High Dive!
武 頼庵さまの『みずに纏わる物語企画』に参加しています。
「やっぱ広いなぁ。夏の海と空は」
高さ20メートル。ビルの7階に相当するここは、女子ハイダイビングの飛び込み台。この場所から見下ろす世界は、日常では絶対に味わえない。
手を大きく広げた私の横を、海風が駆け抜けていく。遮るものは何もない。
見上げれば、どこまでも広がる青い空。
見下ろせば、これもまた青く広がる海面。
そこにブイに囲まれた着水エリアが波に揺れている。
断崖絶壁が続くこの海岸線の近くに、もの好きな地元実業家の支援によって特別に組まれた特設ハイダイビング・タワーが、私たちの練習拠点だ。
プラットホームの縁に立った時は、気を抜くとふらっと海面に吸い込まれそうになるのと同時に怖さが襲ってくる。その感覚を追い出すように、私は長く細く息を吐いた。
「……よっし」
着水までは約2.5秒。その刹那の間に、肉体を極限までねじり、回転させ、寸分の狂いもなく足の裏から水面へと突き刺さらなければならない。少しでも角度を誤れば、待っているのは大怪我だ。
もちろん、恐怖がないわけじゃない。飛ぶ直前はいつも心臓は早鐘のように打っている。けれど、それ以上に私の心を支配しているのは、ゾクゾクするような高揚感だった。
「湊ー! 体幹意識して! 入水まで視線切るなよ!」
下からスピーカー越しに声を張り上げているのは、荒井コーチだ。ハイダイビングの先駆者であり、私をこの高さとスピードの狂気と美しさが支配する世界へ引きずり込んだ張本人。
私が深く息を吐き、両腕を水平に広げたその時、背後から軽い足音が聞こえた。 タワーの最上階――さらに7メートル上、男子の高さである27メートルから下りてきたのは、白石 碧だった。私と同じく、元々は10メートル高飛込の選手であり、現在は私の最大のライバルにして唯一の同志だ。
「遅いよ、碧。自分の練習はもういいの?」
私が振り返って苦笑すると、碧は17歳の引き締まった身体を初夏の陽光に光らせながら、肩をすくめた。
「上が27メートルだからさ、20メートルの湊のところがちょうどいい休憩場所なんだよ。……それより湊、次の1本、ひねり入れるんでしょ?」
「うん。前宙返り3回だけじゃあね。世界と戦うには、この難易度をモノにするしかないから」
「空中での1秒は、下での10分だよ。体感時間を引き延ばせって、荒井さんいつも言ってるだろ」
「言うのは簡単だけどさぁ」
私は笑った。周囲の友達が「普通の高校生活」を送り、放課後にカラオケやカフェへ行く中、私たちは水着一枚で命懸けの崖っぷちに立っている。普通なら「狂っている」と一蹴される情熱を、100パーセント同じ熱量で共有できる相手。彼に対して、ほのかな感情がないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に強いのは「この過酷な競技を、一緒に征服したい」という、強烈な同志としての絆だった。
「見てて。先に行くよ」
「うん。特等席で見届けさせてもらうわ」
碧が不敵に笑み、一歩下がって腕を組む。
私は再び、20メートル下の水面を見据えた。
背筋を伸ばし、全神経を研ぎ澄ます。
周囲の雑音が消え、ただ波音と風の音だけが鼓膜を震わせる。
(3、2、1……)
ドン、と力強く踏み切って身体を空中へ投げ出す。
ほんの少しの浮遊の直後、重力の手が私の体を掴まえる。その瞬間から幕を開けるのが、時速約70kmで水面に向かうショーだ。
(Go!)
上半身をぐん、とひねると同時に視界が高速で回転する。
(次!)
縦回転に切り替え。
視界には青い空、佐賀の美しい断崖、そして迫り来るプール。 脳の処理速度が限界を超え、世界がスローモーションになる。
風の音が変わった。
着水までラスト0.5秒の音だ。
私は身体を一直線に伸ばし、わずかに腰を曲げた。両手を腰の後ろで組み、つま先に力を入れてピンと伸ばす。
ズバン!
水を切り裂くような音を水面に残して、私の身体は水の中へと吸い込まれた。 水圧が全身を容赦なく押し潰そうとする中、水中で急ブレーキをかけるように腕と足を広げる。
少しして水の浮力が私の身体を海面へと持ち上げていき、漂う光が強くなっていく。
「ぷはあっ」
「湊! 悪くない! でも最後の足の締めが甘い!」
「……はーい」
拡声器を持ったコーチの声が波音と共に響く。どうやら少しだけ、ブレーキの準備が早かったようだ。
陸に上がると、すでにタワーを駆け下りてきた碧がバスタオルを投げつけてきた。
「最後、ちょっとビビったろ?」
「ビビってないよ。風に煽られただけだって」
「言い訳禁止。でも、空中のフォームはめちゃくちゃ綺麗だった。正直、ちょっと鳥肌立ったよ」
碧はそう言って、白い歯を見せて笑った。
「次は俺の番。27メートルから、新しいパターン試すから」
「あー。あんた飛んだ直後に空を長く見すぎる時があるから気をつけなさいよ?」
「わかってるって。しっかしお前はなんで人の『視界』が分かるんだ?ヘンタイか?」
「うっさい!早く行け!」
「わかったわかった。じゃあな」
彼の瞳には、一切の迷いがなかった。その強い光に、私の胸が小さく疼く。恋とか、憧れとか、そういう言葉では収まりきらない。彼の存在そのものが、私を高みへと押し上げる原動力だった。
でも、スポーツには必ず「壁」が存在する。私がぶち当たったそれは、よりにもよって世界水泳選手権・福岡大会を模した、日本初開催の国際大会の選考会を兼ねた記録会で待っていた。
海岸線に設置された特設会場は、まるでビルの様にそそり立っていた。 その日は朝から嫌な風が吹いていたのが、少しだけ気になった。
「……気にしすぎ、よね」
私の20メートルからのダイブで挑戦する技は、さんざん練習してきた「前宙返り3回、2回ひねり」だ。
「湊、風が強い! 無理するな!」
碧が下から叫んだ。
でも、私は焦っていた。
世界に追いつくためには、そして碧と世界に行くには、ここで成功させるしかなかったから。
(行こう!行ける!)
鋭い踏み切りの後の空中での回転は、完璧だった。 だけど、ラスト半回転のところで、突発的な横風が私の身体をわずかに流した。
(しまっ……!)
風切り音がいつもと違う。
入水の瞬間、私の身体は完全に垂直ではなかった。ほんの数度、わずかに身体が斜めに傾いた状態で水面に激突した。
(!!!!)
いつもの着水音とは違う、鈍く痛々しい音が響き渡る。その直後に足首から伝わってきた激痛と衝撃で、私の意識は遠のきかけた。
(や、ば……)
水中で力なく沈んでいく私を、もの凄いスピードで泳いできた碧が抱きかかえ、水面へと引き上げた。
「救急車! 早く!」
コーチの叫び声が遠くで聞こえる。
エリアサイドに引き上げられた私は、右足の激痛に顔を歪めるしかなかった。
「……ごめん、碧。やっちゃった……」
「喋るな! 息を整えろ!」
碧が私の手を握りしめた。その手が、ひどく震えていた。 いつも私をライバルとして見てくれていた碧。その彼に、こんな姿を見せるのが悔しくて、申し訳なくて、涙が止まらなかった。
診断は、右足首の重度の靭帯損傷。 命に別状はなかったが、数ヶ月の戦線離脱は避けられなかった。せっかく日本で開催される世界大会への道は、完全に閉ざされてしまった。
病室の窓からは、夏の青空が見えていた。 ベッドに横たわる私の右足は、痛々しくギプスで固められている。
「情けないよね」
私は自嘲気味に笑った。
「世界に行くって大口叩いてさ。結局、高さに負けたんだよ、私は」
「そんなことない!」
碧が強い調子で言った。
「湊の挑戦は間違ってなかった。風のせいだ」
「ううん、風を読めなかった私の実力不足。……それに、やっぱり怖かったんだと思う。20メートルの上が、一瞬、真っ暗に見えたの」
私は初めて碧の前で弱音を吐いた。その途端、みるみる目に涙がたまってきた。 そんな私を見た碧は、ベッドの脇に腰掛けて私の手を両手で包み込んだ。
「湊」
「……なに?」
「俺が、世界の景色を見てくる」
碧の瞳には、一点の曇りもない炎が灯っていた。
「日本にはまだハイダイビングの環境も認知度もない。でも、俺たちがここで諦めたら、後に続くダイバーたちは、一生あの世界を見ることができない。だから、俺が先に行く。世界大会で。コーチ直伝の、お前と練習した日本のハイダイビングを見せつけてくる」
碧の言葉が、熱を帯びて病室を満たしていく。
「だから湊は、足を治すことだけを考えるんだ。俺が帰ってきたら、またあの海で勝負しよう」
胸を満たすこの気持ちを、なんと言えばいいのか、私は分からなかった。なんだかカーっと熱いものがこみ上げてくるのと同時に、ぽろぽろと私の目から涙が溢れ落ちた。
「……ずるいな、碧。かっこよすぎるよ」
私は涙を拭ってから、いつもの笑顔を作った。
「約束だからね。もし世界大会でビビって回転数減らしたら、一生口きかないから」
「減らさないよ。むしろ増やしてやるさ」
そう言って碧は、拳を私に突き出した。
世界大会の会場である福岡・シーサイドももち海浜公園には、巨大な特設タワーがそびえ立っている。世界中の屈強なハイダイバーたちが集まる中、そこに日本の17歳の少年――碧が立っている。私は観客席の最前列から彼を見上げていた。ギプスが取れて、飛び込みプールでの軽い練習を再開した私のメッセージを、碧は何回も見てくれたらしい。
大会が始まり、選手専用区域に行く前に碧が私のところへ来た。私は持っていたスポドリを渡しながら碧の背中を叩きながらエールを送った。
「私の分まで、世界大会の空と海を楽しんで!」
「まかせろ。それよりよく見とけよ?」
「分かってるって。ちゃんと応援しとくから」
軽く笑いながら観客席に向かおうとする私を、碧が手をつかんで引き留めた。その顔からはいつもの笑みが消えて、真っすぐに私を見つめている。
「湊、そうじゃない」
「な、何がよ?」
「お前だったら、ここからでも俺の視界を『見る』ことができるだろう?一緒に飛ぶんだ。お前も立つんだよ。世界の舞台に!」
「……!」
こんなタイミングでなんて事を言うのよ、こいつは。そんなこと、言われたら……!
「……うん。私も一緒に飛ぶ。カッコイイの、決めなさいよね」
「任せとけ。見てろよ!」
ニッと笑ってこぶしを突き上げ、タワーを昇って行く碧の姿が、ぼんやりにじんで見える。
私はいつもより大きな音を打つ胸を手で押さえながら、その場にしばらく立っていた。
『白石 碧、日本。技の難易度は――』
英語のアナウンスが会場に響き渡る。 碧が、爪先をボードの縁から出した。
眼下には、激しく波打つコバルトブルーの博多湾。一度そこから離れれば、高さ27mからの最高時速85キロの恐怖が彼を襲ってくる。
だけど、今の碧の背中には、私の想いも乗っている。あの病室で交わした約束が、彼に翼を与えているはずだ。
(いけ、碧……!)
私は心の中で叫ぶと同時に、「視界」を碧とリンクさせた。
飛ぶ直前、全ての時間が一瞬だけ止まる。次の瞬間、碧は深く息を吸い、そして、大空へと身体を投げ出した。
僅かにふわりと飛んだあと、重力の腕が碧を捕まえ、海面へ一気に引きずり込む。その腕を振り払うように、碧の身体が宙で美しく躍動する。
そこはビルの9階から飛び降りるような、狂気の世界。でも今の碧にとって、そして私たちにとって、そこは世界で最も自由で、最も美しい、青い滑走路だ。
身体を捻る
空と海の青
間に砂浜
入れ替わる
入れ替わる
捻り3回目
(止まれ!)
頭を下へ
落下開始
同時に膝を
抱え込む
見えるのは
海の青
飛び込む小さなゾーン
水面の見え方
この距離!
一気に身体を
捻り反り
折り曲げ
後方回転に
(今!)
足を揃えて下!
たった3秒間のHigh Diveの後に高々と水飛沫があがる。着水と同時に鳴り出すアップテンポなビートの音楽と満場の拍手同時に空に向かって突き出されたのは、碧の拳。
「絶対追いついてやるからね!」
私は立ち上がって拍手しながら、新しい世界の扉が開いたように感じた。
お読みいただき、ありがとうございました。
ちまちま書き続けて、ようやく完成しました。
世界水泳福岡大会では、百道浜に巨大なタワーが建ったのですが、あれから飛び込むのって………正気を疑うレベルです。
10mから落ちるのでも怖いのに。
ちなみに、大雨の後は海がゴミだらけになったので、掃除がすごく大変だったそうです。




