第六章 継承 濃尾の覇権(11)
昨晩に振り始めた雨も早朝には止み、津島湊には朝から大小様々な船が集まって地元の産物や諸国の名産品などの取引が行われていた。
人気の高い積み荷を有する船の周りには多くの商人たちが価格交渉を求めて集まり、近くでは馬借の者たちが荷物を船から荷車へと載せ替えている。それは津島湊が東西の諸国を結ぶ物流拠点としての重要性を示す光景であった。
その時吉法師たちを乗せた船は船着き場の片隅に着岸しようとしていた。
(あそこは・・・)
船上から湊の様子を眺めていた吉法師は桟橋の横に掛かる橋を見つけた。それは以前、吉乃と一緒に津島天王祭で飾られた巻藁船を眺めた橋であった。
(吉法師さまの目標は天下の再構築ですわ)
巻藁船の灯りの中でそう説く吉乃の言葉を思い起こす。
天下の再構築、それは今自身がこの世の生を以て成す目標となっていて、覚悟の舞として定めた敦盛と共に自身の根本となっている。
(吉乃、津島に来ているかな・・・)
吉乃の笑顔と共に稽古場で舞うその姿が思い起こす。
天王祭の後また会いたいと思いながら過ごしてきたが、その後津島を訪れる機会を得られずに月日が経っている。此度の津島への訪問で友閑先生の舞の稽古場を訪れることが出来ればまた吉乃に会えるであろうか、吉法師はその様なことを思いながらぼうっと橋を眺めていた。
「何をお考えなのですか?」
突如横からそう問われた吉法師は振り向いた瞬間思わずドキッとした。そこには朝日の閃光と共に吉乃の顔があった。しかしよく見るとそれは熱田から一緒に来ていた結であった。被る筈のない二人の顔、吉法師は少し動揺を見せながら結に応えた。
「い、いや、此度の美濃攻めで尾張衆は大丈夫かなぁと思うておったのじゃ」
しかしその吉法師の応えに結は顔をしかめた。結はこれまで見ることのない表情をしていた吉法師が気になり問い掛けていた。そのぼうっとした顔つきはとても戦の状況を気にしてのものには見えなかった。
「あ、えぇと・・・」
吉法師は更に説明を補おうと思ったが、繕う言葉が思い浮かばない。何か心情を探ってくる結にそれ以上の話を続けられずにいた。
「さぁ、着きましたよ!」
するとその時船上に堀田孫右衛門の津島湊への到着を知らせる声が響き渡った。その声に吉法師はすかさず反応して結に声を上げる。
「よし、結、船から降りるぞ!」
「は、はい・・・」
吉法師は結の手を掴むと、話をごまかす様に下船に向かって行った。
真っ先に船から飛び降りる佐々内蔵助、前田犬千代、織田九右衛門、池田勝三郎、加藤弥三郎の子供衆に吉法師と結、千秋四郎が続き、最後に弥三郎の兄加藤又八郎と父加藤図書助、そして美濃商人の堀田孫右衛門が降りる。
その後桟橋を渡っていると、弥三郎が湊の右方ではためく幟旗を見て兄の又八郎に声を掛けた。
「兄者、展覧会の会場はあそこではないのか?」
そう言って弥三郎が指差す幟旗は武具の展覧会の場所がここであることを知らせている。それを見て又八郎は背後にいる父の加藤図書助に問い掛けた。
「父上、展覧会の会場は湊のすぐ近くではないですか、なれば父上も寄って行けるのではないですか?」
武具の展覧会の方は任せて自分は出雲から訪れる興行舞の観覧に行くと言っていた父であったが、展覧会の会場は思いのほか湊に近く、興行舞の前に一回りする程度の時間は十分ある様に思えた。
「・・・」
しかしその又八郎の問い掛けに対して父図書助の応答は無い。
「あれ?」
又八郎は背後を振り向いた。しかしそこにいた筈の父の姿が何処にも見当たらない。
「あれ、いない!」
その又八郎の様子を見て子供衆の面々が話し掛けた。
「図書助殿なら先程向こうの方に飛んで行ったぞ」
「あっと言う間に飛び去って行った」
「どうやったらあの様な速さを会得できるのじゃ」
「あぁ、人間業とは思えぬ速さだ」
この時既に加藤図書助は出雲の興行舞の観覧に向けて消え去っていた。
「まったく父上は!」
子供衆には尋常の人間業では無いと感心される中で、嫡男である又八郎は呆れていた。
吉法師たちは桟橋から上がるとさっそく皆で武具の展覧会の会場に向かうことにした。
バシャッ
路面には早朝まで降り続いた雨で、あちらこちらに水溜まりが出来ている。
「おい、そこの石の上滑るぞ、気を付けよ」
「そんな、大袈裟じゃろう、うわっ!」
「ほら、だから言ったであろう」
「あちらこちらに水溜まりができておるなぁ」
「気を付けた方が良いのぅ」
子供衆が道を歩きながらその様な会話をしている時であった。
ドシャー!!!
吉法師たちの目の前を通り掛った荷車が濡れた石に態勢を崩して横転し、運んでいた荷物をひっくり返した。
「ははは、ドジな馬借たちだなあ」
「ならぬことだ、未熟としか思えぬ」
「あれは起こすのは大変そうじゃな」
「どれ、皆で立て直しを手伝って上げるとするか?」
「そうですね」
吉法師たちはそう言いながら荷車を起こすのを手伝おうと歩み寄ろうとした。しかし数歩寄った所で一度立ち止まると、そのまま荷車の横を通り去った。その荷車を運んでいたのは五人の僧衣を纏った者たちだったが皆体つきが良く、その中の二人は金剛杖を手にしていて、何か他人が近付くことを拒む雰囲気が感じられた。
吉法師たちは少し離れた所に移動すると、それぞれ木や岩の影に身を隠して彼らの様子を窺った。
(あの者たちは一体・・・)
そう思いながら吉法師は彼らが運んでいる荷物に注目した。すると荷車から崩れ落ちた木箱の隙間から大量の銭金に交じり古風な刀剣や仏像らしきものが見えた。その後僧衣の五人は終始会話無く、雑多に荷物を積み直すと早々にその場を立ち去って行った。
「何じゃ、あれは?」
皆がその彼らの行動に何か不審なものを感じていた。
「何か近寄るなという雰囲気が出ていたよね」
「あぁ、荷物を人に見られたくないという雰囲気であった」
「密かに仏法宝物でも運んでおるのかのぉ」
「いや、それにしては運び方が雑だろう」
「うん、何か怪しい」
不審なもの感じつつもそれ以上に追及する理由は無い。吉法師たちは僧衣姿の者たちの怪しさを囁きながら、武具の展覧会の会場へと向かって行った。
展覧会には領地を管理する武士だけでなく、地方の商人のほか、寺社を護る僧兵や地域の有力農民など、多くの職種の者たちが訪れていた。
「ここに来るのは武家の者たちだけではないのだな」
「皆自衛のためにも武具が必要ということか」
「我らも九右衛門と弥三郎の実家は商家、四郎殿は熱田の大宮司家だしな」
「戦の世だな、皆が戦っておるというのが良く分かる」
「しかし皆が武器を持ち続けるとなるといつまでも世は乱れたままだなぁ」
自分たちの権利に対する防衛や地域の治安維持のために武具を必要とする。戦乱の世においてそれは武士に限ったことではなかった。
会場の様子を見ていた又八郎が孫右衛門に問い掛ける。
「今回尾張衆の美濃攻めで津島湊の治安は心配だったけど大丈夫の様だね」
又八郎が商いの拠点としている熱田湊は織田弾正忠のお膝元として外敵に備えた治安が強く維持されているが、少し離れた津島湊は美濃との境に接しており、此度の美濃への出兵で治安の悪化が懸念されていた。
「まぁ、そこは商いの独立性だね」
又八郎の問い掛けに孫右衛門は笑みを浮かべて答える。
「会場の向こうに見える槍刀は有名な美濃関の物でその利の一部は美濃方へ行くが、この湊での利の一部は信秀様の懐に入る様になっている。つまり津島での商いは双方に利があるのじゃ」
「なるほど、商いは独立性が必要で、中立の立場であれば双方から利が取れると同時に双方の利になる、ということなのだな」
又八郎は熱田とは異なるその商いの様子に感心していた。その二人の話を聞いていた吉法師は横から話に割って入った。
「商人としてはどちらの国に肩入れするということは無いということか?」
自国の商人は自国の領主を支援するもの、単純にそう思うがそれは武家側の勝手な思い込みなのであろうか。その問い掛けに孫右衛門が答える。
「吉兵衛どの」
その呼ばれ名に対し背後で子供衆のクスクスと笑っている声が聞こえ、自身も違和感を覚える。今の自分は美濃向け商人の孫右衛門に対して味噌問屋の吉兵衛と身元を伏せている。
「我らは美濃向けの商人であるが、我らも常に他の美濃向け商人との競争をしているのですよ。商いの基本は良い所から良い物を仕入れ、その価値を高く見てくれる所に利を付けて売ること、そこに何か制限を設けた者ほど不利になってしまう」
それは商売で成功するための商人としての心構えであった。商売の成立に関して、余計な感情や制限事項を設ければ商人たちの間の競争に負けて不利益を被ることになる。
「我らにとって武家の戦は利の追及に利用するものなのですよ」
孫右衛門はそう言って少し厳しい表情を見せた。
(商人は商人同士の中でまた戦いを繰り広げている・・・)
吉法師は孫右衛門の話を理解していた。武家の戦を商家の利に変えている孫右衛門、しかし商人の皆がその様な心構えを持って行っている訳ではない。又八郎が話を添える。
「濃尾は木曽川を挟んで東西と北に山が連なり、南に海が開ける土地柄、気候も人の流れも共有すること多い。この二国の間は平和でありたいものです」
吉法師はその又八郎の言葉に何かホッとするものを感じた。
「確かにそうだな」
それは商人という前に、人の生活への思いとしての言葉であり、非に値する所は微塵もない様に思う。その又八郎の言葉に孫右衛門もまた生来の人の良さを印象付ける笑顔を見せた。
「又八郎の言う通り、平和が一番じゃ、平和になったらまた我らの商いもその中身を変えればならぬな、うん、その時は何を扱うかな」
武具の展覧会を前にして、濃尾二国の平和への思いは三人に共有するものとなっていた。
やがて吉法師たちは一つの展示場を訪れた。そこには最新兵器として一挺の鉄砲が展示されていた。その鉄砲は以前孫一に見せてもらったものとは異なり、重厚で高価な宝飾品の様な作りになっている。真剣にその鉄砲を見つめている内に、戦場において圧倒的な破壊力を示す活躍の印象が芽生えてくる。吉法師はその展示の前に釘付けとなっていた。
(この鉄砲で一つの部隊が編成できれば弓隊の補強となり中長距離射撃で優位となる。逆に敵方の方が多く持てばこちらは不利になる、まさに天下を治めるための宝となる武器・・・)
それはまさに戦場での宝物の様な存在に思えた。真剣な眼差しで鉄砲を見つめる吉法師に、展示場の担当者と思われる男が声を掛けてきた。
「小僧、目が良いのぉ、それは最新の鉄砲ぞ」
男は吉法師のことを商家の子と思っている様であった。興味で訪れた子供に商売としての鉄砲の話をしても仕方ないが、いつまでも目玉展示物の前に凝視しながら居座られても困る。男は少し相手をして早々に帰したいと思いながら声を掛けていた。次の瞬間、吉法師はその男の方を振り向くと語調を強めて言い放った。
「この鉄砲欲しい、百挺ほど売ってくれ!」
しかしその瞬間、吉法師は自分であっと思う。
(しまた、今の自分は味噌問屋の吉兵衛だった)
改めて今自分は身元を伏せていて、味噌問屋の吉兵衛を名乗っていることを思い出した。味噌問屋の嫡男の子が鉄砲百挺を所望する。それはあまりにも場違いな要求であった。その場の空気が固まり、子供衆たちは身元バレを危惧する。
(き、吉法師さま、鉄砲百挺って!)
(味噌問屋に鉄砲は関係ないでしょう!)
(身元ばれちゃうじゃないですか!)
(まさか新しい鉄砲を使った味噌作りの開発をするとか!)
(八丁味噌の次は鉄砲百挺味噌作るとか言うのか?)
吉法師は美濃商人の孫右衛門の表情を窺った。この男に自分の身元がばれたかも知れない、その懸念の中で展示の男は吉法師に笑顔を見せた。
「ははは、小僧、鉄砲は一挺四百貫もするのだぞ、大丈夫か、払えるか?」
男は吉法師の発言を価値の良く分からない子供が玩具程度として考えたものと思っていた。
「ははは、冗談に決まっておろう」
真剣に捉えられずに逆に助かったと思う。吉法師は笑いながら冗談と言ってその場を濁し先の発言をごまかした。展示担当の男はそれで問題無さそうだが、孫右衛門の方は笑みを浮かべていてごまかせているのかどうか分からない。もしここで新たな問い掛けを受けると、身元バレの危険性が高まる気がする。吉法師が困惑しているとその様子を見ていた四郎が声を掛けてきた。
「吉兵衛さま、あちらで鉄砲の試射が行われている様ですよ、見に行きませんか」
「お、実際に撃っている所を見ることができるのか、又八郎殿、見に行きましょう」
吉法師は空かさずそう言って又八郎を試射に誘った。それは状況を思慮した四郎の提案であったが、この場をごまかすのに最良の手段となる場面替えであった。
(助かったぞ、四郎!)
吉法師は四郎に感謝の笑みを見せると、四郎もまた片目を瞑り返礼の合図をして見せた。吉法師は皆で鉄砲の試射場へと向かうことにした。
その試射場は展示場所から少し離れた所に設けられていた。
パーン
鉄砲の発砲音と共に白煙が立ち込めている。そこでは二人の中堅の武者が試射を行いながら鉄砲製作責任者の男から鉄砲の紹介を受けていた。
パーン!
二人は鉄砲の操作に集中していたが、吉法師たちが集団で近寄って行くと顔を向けていた一人の武者がその接近に気付いて声を上げた。
「あれっ、吉ちゃーん!」
その声にもう一人の男もこちらを振り向く。二人は織田造酒丞と佐々隼人正であった。
吉法師は遠くから声を掛けてくる造酒丞の声に驚きの表情を見せた。新たな身元バレの危機、そう思った時、咄嗟に身を翻して堀田孫右衛門に話し掛けた。
「と、ところで孫右衛門どの、この鉄砲玉や火薬は何処から調達されておるのかのう、無くなると困るからのう」
その話し方には明らかに動揺している様子が窺える。織田造酒丞と佐々隼人正の二人は小豆坂の戦いの七本槍に選出されて以降、武勇を誇る武者として尾張では知らぬ者はいないという存在となっている。その様な二人と話を交わせばすぐに正体がばれてしまう。新たな身元ばれの脅威となっていた。
「鉄砲玉や火薬が無くなったら単なる穴の開いた棒だからのぉ」
そう言って吉法師が孫右衛門と話をしている間に、子供衆の九右衛門と内蔵助が二人に走り寄り耳打ちする。
「父上、吉法師さまの隣にいる者は美濃御用達の武器商人でして、今吉法師さまは今あの者に対して身元を伏せておられます」
「味噌問屋の吉兵衛ということになっておるから、口裏合わせを頼むぞ、兄上」
九右衛門と内蔵助はそれぞれ織田造酒丞と佐々隼人正の子と弟であった。
「味噌問屋の吉兵衛、何じゃそりゃ?」
「よう分からぬが、先ずは承知した!」
身分を伏せるにしてもなぜ味噌問屋なのかと思う。しかしその脈絡の良く分からない展開が如何にも吉法師らしい。二人は笑顔を見せながら了解を伝えると、改めて近寄ってくる吉法師に話し掛けた。
「吉っちゃん、こないだの味噌は最高だったぞ!」
「塩加減が絶妙でしたよ、さすが世に知れた味噌問屋の吉兵衛さん」
吉法師はその二人の話を鬱陶しく思った。二人は口裏を合わせてくれているが何か妙にその会話はわざとらしくうさんくさい。
(もう、味噌話は要らぬのに・・・)
吉法師は憮然とした表情で頷いた後、二人に鉄砲の具合を訊いた。
「で、鉄砲はどうじゃ、いや、如何ですか、お武家さんの戦場では使えそうな代物か、いや、代物なのでしょうか?」
一流の武士である二人の鉄砲に対する見方は非常に参考になると思う。吉法師は上から目線なのか下から目線なのか定まらない妙な物言いで二人に訊ねた。二人はその吉法師の話し方に対して吹き出しそうになりながら応えた。
「遠距離武器としては凄いものがあるぞ、距離一間であれば簡単に鎧を貫く。破壊力は弓矢の比でない」
「えぇ、ですが連射が効かぬ上に高価な値段、しかも雨では使えぬとなると今のところ戦場での利用は限られるかな」
二人の鉄砲の見方に対して、一緒にいた鉄砲製作責任者の男が話を加える。
「鉄砲の価格は今基本的な生産工法が確立してきた所で、これから大量生産が進むと同時に下げていくことができましょう。それに雨に強い素材の開発なども行っておりますから、性能の方もこれからどんどんと上がって行きますよ」
鉄砲の製作は日々進展している。男はその事業に対して自信を持っている様であった。
「なるほど、それであれば今後も定期的に話をしたいものだな」
吉法師はそう言いながら、二人の試射の様子を食い入る様に見ていた。
その後、一連の鉄砲の試射と見聞を終えた後、勝三郎が話し掛けて来た。
「吉兵衛さま、吉兵衛さま、向こうで美味い物産物展をやっていますよ、ついでに寄って行きませんか?」
吉兵衛の名を連呼する勝三郎を不快に思うが、勝三郎が指差す産物展の方からは美味そうな匂いがして寄って行きたいと思う。
「うむ、又八郎殿、行きますか?」
「そ、そうだね」
ちょうど腹も空いてきた所だった。吉法師たちは鉄砲の見聞を終えて、産物展の方に向かうことにした。その様子を見ていた造酒丞は試射を行っていた鉄砲を置くと隼人正に向かって訊ねた。
「我らもそろそろ行くか?」
「そうですね、もう充分試し撃ちしましたからね」
試射を終えた織田造酒丞と佐々隼人正は責任者の男に礼を述べると、そのまま吉法師たちと共に鉄砲の展覧会の場を離れることにした。堀田孫右衛門はその様子を見て又八郎と皆に話し掛けた。
「又八郎、皆の衆、私はこちらの兵衛四郎殿と別の商談について話がしたいので、皆とはここでお別れです」
その時孫右衛門が名を示したのは先程の責任者の男であった。又八郎はこの男は重要人物なのかも知れない、と勘繰りながらも笑顔を見せて応えた。
「了解だ、孫右衛門、此度は色々バタバタしたが、また今度ゆるりと話を交わそうぞ」
挨拶を交わす二人の横で吉法師は安堵していた。
(やれやれ、ようやく味噌問屋の吉兵衛を卒業だ)
孫右衛門が離れることで吉兵衛から本来の吉法師に戻ることができ、身元がばれてはいけないという緊張感から解放される。吉法師はやれやれと思いながら子供衆を引き連れて試射場を離れようした。するとその時背後から孫右衛門に最後の挨拶の声を掛けられた。
「また会える日を楽しみにしておりますよ、吉法師さま」
「おう、また会おうぞ!」
即座にそう返答した吉法師であったが、少し間をおいてその挨拶に込められた違和感に気が付いた。
(ばれておるではないか!)
いつからであろうか、孫右衛門は自分が吉法師であることを知っていた様であった。吉法師はずっと味噌問屋の吉兵衛を名乗っていたことを間抜けに思い、苦々しい表情を見せながらその場を後にした。
反対に笑顔で吉法師を見送った孫右衛門はその後表情を変えると、吉法師の後に続く造酒丞と隼人正に話し掛けた。
「お二方とも、美濃攻めはお気を付けください。一丸となっている美濃は強いですよ」
それはこれから美濃攻めに参加する二人への忠告となる言葉であった。
これに対して造酒丞と隼人正は何も応答せず、無言のまま吉法師の後を追って行った。この孫右衛門という者は自分たちがこれから美濃に向かうことを知っている。この者は商人であり直接的な敵となる相手ではないが、情報戦という意味の上では敵方におり安易な話の対応はできないと思っていた。
「もう美濃攻めの戦は始まっている!」
そう思わせる一言であった。