第六章 継承 濃尾の覇権(16)
吉法師たちは小七郎の案内のもと、隣家の大橋家に向かうことにした。舞小屋の前に見える塀の向こう側はもうその大橋家だが、その入り口の門まではだいぶ距離があり、頑丈に見える塀と共に掘割が続いている。津島最大の商家である大橋家の屋敷は物流倉庫としての拠点を兼ねると共に、城塞の様な造りとなっていた。
「塀の方から何やら視線を感じる」
「何か監視されているみたいだ」
内蔵助と犬千代が歩きながら壁の方からの気配を感じ取り呟いた。その二人に対し小七郎が応える。
「最近津島では謎の盗賊団が蔓延っていて集団の接近に対しては警戒を強めているのです。恐らく壁の向こうでは我らの認証を取っているかと思います。ま、ここは私が一緒にいるので大丈夫と思います」
(そうか、それで・・・)
吉法師はその話を聞き、なぜ舞小屋でひばりが弟の小七郎に一緒に付いて行く様に伝えたかという意味を理解した。確かに所々の壁の隙間からは自分たちを窺う様子が感じられる。集団の先頭に小七郎がいることで身元の保障が行われている様な感じであった。
三左と御船は小七郎が口にした謎の盗賊団の話について反応した。
「儂のとこの家の再起を掛けた物資を奪ったのもきっとそいつらじゃな」
「私たちが盗まれた荷物もその盗賊団の仕業かも知れないわ」
憤る二人は実際に盗みの被害を受けている。その二人の話を聞いていた熱田商家の加藤又八郎が話を続けた。
「熱田でも盗賊団の話は良く耳にする様になりました。我らも警戒態勢を高めているところですよ」
しかしその加藤家の警戒態勢を体験している皆はその動機に対して同意できない。
(加藤家のあれは単なる趣味じゃろう)
(警戒というより突破競技の会場じゃな)
(屋敷を魔改造して遊んどるだけじゃ)
(余計な仕掛けまで施しおって・・・)
最後に同意できなかったのは実際の屋主である又八郎の父図書助であった。図書助は自分の屋敷で又八郎が仕掛けたからくり仕掛けに引っ掛かっていた。
図書助は又八郎の言葉に苦々しく思いながら吉法師に近寄り耳打ちをした。
「吉殿、ぬしはこのまま大橋家に行っても良いのか?」
そう囁く図書助に吉法師が振り返る。
「吉兵衛は終わりかも知れぬが、その時はその時じゃ」
吉法師は図書助に笑顔を見せた。
大きな屋敷の門に着くとそこには大きな垂れ幕が掲げられており、それを目にした一行は皆一様に驚きの表情を見せた。三左が声を上げる。
「吉兵衛殿は本当にすごい方じゃのぉ、この様な大きな屋敷で突然の訪問にも関わらずこの様に歓迎されるとは?」
垂れ幕には大きな文字で「歓迎吉兵衛殿」と書かれていた。
(そんなばかな・・・)
吉法師は困惑した。
織田弾正忠家嫡男の公式訪問であればこの様な歓迎は考えられる。しかし此度は偽名を使った突然の訪問である。もし自分たちがこの入り口の門に辿り着くまでに、自身の照会と偽名への忖度、そしてこの垂れ幕までの対応までが成されているとしたら、それは驚異的な情報収集力、解析力、対応力が発揮されていることになり、現実的なものとは思えない。
自分のことである筈がない。しかし可能性が全く無い訳では無い。吉法師が困惑する中で小七郎は門番の男に家主の大橋清兵衛への面会を求めていた。
「舞小屋の方に来られた吉兵衛という方の一行をお連れ致しました。何やら湯殿にてお困りの様子、清兵衛様に御目通りを・・・」
するとその小七郎の話が終わらぬ内に家主らしき貫録のある男を先頭にして屈強な体付きをした屋敷の者たちが大挙して集まって来た。小七郎が驚きながらも挨拶の言葉を述べる。
「き、清兵衛様、早速の御目通りにて恐悦です・・・」
しかしその挨拶もほどほどに家主の清兵衛は小七郎の隣に立つ吉法師に声を掛ける。
「遅かったでは無いですか、吉兵衛殿、なかなかお見えにならず心配しておりましたよ!」
思いも寄らぬ対応に小七郎は困惑したが、同時に吉法師も別の思いで困惑していた。
(やはり全て知っているのか、何と言う大橋家の情報収集力、恐るべし!)
しかしその時勢い良く話し掛けた清兵衛も、吉法師の姿を実際に見て困惑顔を見せた。
「あれ、吉、吉、吉???」
(吉兵衛ではない、吉法師ではないかー???)
家主の清兵衛は以前吉法師と面識がありその顔を覚えていた。現れたのは待っていた吉兵衛ではなく、織田弾正忠家嫡男の吉法師、なぜ吉法師が吉兵衛と名乗って訪れるのか、それを確認してはいけない事情があるのか、今行われている美濃への出兵と関係があるのか、本物の吉兵衛は何処に行ったのか、何か我々が待つ吉兵衛と関係があるのか、内心清兵衛は一度に様々な混乱を生じさせていた。
すると清兵衛に代わって、一人の屋敷の使用人の若者が吉法師に向かって声を上げた。
「ぬしは我らが待っておった吉兵衛殿ではござらぬ、何者じゃ?」
その若者は実際の吉兵衛を良く知っている様であった。訪れた集団には小七郎が同行して来ているが、屋敷の門の中まで来ている以上、はっきりした身元の照会が得られない限り警戒を怠る訳には行かない。武器の構えを見せる者もいる中で、それに対抗する様な重厚な槍を手にしている三左が答える。
「ぬしらは知らぬのか、こちらの方は尾張にその人ありと謡われた味噌問屋の吉兵衛殿ぞ!」
その言葉に屋敷の者たちが騒めく。
「味噌問屋の吉兵衛?」
「おい、おまえ知っておるか?」
「知らん、誰ぇ?」
「有名なのか?」
屋敷の誰もが知らない。言ってしまえばそう語っている三左も知らない訳で、屋敷の誰もがその様な吉兵衛を知る由が無かった。周囲の吉法師への不審感が増していく。
「怪しいのぉ、清兵衛様、この者たち一度捕まえた方がいいのじゃないですか?」
その声に屋敷の者たちと吉法師たちの間では緊張感が高まっていた。
「味噌問屋の吉兵衛殿は熱田では有名じゃぞ、なぁ」
危険な雰囲気を察して又八郎が口を挟む。熱田商人の自分がそう言えば信頼が得られるかも知れない。その言葉に子供衆の皆が必死に首を縦に振るが屋敷の者たちの疑いは晴れない。
「儂は大の味噌通じゃが、味噌問屋の吉兵衛は聞いたことが無い」
「だよな、儂も聞いたことない」
「実はこの屋敷の乗っ取りが目的ではないか?」
「美濃からの手先であろう」
「小七郎、おぬしは上手く使われておるのだ」
気が付くと屋敷の者たちは全員武器の構えを見せていた。するとそれを見た家主の清兵衛は慌てて屋敷の皆に伝えた。
「まぁまぁ、吉兵衛さん違いの様だが、こちらの吉兵衛さんも特に悪い方たちでは無さそうだし、後ほど要件を伺いましょう」
弾正忠家の吉法師に何か手を出すようなことがあってはならない。しかし吉法師が偽名を使ってまで現れている以上、その意図が分かるまでそれを公言して偽名の意味を失わせる様なことも出来ない。清兵衛は吉法師に忖度しながら懸命に他の者たちとの緊張の緩和に努めた。
「御館様がそう言われるのであれば・・・」
その清兵衛の計らいに少し周囲の緊張が緩和されていった。しかしその次の瞬間であった。
「一体何事ですか!」
それは騒ぎを聞いて駆け付けて来た若い女性の憤りの声であった。その声と同時に屋敷の屈強な男たちが慌ててその場にひれ伏する。その女性はまだ二十歳にも満たない年頃であったが、この大橋家で圧倒的な力を見せ付けていた。その光景は他の者が見れば驚愕するものであったが、吉法師が驚くことは無い。その吉法師を目にした女性が更に声を荒げる。
「吉法師ではないですか!あなたはここで一体何をしているのですか!」
「御無沙汰しております、姉上」
その女性は弾正忠信秀の娘にして吉法師実姉のくらの方であった。くらの方は武士の娘ながらこの津島豪商の大橋家に嫁いでいた。この時武士と商人の婚姻は珍しく、権益と治安を意識した政略的なものであることは明らかで、くらの方は実家である織田弾正忠家の力を背景に完全に家中を掌握していた。
そしてこの時の会話は二人の関係性を知らぬ者たちにとっては衝撃的なものであった。御船が状況を良く理解できずにいる中で、三左と小七郎は口を大きく開けて驚愕の様子を見えていた。
(なにー、こやつ、吉法師って、あの織田弾正家の嫡男か?)
(えぇ、この人くらの方さまの弟君なの?)
織田弾正忠家の嫡男が美濃との戦中にお忍びで津島を訪れている。二人は首を捻りながらその意味を考えた。そして二人は共通の答えが思い浮かべる。
(吉法師、噂通りのうつけじゃん!)
吉法師の武士らしからぬ奇行の噂は二人も聞き及んでいた。この行動もうつけだからという答え以外に納得のしようがない。しかしくらの方にとっては、その様な答えで吉法師の行動を納得する訳にはいかない。
「吉法師、あなたは何故この津島に来ているのですか、今がどの様な時か分かっているのですか、一体その武士らしからぬ格好は何なのですか、その一緒に連れているどろどろしたのは何なのですか?」
その捲し立てる物言いは実母の土田御前によく似ている。
「それは勝三郎ですよ、姉上」
たくさんの質問の全てを一度に返すのも面倒、吉法師は最後の質問の一つだけを簡単に答えた。その回答にくらの方は驚く。
「はっ、勝三郎?」
くらの方も幼少期から乳兄弟として吉法師に仕える池田家の勝三郎のことは良く知っている。くらの方は改めて勝三郎に目を向けて話し掛ける。
「勝三郎、それは何の真似ですか、武家の修行なのですか、あなたのお役目は何ですか、吉法師の護衛と共にその行動を注進しないといけないでしょう、泥んこ遊びしている場合ですか?」
くらの方は勝三郎にも苦言を囃し立てた。すると勝三郎は両手を前に差し出しながら怨めしそうな声で応えた。
「あそ~びじゃぁ~な~いですよ~~~」
「ひっ!」
その勝三郎の暗く呪われそうな物言いにくらの方は強い寒気をもよおした。その一瞬の怯んだ様子を見た吉法師はここぞとばかりに声を掛けた。
「姉上、すまぬがここの湯殿を借りること出来ますか、ちょっと勝三郎を人間に戻してあげたい」
その吉法師の言葉にくらの方は改めて一同を見渡した。吉法師に付く子供衆以外に見慣れぬ者たちがおり、何か複雑な事情があるのだろうと思う。
「湯殿、今時分に用意できておるのか?」
くらの方は背後の付き添いの者に確認した。その付き添いの者は更に背後の者に確認している。そして少しの間の後、湯殿の状態が小声でくらの方に報告される。
「吉法師、運が良いぞ、どうやら吉兵衛と申す者が来ることを心待ちにしていた屋敷の者が今日は朝から湯殿の準備をして待っておったそうじゃ、皆で入って行くが良い」
そのくらの方の言葉に皆の歓喜の声が上がる。
「ありがとうございます、姉上」
礼を述べる吉法師、本物の吉兵衛の訪問にて湯殿が借りられる、という所には何か奇妙な縁を感じる。皆で湯殿に向かおうとする吉法師にくらの方が少し呆れ気味に言う。
「泥まみれの勝三郎に、落ち武者の様な男、泥を被った舞女、ふんどし一丁のへたれ男、ぬしは一体どういう集まりを連れておるのじゃ、まぁ良い、湯殿の後で聞こう」
そう言うとくらの方は屋敷の奥へと戻って行った。
(ん、ふんどし一丁のへたれ???)
誰のことか、もう湯殿に入った気でいる者がおるのか、吉法師はくらの方のその最後の一言を気にしていると、それまでひれ伏して息を殺し存在感を消し去っていた屋敷の男たちがその存在感を復活し始めた。
「あぁびっくりした。突然だったので思わず儂もひれ伏してしもうた」
それは家主でくらの方の夫である清兵衛であった。清兵衛は普段からくらの方に頭が上がらない。彼女が現れた際に自身を囲っていた屋敷の男たちと一緒になってひれ伏していた。
(内室の者が家の内情に口を出す様になると恐いものだな・・・)
吉法師は家主の清兵衛がくらの方に制圧されている様子を目の当たりにして強くそう思った。するとその時、清兵衛の近くから大きな声が上がった。
「吉兵衛様、吉兵衛様ではないですか!」
その声は先程の使用人の若者であった。若者は叫びながら吉法師たち一行の後方へと向かって行く。そこにはふんどし一丁の男が地面にへたり込んでいた。
(ん、誰じゃ?)
それは吉法師の記憶に無い男であった。いつの間に現れたのであろうか、男はかなり疲弊している様で会話も満足にできない様であった。家主の清兵衛もその男に駆け寄り家人たちに指示を出す。
「屋敷の中へ運ぶのじゃ、医者を呼べ」
しかしその清兵衛の前に使用人の若者が男を肩に担ぎ上げ屋敷へと運び始める。
「しっかりしてください、吉兵衛さま!」
他の家の男たちが集まってくる中で、若者は細かい指示を出しながら運んで行った。
吉法師は自分たちの横を運ばれて行く時、吉兵衛と呼ばれる男の顔を覗き込んだ。
(この者が本物の吉兵衛か・・・)
男は二十歳そこそこの成年に見えた。この者がどの様な意味を持ってこの家の重要な客となっているのであろうか、気になっていた。
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その後吉法師らは大橋家の湯殿を借りて汗を流した。その湯殿は広く結と御船がその片隅で体を洗う中で、子供衆ははしゃぎながら湯を掛け合っていた。
「やはり湯殿は気持ちええのぉ」
「そうですね、三左殿」
「お、勝三郎、品の良い感じの人の子になったじゃないか!」
「ははは、三左殿こそ、男前になりましたよ!」
「そうか、ははははは」
三左と勝三郎は本来の姿を取り戻していた。
吉法師はこの時まだ先程の吉兵衛のことを気にしていた。まだ若いながらも門前で歓迎と称している所から、この家にとって重要な人物であることが分かる。武家の者であろうか、それとも商家の者であろうか、何れにせよその様な人物がふんどし一丁でへたり込んでいる状況は尋常とは言い難い。
「あの吉兵衛さんは誰なのでしょうね?」
そう声を掛けて来る四郎もまた気にしている様であった。
するとその時湯殿の外から声が届いた。
「湯加減どうですか?」
それは先程吉兵衛という男を担いで行った使用人の若者の声であった。小窓から外を覗くと薪の煤で顔を真っ黒にしているその若者の姿が見える。
「良い加減ぞ」
吉法師が応えるとその若者は湯殿の罐に薪をくべながら笑顔を見せた。
「それは良かったです。皆さんは運が良い。普段はこの時間に湯殿の準備は行っていません。今日は吉兵衛様が訪れると聞いて朝から準備しておったのですよ」
自分たちが湯殿で体をきれいにする中、その若者は逆に煤と煙で薄汚れていく。しかし彼はその様なことを気にせず、嫌な顔の一つも見せずに相手の満足度のみを気にしている。
「ぬしには単なる面倒でしかなかったかも知れぬ、かたじけない」
湯殿から感謝を伝えるとその若者はまた笑顔を見せている。
「いえいえ、湯殿は人を幸せな気分にさせるものです。皆にその様な気分になってもらえれば自分もこの仕事にやりがいが持てるというものです」
この若者は親身になって他の人のために働き、それを自分のやりがいとしている様であった。それは自己の権益を守ることを生業とし、どうやって人の上に立つかといつ乱世の武家の考えとは逆の発想に思える。
(乱れ無き世を思えば人の心はかくあるべき・・・)
その若者の行動や思いには乱世に臨むもやもやした自分の心を清浄化させるものがある気がする。吉法師はこの若者によって身も心もさっぱりとさせられていた。