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鬼姫伝説  作者: 澤田 紅
2/6

其の二

日曜日。

私鉄から新宿で国鉄に乗り換えて秋葉原の駅に降りたとき、休日ということもあり常は賑わう街もどこか閑散としていた。

それもその筈。

朝の六時を僅かに回った時間である。

「遠いんだね。」

白い息を吐きながら呟いたのは高村悠。

ダッフルコートにGパン姿の彼女に応えたのはスタジャンにマフラーという軽装の島本。

「ああ。 ここから地下鉄か脚かだな。

 歩いて行ってもそうは掛からないはずだが。」

「じゃぁ、走っていこう。躰もほぐれるし。」

防具の袋を担いで竹刀を持って、鈴木に渡された地図を頼りに走り出した。

脚は軽い。

たちまち繁華街を抜け昔ながらの住宅地に入り込んだ。

どこか江戸の風情が残る町並みを走る二人に、朝の早い老人が笑顔を向ける。

「良い処だ。」

島本が嬉しそうに声を上げた。

「お祭りが似合いそうだ。ほら、お神輿とか・・・良いな、この町。」

結構な速さで駆けながらも二人の中学生は屈託なく言葉を交わす。


やがて古く、だがどっしりとした門の前で脚が止められた。

いかにも伝統のある質実剛健といった風情で、門のすぐ内側には枝ぶりの良い松と楓が植わっている。

武家屋敷みたいだと島本が思った時、悠も呟く。

「お侍が出てきそうだね。ほら、あの師範代の・・・澤井って人。」

一瞬二人は顔を見合わせ笑ってしまった。

「それにしても静かだな、早すぎたか。」

腕時計は六時四十分である。

「まさか仮にも道場で朝稽古が無いはずはないよ。」

島本の言葉をあっさり否定すると悠は中へ踏み込んだ。

玄関の戸は何の抵抗もなくカラリと開く。

「おい、良いのか。」

心配そうな島本を尻目に悠は

すっと息を吸い込んだ。

「御免ください!」

女子にしては低いアルトの声が響き渡る。

「御免ください!!」

更に声を張り上げた時、右手の廊下を渡ってくる静かな足音が聞こえた。

稽古着を身につけた、それは澤井佳祐であった。

澤井の視線が僅かに驚いたように二人を見下ろしたが、やはり日本刀のように鋭い。

それでも悠は冷静にその眼を見返した。

「お早う御座います。

 本日お招きを受けた島本と高村です。」

二人の前で男は滑らかな動きで敷台の上に座ると、両手を膝に置き丁寧に頭を下げる。

「お早う御座います。

 改めまして、師範代の澤井です。ようこそお出で下さいました。」

まるで挨拶の見本のようにキッチリとした礼を取ると二人を促した。

「防具をお持ちなら先に着替えられたほうが宜しいでしょう。

 さ、此方へどうぞ。」


案内されたのは道場脇の和室であった。

「高村さんはこちらで、島本さんはそちらをお使いください。

 着替えたら荷はそのままでこちらでお待ちになってください。後ほどお迎えに上がります。」


とても中学生相手の言葉使いではない。

この道場は常日頃から誰に対しても同じように扱っているのだろう。

相手の年齢やキャリアに拘わらず客として来たなら大人同様の扱いを受けるのだ。

そして・・・大人として扱われたならそれ相当に振舞わなくてはならない。

きちっと荷をまとめると悠は部屋の下座に正座した。

直ぐに島本が入ってきて横に並ぶ。

その横顔は珍しく硬かった。


「真さん、おいでなすったよ。」

澤井佳祐が神坂真一郎の耳に低く告げると男はやっと眼を開いた。

広い道場の中には正面に一段高く座が設えられ普段は師範がそこから場内を見渡すのだが、この時間六時から七時までは全員が神棚の前で座禅すわるのが日課である。

高村らが来たのはその大声で判っていたが、真一郎が驚いたのは佳祐の次の言葉であった。

「防具一式担いで来た。今着替えさせている。」

えっ? と、佳祐の眼を見返した。

「なに・・・今日やるつもりなのか。」

「らしいな。」

ふむと、考えたのはごく僅か。

「では・・・佳さん、相手を頼む。」

それは今までにない事態だった。

師範、師範代はまずそうそうゲストの相手はしない。

道場内での順位、位置がそれを許さない。

それは最初から最後まで門人同様教え込めと暗に告げる言葉であり、佳祐もそれを正しく受け止めた。


三十人ほどの、大半は男達の視線が何の感情も含めず、案内されてきた二人を捉えた。

神聖な道場内に加えて、礼儀を弁えた大人たちではあっても、二人の若さにはさすがに眼を見張るが中学生二人はそんな大人たちを気にかけるふうでもない。

入口にて一礼、佳祐に続いて神棚にて一礼、そしてやっと神田道場 道場主 神坂真一郎の前に顔を並べた。


「お早う御座います。

 今日一日お世話になります、よろしくお願いします。」

上げた顔は落ち着いていた。

「遠い処早くから来て戴いてありがとう。

 今日はこの澤井が一日お相手しますので楽しんでいって下さい。」


「驚いたな。あそこに座っていると、そうお気楽には見えないな。」

島本の呟きに悠も頷く。

「うん・・・そうだね。」

案内されたのはちょうど七時、二人は知らなかったがこれからが稽古の始まりである。

素振りをする者、竹刀を合わす者、それを観る者と静かな中にも動きが見えた。

それを見ながら面を付けた悠の前に澤井が片膝を付ける。

「お手合わせ、願えますか。」

その声を聞いた門人達が一瞬動きを止めた。

「お願いします。」

一礼して悠が受けた時、ざわりと空気が動いた。

中央に出た二人を見て、

「木島。努めよ。」

真一郎の声に門人の一人が立った。


(とてもじゃないが勝ち目はないな・・・どれだけ持つか・・・)

向かい合った澤井と悠を見て島本は口の中で呟いた。

見た目から百八十cmは有に在るだろう完成された体格の澤井と、百六十cmそこそこの華奢な悠ではまるっきり大人と子供である。

それでも引く訳には行かない。

(さぁ、ここが踏ん張りどころだぞ。)


互いの剣先が軽く触れ合う。

ぱっと下がった悠に澤井がするりと近づく。

どちらの鋒も中段のまま、また一歩、澤井が足を踏み出した瞬間。

悠の躰が跳んだ。

速い!

腕、キャリア、体格・・・全てが自分より上の相手に対して作戦など立てようもない。

体ごとぶつかって行くしか無い事を、悠は本能で感じ取っていた。

籠手から横胴へ、が、あっさり躱され摺り抜けざまに体を捻る。

上段から振り下ろされた竹刀を辛うじて受け流し、間髪を入れずに懐に飛び込む。

引きかけた澤井の脚を見て面打ちを狙うが、それを軽く弾かれ更に擦り上がって来た竹刀を悠の竹刀がガッチリと押さえ込んだ。

(・・・っ、しまった・・・)

抑えたまではまだ良い。

だが腕力ではとても敵わない相手に動きを封じられた形になってしまったのだ。

此処で引けば打たれる。

が、このままで持つ筈がない。

悠の脚がじりりと動く。

既に汗が首筋から背中へと流れ落ちていくが、今の悠は意識すらしていなかった。

面の奥の澤井の眼がすっと細められた。

来る・・・と、その瞬間。

悠の躰が跳ね飛んだ。

両手が泳ぎ、足が空を切ったとき痛烈な胴を打たれた。

その太刀行きの強さに息が詰まる。

自分がいつ床に膝をついたのか悠には判らなかった。

「胴有り、一本!」

冷ややかな声が喘ぐ悠の耳に届いた時、彼女の中で何かがプツリと音を立てた。

息を整え立ち上がった悠の前に澤井は身動ぎもせず見下ろしている。

「もう一本、お願いします。」


「圭さんよ、ありゃぁ気が強いなんてもんじゃ済まねえな・・・」

真一郎がそう声をかけて来たのは昼食時であった。

最初に佳祐に床に叩きつけられてから後、ぶっ続けに二時間、わずか三十分休んで再び二時間、悠は佳祐を相手に戦い続けたのだった。

無論、一本たりとも取ることは出来ない。

数え切れぬほど打たれ、道場の床に這いつくばり、だが息を整え何度も立ち上がる姿の、その躰が小さいだけに荒稽古に慣れているはずの門人達さえ心配そうに見つめていた。

平然としていたのは島本ひとり。

止めたほうが良くないかと問われて彼はニッコリと答えた。

「いいえ。あれぐらいで死にもしないでしょう。 下手に止めると後が大変ですし。」


悠にとってこれが初めての荒稽古ではない。

二ヶ月に一度、卒業した先輩たちが来た時は四、五人の男子学生が入れ代わり立ち代わり交代で通し稽古をつけてくれる。

そのおかげで部員数が減った。

だが、そのおかげで残った部員たちの腕が引き上げられた。

試合をして負け続けばつまらない。やる気も出ない。

勝てたなら楽しくなるのは人情だろう。

出ると負け、と他のクラブにまで揶揄される弱小剣道部の副主将になった時、島本がまず手をつけたのは卒業者名簿を片手に特訓相手になって貰えるよう先輩たちの間を走り回ることだった。

それから一年半。

数え切れない青あざ、打ち身と悔し涙の中で勝ち取った大会の初参加、初優勝。

中学二年生になるまで竹刀も防具も間近で見たこともなかった高村悠の素質と向っ気の強さが開花した、快挙以上の快挙におそらく本人よりも島本こそが喜んだはずだ。


(なあ、高村。これぐらいでへばる稽古はしてないよな。)

彼は心の底から剣道が好きだったが、自分の限界も弁えていた。

高校、大学と剣道は続けるだろう。しかし続けたからといって強くなれる物ではない。

どれほど頑張っても今では悠にさえ勝てないのだ。

だからと言って羨む気はもうとう無い。

ただ・・・竹刀の持ち方から教えた悠がどこまで行けるのか。

それが見たかった。

おそらく彼女は此処、神田道場に入ることになるだろう。

ならば其処がどんな処なのか、どんな人間が居るのかを確認するために付いて来たのだ。


眼の前で悠の体が跳ぶ。

女子にしては低い、だが張りのある声が上がる。

(今のうちに打ち合っておけよ、正式に入ったら当分素振りだけになるからな。)

知人、友人、先輩に教員から話を聞き、図書館で調べもした島本である。

悠には多く言わなかったがそれは彼女の性格をよく知るため。

顧問の鈴木にも頼んでとりあえず一度連れてくればその気になるだろうと考えていた。

そしてまさに島本の意図した通りになっている。

既に悠は此処がどこか、誰と来たのかも忘れ、眼の前の相手 澤井佳祐だけにその意識を集中していた。


だが昼食を摂りながらの二人の男にそこまでは判らなかった。

「スタミナは確かにある。十分過ぎるほど気も強い。

 佳さんにあれだけ打たれてもさほど辛そうでもない。

 今まであんな子は男にしろ女にしろ見たことがないな。」

カチッと佳祐が箸を置いた。

無言のまま茶を飲み干すと腕を組んで考え込んでいる。

真一郎の言葉がさらに続いた。

「お袋殿が驚いていたぜ。

 客人に寿司を取ろうとしたらしいが・・・弁当持参だ。

 加奈子にお茶だけ運ばせたが帰ってきて呆れてた。

 あの子、あれだけやられたのに弁当をパクパク喰っていたそうだ。」

真一郎が箸を置いたのを見計らうようにして和服の女性が膳を下げに入ってきた。

「ああ、葉子さん。来ていたのか。」

ついこの間、結納を済ませた婚約者の葉子はおっとりとした性格で、道場を生業とするこの家に慣れるため頻繁に訪れている。

姑のタエとも非常に仲が良い。

近い将来この家の女主となる葉子に対しては、日頃無愛想な佳祐もさすがにきちんとした礼を取った。

「ご馳走様でした。」

「いいえ。今日はお母様に教えて頂いてて私が作ったんですが、お口に合いましたでしょうか。」

えっ、と真一郎が顔を上げた。

「これは葉子さんが作ったのか・・・気がつかなかったよ。」

「では合格ですね。」

ニッコリと笑って答えた葉子に真一郎が何やら続けたが、佳祐の耳にはその会話は入ってこなかった。

彼の脳裏には今、高村悠しか浮かばなかった。


強い。

女子中学生とも思えないほど強い。

おそらく高校生どころか並の大学生でも引けは取らないだろう。

反射と感は生来のものにしても、頭も良いのだろう。

同じ決め技を仕掛けると躱せないまでも少なくとも躱そうとする。

スピードも申し分ない上、スタミナもある。

しかも真一郎が言ったようにあれだけ叩かれてもへたばるどころか尚、きちんと食事を取れる気力も持っている。


だが・・・と佳祐は呟いた。

どうやって伸ばしてやれば良いものか。

神田道場に来る者はそれなりに下地が出来ていると言っていい。

この世界では多少は名が知られているとはいえ、師範代となって二年足らずの佳祐には十五歳の子供の扱いは正直荷が重かった。ましてや他人には懐かず懐かせずと生きて来て、例外はごく少数の己である。

自分の想いの中に没頭していることさえ気づいていなかった。


「佳さ・・・」

その少数の一人が振り返って声を切った。

葉子が心配そうに真一郎を見る。

彼は無言で頷くと膳を持ち葉子を先に立たせて部屋から出ていった。

「・・・あの・・・」

佳祐の気に障る事でもあったのかと気を揉む葉子に真一郎は苦笑した。

「違うよ。

 ありゃあね、今日の客のことを考えてるんだ。なかなかに厄介な奴が増えそうだな。」

ふふっと笑う真一郎には佳祐の心情は手に取るようにわかる。

(さて佳さんよ、こいつはお前さんに任せたぜ・・・)



その少し前、昼休みに入った時のこと。

二人が連れて行かれたのは裏庭の古い井戸だった。

「洗面所もありますが師範代から是非こちらにと言い付かっています。」

案内してくれたのは数少ない女性の門人。

「どうぞお使いください。」

重ねて言うと会釈して去っていった。


手と顔を洗い、口を洗ぐとそれまで気づかず頭に登っていた血が下がっていく。

なよ竹越しに母屋の一画が見える。

「でっかい屋敷だなあ。」

のんきらしい島本の声に悠も頷いた。

「本当に映画のセットみたいだね。」

応える表情に疲れはない。

むしろ眼が光っている。

「・・・午前中一本も取れなかったな。」

相手が強いのは承知していた。

それはもう二人共判って此処に来ているのだ。

「道場は午後六時までだそうだけど、どうする? 八時ぐらいまでなら付き合ってやれるけど。」

おそらく六時が八時でも取ることは出来ないだろうが、このまま引き下がるのはかなり悔しいのも事実だ。


ふっ・・・と息をついた時木戸が開き澤井佳祐が現れた。

「お二人とも汗をかいたでしょう。良かったらこれにお着替えなさい。」

渡されたのは新着ではないが洗濯された道着だった。

二人共(特に悠は)、重くなるほど汗をかいている。

躊躇うことなく島本が頭を下げた。

「有難うございます。遠慮なくお借りします。」

続いて悠が下げた頭に落ち着いた声が降ってきた。

「私は今日一日空いています。ギリギリまでお相手させて戴きますので。

 それと、師範から夕食を是非ご一緒にとのことです。お家に電話されるならご挨拶をしたいと申しています。」


(うわっ・・・大人だなぁ。)

この気遣いといい、さりげなく先回りする手際の良さといい、子供と大人の違いをまた認識させられる。

内心呆れながら島本はその眼を悠に向けた。


「・・・ご配慮おそれいります。 では、お言葉に甘えてさせて戴きます。」

一拍置いて答えた悠に軽く礼をして澤井は歩み去った。



昼食を終えたあといつもより幾分表情を抑えて島本が訊ねた。

「それで・・・一本取る算段はついたのか?」

「無い。」

きっぱりと答えた悠を見て僅かに笑う。

「そうだな。どう見ても向こうが上だ。

 腕だけじゃなく、体格もキャリアも・・・互角なのは今の時点での体力ぐらいか。」

黙ったままの悠に続ける。

「さすがに並みの大学生とは違う・・・ラッキー、だろ?」

悠が大きくゆったりと息をつく。

「んん・・・・凄い世界だな・・・」


その表情は島本が初めて見るものが浮んでいた。

真摯な憧憬とも言うべきか・・・

だから彼はあえてそれ以上言葉を繋げなかった。

高村悠の往く途はこれで決まったのだろう。

おそらく本人は気付いてもないのだろうが・・・




一分の隙もない。

面越しに見る澤井は一見ゆったりとした構えを朝から通していたがすでに夕方、この一日を通して尚、悠に付け入る隙を与えない。

荒い呼吸を整えながら十五歳の少女は竹刀を青眼に構えたまま摺足で左に廻り込む。

ありったけの瞬発力を駆使し、どれほど素早く動いても、又、石になったかのように長い間を取っても、軽く躱され居なされ次に来るのは痛烈な打ち込みであった。

一本撮るのがこれほど難しかったか・・・

ならばせめて、あの構えだけでも崩したい・・・

あの落ち着き払った表情を、あの余裕のある物腰を崩し、冷や汗の一つもかかせてやりたい。

疲れと焦りが悠を動かした。

「・・・駄目だっ!」

島本が腰を浮かせた瞬間!

今までとは比べ物にならない凄まじい打ち込みが悠の面を捕らえた。

道場内が一瞬にして凍りつく。

悠は自分の躰が飛ぶのを感じた。

床に叩きつけられるのも感じ、勢い余って跳ねて転がるのも・・・


不思議に痛みはない。

唯、すべての感覚が痺れた様になり視界が奇妙なほど狭い。

その狭い視界の中に凛然と立つ男が映る。

 (・・・だれだ・・・あれ? 島本君・・・?)

無意識のうちに拾った竹刀を握る悠にひどく静かで重い声が届いた。

「今日はこれまで。 少し頭を冷やしなさい。」



眼を開けると布団の中だった。

オデコに何か乗っている。

触ると冷たいタオルの感触に・・・

(・・・あぁ・・・頭を冷やせって言われ・・・!?!)

ガバッと身を起こした時・・・

「入るぞー。」

サラリと障子が開き島本が入ってきた。

「おお、気がついたな。」

湯上りなのかほこほこと湯気を立てて布団の横にドカリと座る。


「何これ此処どこ・・・これは何だっ。」

ニヤリと笑って島本が訊ねた。

「やっぱりな、お前記憶ないだろ。」

いかにも楽しそうな島本が言うには・・・

きちんと礼を済ませ、神坂にも礼をし、神棚にも頭を下げ、一切を済ませて歩いてきたという。

荷を置いた部屋には澤井の指示で既に布団が用意され、神坂に言われた葉子が待っていた。


葉子の手で躰を拭かれ夜着に着替えさせられる間島本は廊下に出る事になったが、それはけして無駄な三十分ではなかった。悠にこそ告げる気はなかったが、広い廊下で神坂と澤井の二人と話が出来たのは、どちらにとっても実りのあるものだったのだ。


「誰が着替えさせたって?」

一瞬、蒼褪め、次に赤くなった悠の顔を見ながら島本は(器用な奴・・・信号みてぇ。)感想は控えて告げた。

「葉子さん。 あのお気楽男のフィアンセだよ。美人だよなぁ、どうやって騙したんだろ。」

「私、知らないよ。 そんな人・・・」

フフフッと笑う。

「大丈夫、ちゃんと挨拶してからひっくり返ったから。」

「・・・ひえぇぇぇ・・・」

実に真っ当なリアクションに思わず声を出して笑いながら島本は立ち上がった。

「着替えろよ、もう夕食だそうだ。」


島本が外に出る間に着替えて布団を畳む。

母屋へ繋がる渡り廊下を歩きながら島本が自宅に電話を入れておいてくれた事にほっとした。

両親は決してうるさい方ではないが、だからと言って一人娘を心配しない訳ではない。

信用厚い島本様々である。



夕食はごく和やかに始められたが、それ以前に悠はありとあらゆる人に礼と詫びと挨拶をしなくてはならなかった。上座に座る神坂家十二代目当主、現在大先生と呼ばれる隠居の龍之介。その妻、大奥様のタエ。

十三代目現当主の若先生、真一郎に許嫁の葉子。

そして内弟子としてこの家に住み込んでいる師範代の澤井佳祐の五人がこの大きな屋敷の住人・・・葉子は来年の六月となるのだが・・・だった。


上座に泰然と座る細く小柄な龍之介と、奥の台所で立ち働く大奥様、タエに挨拶をしたとき二人ははっきりとした驚きを示した。

尤もそれを聞く間も無く風呂上がりのさっぱりした顔で、真一郎と佳祐が入ってきた。


「ああ、気がついたかい。顔色は良い様だね、痛みはどうだい?」

江戸っ子の口調で気さくに尋ねる真一郎とは対照的に佳祐は黙ったままである。

だがその表情には道場では見せない穏やかさが浮かんでいた。

席に着いた真一郎にまず礼をとる。

「はい、大丈夫です。

 色々とご面倒をおかけして申し訳ありませんでした。」

そう答えてから悠は隣の佳祐に手をついた。

「頭を冷やしました。

 半人前とは言え竹刀を持つ身にあるまじき振る舞いを致しました事、お詫び申し上げます。」

深々と頭を下げた悠に、それを見ていた男達が視線を交わす。


「さぁさ悠さん。それだけ頭を下げれば十分ですよ、ねぇ佳祐さん。 お食事にしましょう。」

タエの声に眼を上げると大きな盆を持ったタエと葉子の姿があった。

「お手伝いします。」

ぱっと立ちかけた悠を葉子が止める。

「駄目ですよ。 あなたはお客様だし、怪我人なんですから。」

男性陣がハッとなった。


「怪我をしてるのか、どこだ!」

「なぜ早く言わない、この馬鹿が・・・」

「医者だ。電話だ・・・救急車を・・・」

佳祐と島本、そして真一郎の声が微妙にハモりながら飛んだ時、悠が訊ねた。

「怪我って・・・どこですか?」

「頭よ。 こんな大きなタンコブが出来てるわ。」

きっぱりと言われて思わず手をやると・・・あった。

「あ・・・凄い・・・」

力が抜けたように腰を落とした三人の男と、大真面目な葉子。

しかめっ面でコブを撫でる悠。


いきなり笑い声が起こった。

龍之介がさも楽しそうに笑っている。

つられてタエが、真一郎が、島本と佳祐さえ表情を崩した。






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