森の歌声
小鹿はまるで陸たちを案内するように、一定の距離で歩いている。分かれ道では必ず行き先が分かるように待っていた。日はとっくに暮れ、木々の間から見える空には、星が輝き始めている。
こんなに森の中にはいるのは初めてだった。まして夜に子ども2人だけだ。当たりは森というより、山に差し掛かっていた。背の高い杉と、枝を広げたケヤキやナラが立ち並ぶ。
「陸、お姉ちゃんの所に行くと思う?」
「おれもそんな気がするよ」
だってあの小鹿は、月乃が野菜くずをこっそりあげていた鹿だから。
山の中が広く平らな道に変わり、ずっと下って行くと、微かに歌声が聞こえて来た。太陽と陸は顔を見合わせた。
やがて深い谷間に辿り着くと、虹色に光る岩肌に声は反響し、はっきり聞こえた。
「月乃の声だ」
その歌は、森のワルツだった。
森が歌い わたしを呼ぶ
赤い木の実 見つけた
小鹿は一本道しかないから分かるだろうとでも言うように、もうずうっと前を歩いていた。ついには岩壁を曲がって見えなくなった。陸が走り出し、太陽もその後ろをついて走った。
陸は小鹿の消えた岩壁で止まり、そっと張り付いた。虹色の岩はひんやりと冷たい。そこへ走ってきた太陽は、勢いで陸にぶつかった。
「何で隠れる訳?」
太陽も陸に合わせて、小声で聞く。
「だって何があるか分からないだろ」
月乃は一週間姿を消したのだ。相手は鹿だけど、もしかすれば危険かもしれない。用心するに越したことはない。
そうして陸と太陽は、岩の陰から除き見た。
そこには、見たこともない、色鮮やかな花たちが咲いていた。赤、黄、橙々、白、紫・・・月と星の青い明かりでも分かるほど色とりどりの、大きな花が揺れている。いや、花だけではない。花と同じ色をした、見たこともない野菜が実っていた。
花畑の向こうに、見慣れた人影が見えた。
白い花 歌うわ
ちょうちょたち 踊るわ
「月乃―――!」
陸が呼ぶと、歌が途切れた。
「陸?」
人影は振り向くと、真っ直ぐにこちらを向いた。やっぱり月乃だ。
「お姉ちゃん!」
太陽は月乃のもとへ走った。夢中で走っているように見えるが、自然と野菜を避けているのは、農家の子らしい。
「どうやってここへ?」
月乃は変わらず、元気そうだ。
「鹿の子について来たんだよ」
太陽は姉に抱きつきながら答える。
「あの子に?」
月乃はある方向を見る。陸と太陽もそちらを見ると、さっきの鹿と大人の鹿が、岩壁のくぼみに寄り添っていた。
「母子なの」
月乃は優しく目を細めて言った。
「月乃はどうしてここで歌っていたんだ?」
「それはね・・・」
月乃は話し始めた。
一週間前、いつものように家の畑で歌っていたの。そしたら、あの小鹿が現れて。わたしは用意していた野菜をあげたんだけど、服をくわえて引っ張るのよ。まだちょっとしか歌ってなかったから、なんとか話してもらおうとしたんだけど、なかなか話してくれないの。
ひょっとしたら何かあるのかもと思って、ついて行ったら、どんどん森の奥へ進んで行ったの。そこで引き返しても戻れる自信がなかったから、もう行くしかなかったわ。そうしてここへ辿り着いたら、母鹿があそこで寝ていたの。でも、具合が悪いみたいで、息が荒かった。背中をつつかれて振り向いたら、小鹿がわたしと母鹿を交互に見るのよ。
わたしはあの子の言いたいことが分かったわ。お母さんのために歌って欲しいんだって。あの子は畑でわたしが歌っているのを知っていたから。わたしが歌ってから、この畑の野菜をお母さん鹿が食べたら元気になったのよ。びっくりでしょ。
だからわたしは、お母さん鹿が良くなるように、歌っていたの。
「お姉ちゃんの歌は、お医者さんみたいな力があるってこと?」
太陽は首を傾げた。
「よく分からないけど、体調が良くなるってことは健康には良いみたい」
確かに、月乃の歌で育った野菜を食べていて、病気になった人は、知っている限りいない。
「じゃあ、月乃はもう帰って良いんじゃないか?」
陸がそう言うと、いつの間にか近くに来ていた子鹿が、月乃の服をくわえた。
「何を言ってるのか、分かるんだね」
太陽は目を輝かせ、子鹿をまじまじと見る。
「困ったわ」
「おまえ、ここまで案内してくれたじゃないか」
話しかける陸を子鹿はじっと見つめ返すが、月乃を放さない。
「もしかして、歌い手を増やしたかっただけかしら?」
「おれは歌えないよ」
月乃はそお?と言うと、いたずらっぽく笑って歌い始めた。
太陽がお山に顔を隠した頃
白い星たちが こっそり集まる
月乃が歌うと、太陽も一緒に歌い始めた。
隣の銀河へ もうすぐ時間だ
何かが始まる さあ 手を取って
月乃は突っ立って見ていた陸の手を取る。
聞こえて来るでしょ 星の歌が
強く響くでしょ 沢山の鼓動が
世界は眠らない 昼も夜も輝く
地球が歌い 宇宙は踊る
月乃と太陽があんまり楽しそうなので、陸もつい、歌ってしまった。
いつの間にか二匹の鹿は寄り添って聞いていた。
と、木の上から同じ旋律が聞こえて来た。
声の主は、白い小鳥だった。
「へぇ、上手いや!」
太陽は思わず、小鳥に拍手した。すると小鳥は、そっくり一曲歌い上げた。
月乃もその歌声に頷いた。
「この子がいれば大丈夫だわ」
ね、と子鹿に聞くと、子鹿はすくりと立ち上がり、虹に光る岩壁に歩いて行った。
帰り道は、見たこともない場所ばかりを通った。一面真っ白な白花畑や、青く澄み切った池、夜に虹のかかる滝...こんな所が森にあるなんて、3人ともちっとも知らなかった。
子鹿について行くと、やがて月乃たちの畑に戻った。もう少しで、夜が明ける。
「道案内、ありがとう」
月乃は子鹿を撫でてやりながら、お礼を言った。仕事を終えた子鹿は森の奥へと帰って行った。
黙って見送っていた3人の元に、朝日が顔を出した。
野菜たちは朝露にぬれ、きらきらと輝いていた。それは3人が見て来た中で、一番美しい景色だった。