第二章 敦盛(5)
吉法師は古渡の城の奥の間で、久し振りに母の土田御前や弟の勘十郎と家族の会話をしていた。その主な話は吉法師の那古野の城主としての暮らしであった。那古野はどの様な所か、どの様な人がいてどの様な事をしているか、そんな兄の話を勘十郎は興味を持って聞いていた。
「兄じゃはいいなー」
吉法師の話している中、勘十郎は羨ましそうにしていた。
「何がじゃ」
問い返す吉法師に勘十郎が妬む様にして問う。
「だって、兄じゃはもう城主さまで、偉くて、たくさんのご家来がいるのでしょう」
「それはそうだけど」
吉法師はそう答えながら横にいる母の土田御前にちらっと目を向けた。
自分からすれば母といつも一緒にいられる勘十郎の方がいいなと思う。自分はまだ子供でありながら子供としていられる時間が無い。織田弾正忠家を継ぐ嫡男として、厳しい鍛錬や勉学を経た後は一生をかけた重い責任が待っている。勘十郎と比べて母との思い出が希薄となっているが、これからも希薄なままなのだろうと思う。
「勘十郎の方がいいと思うけど……」
吉法師はぼそっと答えた。誰にも聞こえない様に呟いたつもりであったが、目の前の勘十郎に聞こえていた。そして勘十郎にはこの吉法師の言葉の真意が分からない。
「えぇ、何で、どうして、ねぇねぇどうして」
勘十郎は執拗に吉法師に問い質した。しかし母といつも一緒にいられるという様な事など、言えるはずもない。吉法師が押し黙っている中で勘十郎は何度も聞き返す。あまりのしつこさに困り果てた吉法師は一言また呟く様に答えた。
「子供でいられるから……」
その答えは心意的に深いもので、理解できない勘十郎はふてくされた表情を見せた。
「何それー、兄じゃだってまだ子供じゃないかー」
勘十郎は吉法師が自分に比べ子供だと言った様に捉えていた。それほど自分と歳の違わない兄の吉法師が家の嫡男で、一城の主で、たくさんの家来を従えている。勘十郎はこの大きな身分の差が妬みとなっている状況の中で、更に自分が子供扱いをされた事に対して対抗心を生じさせていた。
しかし一緒に会話をしていた土田御前は、吉法師のこの言葉の意味を理解していた。吉法師はもうこの歳にして一人前の領主となるべく日々を過ごしている。この歳にして嫡男としての将来の責任を背負おうとしている姿は何とも健気と思ったが、ここで母としての情をかける事はできない。
「さぁ、だいぶ夜も更けたし、吉法師、今宵はここに泊って行きなさい」
そう言って土田御前は二人の話を閉ざし、後方に控える女中達に一つ頷いて見せた。それを合図にして女中達が一斉に部屋の寝支度の準備を始める。この今日の会話が終いとなる中で、勘十郎は今芽生えた対抗心の捌け口を求める様になっていた。
「兄じゃ、最近私も刀術の鍛錬をする様になったのですが、皆にうまいうまいと褒められるので、ぜひ兄じゃにも見ていただきたく、明日の朝、手合わせをお願い致します」
自分を子供扱いする兄を見返したい。勘十郎は吉法師に刀術の手合せを求めた。
吉法師は最初この勘十郎の申し出についてあまり気が進まずにいたが、何はともあれ実の弟のことである。普段会う機会もあまり無く、面倒を見るつもりで軽く頷いてみせた。吉法師の承諾に勘十郎が喜ぶ。
「よぉし、明日は勝つぞー、兄じゃにー」
兄を倒して見返してやろうと勘十郎は意気揚々にはしゃいだ。そんな勘十郎を見て、吉法師はまだまだ子供だなと思っていた。
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その後、吉法師と勘十郎は布団を並べて床に就いた。勘十郎は直ぐに深い眠りに入った様であったが、吉法師はなかなか寝付けずにいた。
その要因は今頃になって空腹感が出てきた事、いつもと異なる寝床などがあったが、何よりも戦死した那古野弥五郎の骸の姿が生々しく、何度も脳裏に蘇って来て眠りを妨げていた。その後で沢彦和尚の生きるも死ぬるも幻、という言葉を繰り返し思い出す。
「だめだ、寝付けない!」
夜半吉法師は寝付くのを諦めると布団から起き上がり、勘十郎を起さない様にして静かに部屋を出た。
御殿の廊下には所々に篝火が焚かれており、城内には薄らいだ灯りが通っていた。大広間の方から微かに人の話し声が聞こえるが城内全体は静まり返っており、時折発する廊下の軋む音が妙に気になる。少し気晴らしにと思いながら歩いていた吉法師は廊下の奥の方に灯りが漏れている部屋があるのを目にした。
「あの部屋は確か……」
それは以前この城に来た時、父信秀が政務を行っていた部屋であった。部屋に近寄ってみたものの、未だ父には仕事があり自分の相手が出来る状況では無いかも知れないと思うと、声を掛けることを躊躇う。しかしこの機会を逃せば、次に父と話が出来る機会は何時になるか分からない。沢彦の後は父に聞け、という話も何時になるか分からなくなる。
吉法師は意を決して声を挙げた。
「父上、吉法師です」
「……」
即座に応答がない。しかし中では何人かの者たちがバタバタしている様子が伺える。そして少しの間の後だった。
「吉法師か、入れ」
それは威がこもる父の返事であった。吉法師が少し緊張しながら襖を開けて部屋に入ると、中では右筆の者たちが作業の後片付けをしていた。どうやらこの時間まで父は各所への戦を報告する手紙や、土地の安堵状の発給に追われていた様であった。
「今日の仕事は終いじゃ、吉法師は如何した、眠れぬのか?」
その父の言葉に吉法師は小さく頷いた。右筆たちが片付けを終えて順次一礼して部屋を出て行く。そして最後の祐筆の者が部屋を出て、部屋の中で父と二人きりになった時、父はそれまでの厳しい表情を崩し笑顔を見せた。
「儂も初陣の時などは寝られなかったものよ、ずっと興奮していてのぉ」
父は戦を終えた軍勢を目の当たりにしたことで自分は眠りに付けなくなっていると思ってくれている。父も初陣の時にその様な思いを抱えたのであろうか、だとすればどの様に克服したのであろうか、訊いておきたい、そう思った時であった。
「吉法師、沢彦には会ったか?」
何故か信秀は先程会った沢彦について訊いてきた。吉法師は沢彦の顔を浮かべながら、会話をしていた時の安心感を思い出しながら答えた。
「会いました、沢彦和尚には色々と興味深いお話を頂きました」
「そうか、で、沢彦は何と?」
その父の問い掛けに吉法師は会話の最も印象的であった言葉を浮かべた。
「生きるも幻、死ぬるも幻と」
「生きるも幻、死ぬるも幻?」
父が沢彦の話の意図が掴めず困惑の表所を見せる一方で、吉法師の内心に本来自分が訊きたいことが溢れ上がってくる。
「父上、戦をすれば例え勝利を得たとしても何人もの人が傷つきます。私は戦などで死にとうない。家臣の者も死なせとうないし、家臣の身内の者たちにも辛い思いをさせたくない。されど戦になれば、あの槍の名手と謳われた那古野弥五郎殿ですら討ち死する。どれほど鍛錬しても、どれほど良い槍を使っても誰もが死ぬ時は死ぬ」
吉法師はそう言うとまた俯いて沈んだ表情を見せた。信秀はそんな吉法師の表情を覗いていた。吉法師が将来に向けて恐れているのは将来の領主としての責任と不安であり、その悩みは信秀にも経験があるものであった。吉法師は泣きそうになる所を必死に我慢しながら話を続けている。
「そもそもなぜ戦をしなければならぬのでしょうか、戦をせずに済む方法は無いのでしょうか、自分は将来に向けて何を準備すれば良いのか、父上は子供の時分にどの様なお考えで過ごしておられたか、知っておきたいのです」
将来への心配に感情が溢れる。
「戦に負けて死ぬのだけは、例えそれが幻であっても絶対嫌じゃ!」
最後の吉法師の言葉は悲痛なものであった。信秀は黙って吉法師の言葉を聞いていた。吉法師はこの年で将来の責任に立ち向かおうとしている。そしてその悩みを沢彦にも明かしたのであろう。信秀は沢彦が吉法師に残した言葉を改めて綴った。
(生きるも幻、死ぬるも幻……、そうか沢彦分かったぞ)
信秀は吉法師に今一番必要なことを沢彦の助言から導き出した。それは確かに自分から話すことが効果的なものであると思いながら吉法師に語り掛けた。
「吉法師、今のぬしに必要なのは、良い槍でも無ければ鍛錬でも無い」
吉法師はえっと思うと、顔を上げて父の顔を覗き込んだ。信秀は座ったまま吉法師に近寄ると、吉法師の肩を軽く掴みながら諭す様に言った。
「今のぬしに必要なのは覚悟だ!」
「覚悟?」
それは意外な言葉であった。吉法師が顔を上げて父を見ると、信秀は少し笑みを浮かべながら話を続ける。
「吉法師は知っているかどうか分からないが、幸若舞の中に敦盛という演目がある。敦盛とは源平合戦の折の平敦盛の事だが、彼は一の谷の戦いで勇猛な敵の武将に一騎撃ちを挑まれ、敵わないと覚悟しつつも逃げずにそれを受け入れ、歳十六で討ち死している。演目はその時の相手となった武将が、自分の息子と同じ位の若武者である敦盛を討ち取ってしまった事に衝撃を受け、その人生の無情を表した詩が基になっておる」
信秀はだまって聞いている吉法師を一目見てまた話を続ける。
「若くして戦場で討ち死にした平敦盛、戦えば十中ハ九死ぬという状態、最後の最後という状況の中で最も必要となるのは何か、それは正に覚悟であろう」
頷く吉法師に信秀は吉法師の悩みに敦盛の舞を以て結論付ける。
「吉法師、もしその敦盛の様な死を賭した覚悟を常に持つ事が出来ていればどうか、もはやそれ以上に恐れる物は何もないであろう」
吉法師は信秀の話を聞き入り、遥か昔に実在した平敦盛という人物の最後の心境を深く考えていた。敦盛ももっと生きたかったであろう。しかしもし自分が敦盛だったら、やはり負ける、死ぬと分かっていても武士として同じ事をするだろう。それは確かに命をかけた大きな覚悟だ。もしその様な死ぬ覚悟で臨めば、戦にしても何にしても恐れる事は無くなるであろう。吉法師はこの平敦盛の覚悟に、そして敦盛という演目に興味を抱いた。
「父上、その敦盛という演目、知っておりますか、見たい、すぐ見てみたい、是非演じていただきとうございます」
「何、儂がか、今ここでか、舞などやった事無いぞ」
信秀はその吉法師の要望を聞いた途端、即座に困惑した面持ちとなっていった。しかし対照的に吉法師の表情は敦盛の演目で興味深々となり、晴れやかな面持ちに変わってきている。
沢彦に続く二段階の説明、もうひと押しあれば今日の出来事は今後の吉法師の成長につながる。そう思った信秀は吉法師の要望に是非とも応えたいと思った。
「見様見真似だぞ」
そう言うと信秀は立ち上がり壇上の扇を手にして目を瞑った。何年前だろうか、清州の町中で観た演目だが微かな覚えがある。しかしそもそも自分は舞など興じたことも無い。信秀はその様な舞を即興で吉法師に披露した。
人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり
一度生を受け 滅せぬもののあらざるべきか
吉法師は信秀の舞を一振りも見逃さず、一言も聞き漏らさず見入っていた。なるほど人の一生を幻としながら、その死に面した覚悟を持つ事を詠っている様に思えた。父の舞う姿が深く脳裏に焼き付けられていく。そして舞が終わってからもその言葉の意味を噛みしめていた。
(敦盛、幻、覚悟)
一滴の涙と共に平敦盛の覚悟に共感する。そしてそれが己の覚悟として、心の真髄に染み込んでいく様な気がする。
すると自分の舞に思いが入り込んでいる吉法師の様子を見た信秀が訊いてきた。
「如何であったか、吉法師、儂の敦盛の舞は」
笑顔で問い掛ける父信秀に吉法師は深く息をした後、真剣な面持ちで答えた。
「父上……」
「ん?」
信秀は自分の舞が吉法師に感動させたと思い、そんな自分に感動していた。しかし吉法師から出た言葉は感動の言葉では無かった。
「下手くそじゃー、父上の舞はー!」
がくっとする信秀に吉法師が感想を続ける。
「下手くそじゃー、脳裏に残る下手くそじゃー」
「何度も言わんでよし」
二人は大笑いした。部屋の外まで届く様な声の大きさであったが、夜も深まっている中で誰も気が付く者はいない。信秀は笑いながら、舞について一人の人物を思い立った。
「そうだ吉法師、もしちゃんと敦盛の舞を見たいのであれば、時折都から津島に良い舞の先生が来ておるから、是非訪ねてみるのが良かろう」
吉法師はその言葉を聞いて真剣な顔付きになった。その顔にはもうここへ来た時の不安気な様子は無い。
「父上、ありがとうございます。そう致します。是非その先生より教えをいただき、敦盛を吉法師の覚悟の舞とさせていただきとう存じます」
吉法師は少し畏まった態度でそう言った。沢彦和尚の言う通り、父は良き自分の先輩、悩みもその解決方も共有できる。父の生き方はやはり参考になると思った時、子供の頃は何を考えて過ごしていたが気になった。
「父上、父上は今の私と同じ様な年の頃、何を考えどの様な日々を過ごしていたかのですか?」
すると信秀は少し笑みを見せながら答えた。
「儂か、儂はずっと津島の湊町にいたのぉ、民の中に交じり色々と自分で見て、聞いて、判断して、今のぬしと同じかも知れぬ」
信秀は少し昔を思い起こす様な仕草を見せた後、話を続けた。
「儂の子供の時分は尾張の中でも戦が絶えなかった。儂の親父からは全てをしっかり熟そうとすると方々からの警戒を受け、あらぬ刺客を招くとも言われた、難しい物よのぉ、とにかくいつ無くなるか分からぬ人生じゃ、悔いの無い様に仕事も遊びもいつも全力、無駄にする時間など無しじゃ」
吉法師は黙って信秀の話を聞いていた。自分も同じであろうが忙しい一生になると思った。嫡男の定め、しかしそれも父の生き方を参考とし、敦盛の覚悟を以て臨めば楽しめる様な物になる気がする。
「父上、私も父上の様に楽しんで参りたいと思います」
「うむ、そう、それで良い、がんばれよ吉法師、色々とな」
信秀は最後の色々と、という言葉にこれからの嫡子としての鍛錬や責任、様々な思いを込めて激励する様に言った。その信秀の思いは吉法師に通じている。吉法師はその信秀の言葉の裏にある思いを受けた上で、にやっとした笑みを見せて言葉を返した。
「はい、直ぐに父上を超えて見せますよ」
その言葉に信秀は少し呆れた表情を見せた。悩みが消えて実質的な尾張領主の自分を超えて見せると軽口を叩く様になったかと思った。しかしそこに吉法師が言葉を続ける。
「舞の腕ね」
その吉法師の言葉に信秀は少し拍子抜けをした表情をした。何だ舞の方かと思いながら吉法師を見ると、何やら含みのある様な笑顔で自分の方を見ている。その時、信秀は吉法師が話に舞と領主の両方をかけていると悟った。その瞬間、信秀は神妙な面持ちを見せ、あなどれぬ事をすると思った。
更に吉法師は言葉を付け加える。
「父上、父上の舞を参考に私の舞も始まりまする」
その吉法師の言葉に信秀は今の政務をしっかり執り行い、うまく自分に引き継げと言われている様に感じた。目の前の吉法師の薄笑みを浮かべた様な表情は政務も下手くそじゃ困るぞ、と言っている様に思える。
「そうだな、吉法師、儂もぬしに負けぬ様にせぬとな」
それを聞いた吉法師はすっきりした表情をして立ち上がると、父信秀に一礼した。
「父上、今宵は父上と話が出来て本当に良かった、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
吉法師はもう一度一礼して部屋を出て行った。もしかしたら今の会話は偶然の流れでのものかも知れない、しかしあの表情から吉法師が仕組んだ会話の様な気もする。信秀はこれだけ自分に考えさせる吉法師に感嘆していた。
吉法師は父信秀の部屋を出ると再び勘十郎が寝ている部屋に向かって廊下を歩き出した。父の所に訪れる前に比べすっかり気分は落ち着いていた。敦盛の舞に見る覚悟が、吉法師の悩みを晴らしていた。
「ちゃんとした敦盛の舞が観てみたい」
そう思った時、吉法師は先程の父の舞を思い起こして笑いが込み上げてきた。おそらくそれは全然違う舞なのであろうと思った。