其の三
ひっそり、こっそり、投稿します。
神田道場へ行った数日後の木曜日。
悠は一年生の打ち込みを見る島本に張り付いていた。
同じクラスであるにも拘らず、忙しそうな島本に話をする機会が今まで無かったのだ。
「日曜日行くんでしょ。」
頭ごなしに決めつけた悠に、島本は視線も向けずに問い返した。
「何処へ?」
「神田道場だよ。また来てくれって言われたじゃない。今度は大先生が見てくれるし、若先生も手合せしてくれるって・・・」
「俺は行けないよ。ひとりで行けるだろ、道はもう知ってるんだし。」
言い放った島本は悠に眼も呉れない。
「なんで行けないの。」
「忙しい。」
忙しいのは判る。
受験生の上に、本来なら引退すべきこの時期に後輩指導まで引き受けているのだから。
だが、この間は気乗りしない悠を引きずるようにして出向いたくせに何故
これ程変わるのか。
「・・・あー、何か有った? ひょっとして私が拙かった?」
やっと島本の眼が悠に向けられた。
「何言ってんだよ。俺は本当に忙しいの。」
呆れたように続ける。
「俺が受ける高校は結構競争率の高い都立工業だし、鈴木のおっさんにはぎりぎりまで剣道部見てやれって言われるし・・・この間行ったのは、あれが最後、自由な日曜日だったからだ。
この先、受かって入学するまでびっちり予定が詰まってるんだ。
まったく、頭が悪いくせに人望があると苦労するよ。」
マンモス校と云われるK中学の三年生は約400人。
その上位100番から島本は落ちた事が無いのを悠は知っている。
受験する高校も余裕で合格圏内なのも。
ぶつぶつとそれを云う悠に島本はふんと笑った。
「お前さんはお嬢様学校に確定してるんだろうが、俺は油断できないの。
みんなしゃかりきになってるから気を抜けばあっという間に落ちるんだよ。
うちは私立に行かせてもらえるほど余裕ないしね。」
そう云い放つとすっと立ち、見ていた一年生の形を直し始める。
悠は何も言えなかった。
島本の言葉が正しいのだ。
だが。
「あらまぁ、それじゃぁ今度は島本君は行けないのね。
それなら貴方も遅くまでお邪魔しちゃいけないわ、せめて七時には帰って来ないと。
道場は何時までだったのかしら。」
その夜、夕飯の席で悠は昼間の話をしていた。
一人っ子で甘やかされて育った割には素直で、学校の事、自分の事を進んで話す悠を父の昇も、母の由紀子も信頼している。
特に昇は若いころ柔道を習っていたためか、悠の剣道には理解が有った。
『武道は心身を鍛える』が、彼の持論であった。
時間の心配をする母親に悠が答えた。
「入門したわけじゃないから早く帰ろうと思えば出来るんだけど。」
その言葉を聞いてそれまで黙っていた父親が口を挟む。
「向こう様は誘って下さってるんだろう。それなら早く決めてお返事しないといけないぞ。
高校に入れば土日ぐらいしか通えないし、月謝もある。そこまできちんと決めてから伺う様にしないとご迷惑になるだろう。」
中小企業とはいえ五百人以上の従業員を抱える会社社長の昇は特に形に拘った。
しかし正論である。
悠は決めかねていた。
稽古がきついのは気にはならない。
遠くに通うのも大丈夫だ。
遅くなると云っても十時、十二時になる訳では無い。
だが、今日の島本の様子では高校入学後も神田道場に通うとは思えなかった。
(月謝・・・か。そうだな、お金が掛かるんだな。)
高級住宅地と呼ばれるS街にさほど広くは無いが居を構え、カトリック系の女子高に通うはずの悠は、多少金銭感覚にかけていることを自覚していた。
生まれた時から何一つ不自由なく育てられたせいもあるのだが。
それでも自分から何かを欲しがったことも無く、俗に云うお嬢様らしからぬジーンズ姿で、邪魔になるからと云うだけの短髪、防具袋と竹刀を担ぐと男の子に間違われる事も度々だった。
野放図と云えば野放図である。
女の子らしい服や小物にも興味は無い。
母親が肩を落とすのも仕方が無かった。
せっかく女の子を持ったのに、花のように飾らせたくても当人が一向にその気にならないのだ。
(それでも、私は今は剣道が楽しい。ほかの何よりも剣道がしたい。)
だったら神田道場に入門すればいい。
今やりたいことをすればいいのだ。
ベッドに転がって考えているときノックの音が響いた。
ドアの向こうに立っていたのは父親だった。
「まだ決心がつかないのか?」
手にしたワインのボトルと、グラスが二つ。
物わかりのいい両親である。
父親は我が子と酒を酌み交わしたく、母親は社会に出てから却って困るからと家の中での飲酒を認めていた。無論酔い潰れるまで飲んだことは無いが、相当に飲めるくちだ。
ワインを継ぎながら父が口を開いた。
「お前がやりたいならやれば良い。
高校に入学してからの入門になるだろうが土日、祝日に春夏冬の休みもある。
向こうで許してくれるなら休みの間、止まらせて戴いてもうちは構わないしな。
お父さんも少し調べてみたが神田道場と云えば相当しっかりした処のようだ。
悠を預けても何の心配も無いだろう。」
一口飲んで悠も頷いた。
「うん、大人として扱われて驚いたんだ。それに稽古が半端じゃない。」
父は娘の性格を知っている。
厳しいからと云って迷う筈も無い。
思い当たるのは・・・
「島本君はどうする気なんだね?」
正に核心をついた問いである。
「うん。たぶん入学すれば・・・・」
言いよどんだ悠に父は優しい眼を向けた。
「悠。お前と島本君は別の人間だ。自分の為に彼の生活を乱してはいけないよ。
彼は彼なりに考えているだろうし、悠には悠の考えが有る。
丸二年間、島本君と共に部活動が出来たことが楽しかったならそれで良しとしなくてはな。」
父の云う事は判る。本当に良く解かるのだ。
黙ったままの娘に父は静かに告げた。
「まぁ、もう一度話し合って御覧。
彼も剣道が好きなのだから決して無駄にはならないだろう。」
『話がある。』と、真顔で言われてはさすがに断りかねて、島本は屋上への階段を上った。
扉を開けると土曜日の放課後だけあって人影は無く、唯一人遠くを見る悠の背中が有った。
遥か西にくっきりと富士山が見える。
「なんだよ、こんな処に呼び出して。」
彼女の話が何であるかなど十分に知っている。
だがそんな素振りは露ほども見せず、いつものお気楽な調子で尋ねた。
悠の肩が大きく息を吸い込み、意を決したようにくるりと振り向いた。
「春になったら、四月になったら、正式に入門させてもらおうと思ってる。」
一気に言い放った悠に島本は頷いた。
「そうか、頑張れよ。」
「それでね、島本君も一緒に入らない?
高校に入ってからならこっちに迷惑は掛からないし、通うのは土日だし、だって島本君も続けるんでしょ。高校でも大学でも剣道やるんでしょ。
だったら無駄にはならないし、役に立つよ。後輩にもいろいろ教えられるし、きっと今よりたくさん技も覚えて、強くなって・・・・・」
声が小さくなり、やがて口の中で消えて行った。
黙ったまま見つめる島本を見上げる。
「・・・何か、云ってよ。」
思わず苦笑が漏れた。
相変わらず向こうっ気が強い。
「俺は行かないって言っただろ。」
自分の事は一番よく知っている。
「なぁ高村、俺たちもう卒業なんだぜ。
これから高校生になるんだ。まだまだ大人じゃないが、それでも子供ではなくなるんだ。
そうなれば道は違って当たり前だろう。
それぞれの家の事情や、性格や能力で変わって来るんだよ。」
聞くうちに俯いて行く小さな顔が僅かに歪む。
「・・・私、変わりたくないよ。」
呟いた声は何時になく頼りない。
「変わらずに許されるのはピーターパンだけさ。」
自身の耳にも苦く聞こえる。
この結末を設定したあの最初の時から、島本は自分の中の少年と決別していた。
冬の晴れた空の下。
二つの影は並んだまま、長い時間立ち尽くしていた。
完結して初めて小説となる。と、昔誰かが云ってました。
力量不足は百も承知。
遅筆でも最後まで頑張ってみます。