ある画家の話 1
ある画家とその同居人の、他愛ない会話です。
まっしろいキャンバスに向かい、さて、と筆を取ったところで。
いつも……その瞬間だけは躊躇ってしまうのだ。
「なんで、色、のせないの?」
背後から聞こえた眠たそうな声に、絵の具のついた筆を、パレットごとスツールの上に置いた。
そうしてから振り返ると、案の上目を擦りながら、ついでに欠伸をしながらほてほてと近寄ってくる同居人が居た。
汚れるからと何度も言ってるのに、スリッパを履かずに裸足のままで。
「スリッパは」
「……ああ部屋だ。ねえなんで、色のせないの?」
さっきから、筆を近づけては離すばっかりしてるけどなんで。
ため息交じりのこちらの声など、まるで風のようにひらりと交わし、(でもそれについて答えてくれるだけマシになったんだと自分を慰めてみる)そうしてあくまでも自分の聞きたい事を聞いてくる。
なんで、って。
すべてに割り切れる理由があると思っている、コドモみたいな。
「キャンバス真っ白だし……どんな色だってのせられるのに」
大きな……それこそ、同居人にとっては、両腕を伸ばしても抱えられないほど、大きなキャンバス。
それにはまだ何も描かれてはいなかった。
線の一つも、点も、色すら。
この上に描くべきもの……描きたいものは未だ、自分の頭の中にのみ在ったからだ。
「お前が描かないんだったら、俺が悪戯するよ?いい?」
「駄目です」
本当にしないとは思うけど、でも一抹の不安って奴はあるから、取りあえず絵の具は彼の手の届く範囲からは退かしておいて。
そうして彼の細い体を引き寄せると、あっさり腕の中におさまってくれた。
絵の具があちこちに散った椅子に二人して腰掛けながら、何も描かれてないキャンバスを見上げた。
「なあ手形つけていい?」
うきうきと弾むような声で彼が尋ねる。
「駄目。描きあがったらやって。サインがわりに丁度いいから」
「だからなんで」
話は結局元に戻ってきてしまう。
きょろんと見上げてくる目に、根負けして。
密かに心に在った、自分でも笑うような理由を……話したのだ。
「だって……白いままのキャンバスって、それだけで凄く完成されたもののように見えるっていうか。だから……ひとつ色を載せることで、それを壊すようなカンジがするんですよ」
だから、いつも最初に色を置く時は、躊躇ってしまうのだと言えば、彼はふうんと首を傾げた。
「でも、まず色のせてみないと始まらないんじゃない?頭で想像してたよりつまらないことだってあるかもだけど、想像以上にいいかもしれないし」
「君だったら、真っ白いキャンバスが目の前にあったら、嬉々として悪戯するんでしょうね」
「さあな~でもそれ仮定からして無理。俺まず自分からは絵なんか描こうと思わないし」
「……悪戯するって言う人の言葉とも思えませんが」
「だって、それはヒトのにするから楽しいんだよ」
ああそうですかとココロのナカで返事をして、手を伸ばして絵の具がたっぷりついた筆を取り上げる。
そして、彼を腕に抱きこんだまま、キャンバスにざあっと筆を走らせた。
しろいしろいキャンバスを、ざくりと切り取るように鮮やかな色が乗る。
「どんな絵が出来るのか、楽しみだな」
またひとつ、欠伸をして。彼はそのままことりと眠ってしまった。
「楽しみにしてて下さい」
キャンバスにはしる色。さあこれから、どう色を置いていこう。
それを考えると、先程までの躊躇いなどはもう遠くへ消え、今在るのは先を急ぐ手を止めるのが困難なほどの沸き立つ思いだけだ。
その思いに急かされるように、筆を動かし続けた。
想像上の完璧さなど、欠片もないほど叩き壊して。
「まずはこの色ではじめてみようか」




