自分が優勢と言う思いで吉法師に木刀を打ち込んでいた。
しかし吉法師は隙だらけの状態で木刀を打ちを掛けて来る勘十郎が徐々に煩わしく感じられる様になってきた。それに母の勘十郎を応援するその表情も、いちいち勘十郎の掛け声に反応する頭痛も耐え難くなって来ていた。
「やぁー」
そして勘十郎が一際大きな掛け声と共に、渾身の一撃を放った時だった。吉法師は目の前で放たれたその勘十郎の一撃に動じる事は無かったが、その声の大きさでこれまでに無い頭痛が走り、いい加減にしろ、と言わんばかりに一瞬、本気の力で木刀を水平に一振りした。
バシッ
その音と共に勘十郎の木刀はその手を離れ、回転しながら遠くに飛んで行った。周囲の見物者達からどよめきとため息の声が広がる中で吉法師はつい力が入ってしまったと思った。
吉法師の一瞬の鋭い太刀筋に、勘十郎は暫し何が起きたのか理解できず、茫然と立ち尽くしていた。そしてはっと我に返った時、木刀を持つ兄の吉法師の前で、自分は丸腰の状態である事に気が付いた。
「これは、負けたの?」
そんな筈は無い、と勘十郎は勝負の結果を受け入れられず苛立ちを見せながらその場に立ち尽くした。そこへ勘十郎と同い年である勝三郎が、勘十郎の木刀を拾い持って来た。しかし勘十郎は礼を言うどころか、打ち負かそうとしていた兄の家臣の勝三郎が、自分の木刀を持って目の前にいるのが気に入らなかった。
「邪魔じゃ!」
そう言って勘十郎は勝三郎が手渡した木刀を無造作に掴み取ると、勝三郎を両手で突き飛ばした。勝三郎はまさかの八つ当たりを受け、その場で尻もちを突いた。咄嗟に何をするかと、その暴挙に対して怒鳴りたい所であったが、相手は吉法師の実弟、必死にそれを我慢した。
その様子を見ていた吉法師と権六が歩み寄って来る。土田御前も遠くから心配そうな表情で様子を窺っていた。
「大丈夫か、勝三郎」
吉法師は勝三郎を気遣って手を差し伸べて起こそうとしたが、勝三郎はそれを制止し、怒りを抑えているかの様な様子を見せながら、自分で立ち上がった。
「すさまじきものは宮仕え、すさまじきものは宮仕え……」
勝三郎は父からの提言を念仏の様にブツブツと唱えていた。しかし勘十郎は全く自分が悪いと思っていない。それどころか吉法師に対してもう一勝負、と言いた気な様相を示している。その様子を見ていた権六がようやく言葉を上げた。
「勘十郎様、今日は調子が今ひとつ悪うございましたな、今日はこの辺で終わりに致しましょう。そろそろお父上様が清須へ出立される時間ゆえ、見送りの準備を致しませんと、それに吉法師様ももう那古野にお戻りになられる時間でしょうから」
これに対して勘十郎は憮然とした表情を見せた。しかしあの最後の一振りを見せられた今となっては何度この手合せをやっても勝てる気がしなかった。
兄は全く本気を出していない。手合せを止める理由は権六が止め、と言ったからであって、自分が負けを認めたからでは無い。今ならそう言えるが、ここで再開したら今度は自分が負けを認める事になるかも知れない。
「分かった」
勘十郎はそう言うと勝三郎が拾って来てくれた木刀を投げ捨てた。吉法師にはその投げ捨て方に悪意が籠っている様に思えてならなかった。
この時二人には僅かながら蟠りが芽生え始めていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
織田家の旗差し物を立てた長い軍列が尾張国内を清須へ向かって続いていた。
沿道のあちらこちらでは昨日と同様に民衆が勝ち戦を得た尾張の軍勢を見物に来ていた。吉法師はその清須に向かう信秀の軍と共に行軍し、その途中にある那古野の城に戻る事にした。
佐々兄弟や柴田の軍はそれぞれ自城へと戻り、清須へ向かうのは織田家中の軍のみであったが、それでも数千の規模で、その軍列は国内に戦勝を誇示する威容を誇っていた。軍の先頭には昨日と同じく赤鬼の様相をした織田造酒丞がおり、その中心にはひと際大きな馬に跨る大将信秀の姿があった。吉法師は那古野より乗って来た自分の馬で、伯父の信光と並び軍列の後方を行軍していた。
吉法師はこの帰りの軍列でも父信秀と何か話が出来ると期待していたが、信秀は引切り無し訪れる様々な報告とそれに対する指示にて息つく間も無い様子で、吉法師は新たな会話の機会を得られずにいた。
(敦盛、幻、覚悟)
吉法師は昨夜の父との会話を思い起こしていた。自分は父を継ぎ織田家の嫡男として覚悟を以て成す。そんな真剣な事を考えた次には信秀の酷い敦盛の舞が脳裏に浮かび、ふっと可笑しさが込み上げてくる。もう死を恐れる事は無い。
織田家の嫡男として常に生涯の覚悟を以て一生懸命に生きれば、その結果としてどんな結末が待っていようとも受け入れる事ができるだろう。それを表現する敦盛の舞が将来への不安を取り除き気持ちを安定させる。吉法師はそう信じていた。
その様に行軍の最中、吉法師が昨夜の事を色々と思い返していた時だった。突然何かが自分の脇腹を突いた。
「すきあり!」
吉法師も吉法師の馬も突然の突きに驚き、少し歩調を乱したが直ぐにそれを立て直した。横を見ると、並行していた伯父の信光が自慢の朱槍の槍鞘を付けた槍先をこちらに向けていた。
「伯父上!」
信光の悪戯であった。
伯父の信光は二十八歳で、兄の信秀からは家中で最も信頼されており、那古野から西にある守山の城を任されていた。屈強な体付きながら策術にも秀でており、今回の小豆坂の戦においても戦場で織田本隊の軍勢をまとめて勝利に貢献し、佐々兄弟や造酒丞と共に小豆坂の七本槍に選出されていた。吉法師にとっても幼少の時から馴染みのある伯父である。
「吉、昨夜は親父殿と話はできたか?」
「ええ、久しぶりに、短い時間でしたが」
「そうか、ま、ぬしの親父殿はいつも何かと忙しいからの、でもまぁ、少しでも話せて良かったの」
吉法師の脳裏にまた敦盛、覚悟という言葉に続きまた父の酷い舞が脳裏を過る。
それまでの悩みが嘘の様に晴れていた。まだ時折、討ち死にした弥五郎の姿を思い浮かべる事があるが、以前ほど恐怖を感じない。昨夜の父上の教えてくれた敦盛の舞による覚悟の教えのおかげだと思う。しかし吉法師は弥五郎には関してもう一つ気掛かりに思える事があった。
「叔父上、後ろの清須の衆、負傷者がかなり多い様だが……」
小豆坂の戦において尾張の軍は勝利を収めたが、那古野弥五郎の戦死を含め、今軍列の最後尾を行軍している清須の衆に負傷者が偏って多くなっていた。
「戦場で敵軍に遭遇した時、ちょうど清須の衆の所が最前線の位置になってしまったからの、運が悪かったのじゃ」
しかしこの信光の言葉を吉法師は即座に信用する事が出来なかった。
信光は以前、威勢を誇っていた三河の松平清康(徳川家康の祖父)が尾張に攻めて来た時、内応する事を約束して清康を守山の城に誘い出し、敵方の家臣を離反させた挙句に討ち取らせている。
また清須本家は織田弾正忠家の尾張国内での台頭を快く思っておらず、確執が生じつつあるとの噂がある中で、今回那古野弥五郎が率いる清須の軍勢の一番近くを行軍していたのが信光の軍勢であったと言う事を報告で聞いている。
清須本家は自分の所に被害が集中しているこの合戦の結果を快く思わず、他国との合戦を利用して自分達を弱体化させているのではないかと嫌疑をかけて来るかも知れないと思う。
「もしかするとこのまま清須の城で戦いになってしまうのではないか」
吉法師は不安な思いに駆られた。もし清須の城内で戦いになったら、それほど本家に軍勢はいないとしてもこの程度の軍勢で大丈夫なのであろうか、吉法師は信光への上手い質問の言葉を探していた。
「伯父上」
「あぁ?」
信光は吉法師の呼び掛けに自慢の朱槍を振り回しながらこちらを振り向いた。小豆坂七本槍の信光の槍回しはちょっとした見世物である。沿道で見ていた民衆からは、おぉーっと歓声が上がっている。
「何だ、吉」
「伯父上も清須へ行かれるのですか」
その言葉を聞いて信光は首を捻った。吉法師は清須へ向かう軍列の中の自分に向かって、清須へ行くのかと聞いている。またいつもの謎掛けか、とも思ったがそうでもないらしい。
「清須へは行く、だがぬしのその質問の真意が分からぬ」
信光はその意味を率直に聞く事にした。吉法師は逆にその真意を問われてたじろいだ。
「いや、突然戦になったりしないかと」
この言葉に信光はようやく吉法師の考えを理解した。今回は勝ち戦ながら弥五郎を初め、清須の衆に損害が集中している。これを確執が生じ始めている清須本家が快く思うはずがない。吉法師はそこを気にしている。
「弥五郎の事か?」
その問いに吉法師は信光の方を見て頷いた。
「吉は心配性じゃのぉ、確かに清須の本家は良く思わないだろう、だが今の本家に我らを敵にする力は無い、もし戦いになれば自分達の方が破滅するからな、まぁ、勝ち戦直後のこの軍勢を見れば先ず何も言う事は出来まい。大丈夫じゃ」
吉法師はその信光の言葉で、清須への報告にわざわざこの大軍で臨む意味を理解した。
確執に対しては威圧をかけて対抗するということか、吉法師はこれ以上深く訊いてはいけないと思った。表裏で利害と思惑がぶつかり合う、政務って嫌だなと思った。信光はそんな吉法師の思いを察すると共に、自分の中にある葛藤を追い払う様に言った。
「吉、ぬしはまだ理解出来ぬかも知れぬが、我らの生き方は難解ぞ、やりたい事をするためには色々とやりたくない事をせねばならぬ」
吉法師は初めこの伯父の言葉の意味が良く分からなかったが、叔父が当主である父の弟であると考えた時、思わずはっとした。
まさか伯父上も兄を目指すのだろうか、そう思いながら隣の馬上の叔父信光を見た時、何か孫介と勘十郎の姿がだぶっている様に見えた。嫡男とその弟、嫡男は最初から後継の地位が用意されているが、弟は努力と成果が無ければ上がれない。生まれながらのこの格差に対して負けず嫌いで向上心の高い弟であれば先ずその兄が大きな目標となる。伯父の信光も孫介や勘十郎と同じ様な思いを持っているのだろうか、吉法師は時折信光の方を窺いながらその言葉の真意を考えていた。
時折沿道の観衆の声が届く中、しばらく二人は無言で行軍していた。
「吉法師様じゃ」
「吉法師さまー」
やがて吉法師はふと観衆の声に自分の名を呼ぶ声が増えてきている事に気がついた。遠方に目をやるとやや小高い丘の上に那古野の城が見える。既に自身の那古野の城の領内に入っていた。
もうこんな近くまで帰って来ていたのか、自分がこの軍列と一緒に行軍するのはあの城までである。吉法師は那古野の城を遠望していた時、再び信光が話掛けてきた。
「那古野の城、ぬしの城が見えてきたな、いい城だ、さすがに元名門今川家の城、遠目でも格式の高さが感じられる。儂の守山の城などあれに比べれば山賊の砦みたいなものだ」
吉法師はその叔父に返す言葉が無かった。その様な山賊の砦の様な城でも信光が長年苦労して、やりたく無い事をたくさんして、やっと得た城だという事を吉法師は知っている。それに比べ自分は生まれながらに嫡男と言うだけでこの那古野の城を得ている。何か申し訳ない思いがした。
もしかしたら伯父上は自分の成果に対する俸禄に不満があるのであろうか、家中でも大きな力を持つ伯父だけに、何か吉法師は不安を感じていた。何か那古野の城に着く前にもう少し伯父上と心を通わせたいと思ったが、良い言葉が見つからずにいた。しかし信光の思いは吉法師が考えていたものとは異なっていた。
「吉、儂は兄者が、ぬしの父が好きだ。兄者は尾張の希望だ。家臣、家中の者、皆が兄者が天下の太守になる事を願っている。兄者がいるからこそこの尾張は安泰でいられるのじゃ。我らはこれからも兄者を中心に大きくなっていかねばならぬ。そのために儂はやりたくないこともせねばならぬし、必要とあらば汚れ事でもやらねばならぬのだ」
叔父信光の言葉に吉法師は自分が誤解していた事に気がついた。叔父は兄を目指してはいても、競争相手ではなく、尊敬の念と自身の活躍の場として考えてくれている。
吉法師は同様にもしかしたら孫介も同じかも知れないと思った。兄の隼人正は良き佐々家の当主になっており、非の打ち所が無い。吉法師は即座に孫介も同じ思いである様に思えた。
「勘十郎も兄である自分次第ということか」
兄がしっかりしていれば弟はついてくる。兄が良き道を示していれば弟はそこから外した行動を起こす事は無い。吉法師は手合せで最後に見せた勘十郎の悔しそうな顔を思い出した。
「自分も良き兄を目指していないとまずいかな……」
吉法師は少し悩ましい顔を見せていた。横で信光はそんな吉法師の表情の変化を見てふっと笑顔を見せながら言った。
「吉、ぬしはぬしの父に似て良く悩む、じゃがこの戦乱の世にて悩んでも仕方無き事は多々有る、時には悩む事に時間を費やさず、何も考えずに行動する事も大事ぞ」
何か自分に言い聞かせる様に語る信光を見て吉法師は思った。
叔父上はこれまで騙し射ちや暗殺の様な事に幾つも携わっていると聞く、さぞかし嫌であっただろう。叔父上が裏でその様な汚れ役をこなしてくれているからこそ、今の弾正忠家の発展があると言っても良いのだろう。信光の時には何も考えずに行動する、と言う言葉に信光のお家のために自身の心情を犠牲にしてきた重みを感じる。
「吉、我等はこれからも勝つぞ、儂はな、この戦乱の世で生きるには夢を持つ事が大事だと思うぞ、やりたい事をするためにやりたくない事をするのじゃ、だから夢はでっかく持っておいた方が良い、おぬしなんかまだまだ本当に始まったばかり、どんだけでかい夢でもありじゃ、言葉には出さずとも心では天下取ったるどー、くらいの夢にしておいた方がよい」
吉法師は続く叔父の言葉にはっとした。
「夢、天下?」
それはこれまで考えてもいない事であった。嫡男として家を継ぐ、家中をまとめて他国から尾張を守る。これは嫡男としての使命であり、自分の夢という発想は無かった。天下取り、自分の発想の及ぶ所では無かった。
また昨夜父から聞いた敦盛の句を思い出した。
(夢、天下、下天の夢か)
吉法師は更に敦盛の舞を極める必要を感じていた。覚悟に続き、何か自分がやるべき生涯の目標が見えてきた様な思いがした。そして信光のこの言葉にもう一つの意味があった。
「伯父上」
「なんじゃ、吉」
「ありがとう」
吉法師は静かに小さな声で礼を言った。伯父の信光の夢を持て、と言う言葉は遠まわしにしっかりした嫡男になれよ、と言ってくれている事であり、つまりは自分も応援していると言う意味になる。
恐らく将来自分が困った時には助けてくれるであろう。この言葉をもらい、何か伯父とも心が通じあった気がした。吉法師は信光に笑顔を返し、信光も照れ臭そうにまた笑顔を見せた。
那古野の城が目前に迫っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
那古野の城の門前では先頭の軍勢が休息を取っていた。周囲の護衛の騎馬武者の中、ひと際大きな騎馬に乗った父信秀が誰かと話をしているのが見えた。吉法師と信光は馬を進めて、二人に近づいて行った。
信秀と話をしていたのは家老の平手政秀であった。やはり信秀は那古野の城内まで立ち寄る程の時間は無いのであろう。それを見越して政秀は城より出て、ここで軍列が来るのを待っていた様であった。
政秀は悩み事が晴れて凛々しい表情をしている吉法師を見てほっと安心しながら声を掛けた。
「若様、お帰りなさいませ」
「爺、留守中、大事なかったか?」
「ええ、至って領内は平穏ですよ」
信秀は二人の会話を微笑ましく聞いていた。生意気な孫とその面倒を見る祖父、と言う様な感じであった。政秀は吉法師のために最善の教育を施してくれており、吉法師は立派な領主の自覚を持って成長してくれている。やはり政秀に後見してもらってよかった、信秀はそう思った。
「父上、お聞きの通り那古野は城、領内共に安泰にて」
「うむ」
信秀が一言うなずく姿を吉法師はじっと見ていた。
これで父とはまた暫しお別れじゃな、吉法師を一抹の寂しさを感じた。
「それでは父上、道中の無事を祈っております」
信秀はこの吉法師の過剰に自分を気遣う言葉に何か違和感を感じた。吉法師には心底知れず考えさせられる事が多い。信秀は隣にいる信光の方を振り返って見た。信光には先程までの吉法師との話でその意味が理解出来ている。
「吉、大丈夫じゃ、何かあればおぬしの父は儂が守る」
信秀は信光のこの言葉で吉法師の思いを理解した。
吉法師は自分がこれから向かう清須方と確執が生じて来ているのを知っており、自分の身を案じてくれている。信秀の目に何か込み上げてくるものがあった。信秀はそんな思いを吉法師に気付かれぬ様に、馬首を軍勢に向けると出発の合図を出した。そして信秀は背中越しに吉法師に言葉をかけた。
「吉法師、儂は大丈夫じゃ、だがそなたも弾正忠家の嫡男ゆえ、いつでも覚悟を持って生きる事を忘れずにの」
吉法師はこの言葉の直後、昨夜の父の舞う姿が頭を過り、ふっと笑みがこぼれた。そして父に応えた」
「大丈夫じゃ、父上、父上からの覚悟の舞、あれは忘れたくても忘れられぬ」
「舞?」
信光と政秀の二人は何の事か分からなかった。これまで信秀が舞を嗜むと言うのは聞いた事が無い。二人は顔を見合わせて不思議がっていた。
信秀の周囲で行軍の陣形が整えられていた。先行の足軽が行く手の確認で足早に動き出すのと同時に、旗差しの足軽と選りすぐりの強靭な体つきをした槍隊が護衛の囲いを作っている。造酒丞がその中で慌ただしく隊列の指示を出している。信秀は馬を数歩だけ歩ませた後、今一度止め吉法師の方を振り返って言った。
「舞の方は忘れてよし」
信秀は吉法師の言葉にこいつめ、と思いながらも、確実に弾正忠家の嫡男として成長している事がうれしかった。信秀と吉法師はお互い笑い合っていた。
「じゃあな」
そう言うと信秀は待機していた軍勢の中心に向かって馬を歩ませた。そしてその軍列は清須に向かって動き始めた。部隊の先頭に造酒丞がおり、こちら向かって手に持った槍を振っている。吉法師は軽く手を上げて合図を返した。その後の護衛の中心に、一際大きな馬に跨った信秀がいた。
織田弾正忠家の威厳高き立派な軍勢であった。昨日は戦の直後という事もあり疲弊した様相があったが、今日はたくさんの旗指物が並び、尾張を代表する事実上の立派な領主の軍勢となっていた。吉法師はその中心で大きな存在となっている父の姿をいつまでも見送っていた。
そこには最高にかっこいいと思える父の姿があった。いつか自分もあの様に多くの軍勢を率いる日が来る。そのためには先ず覚悟を固めるための準備から進めていかなければならないと思っていた。