087 あなたの言葉の温もりは私の希望の温度(2)【メリー視点】
アイゼアの言う通り、もし二人のことを忘れてしまったとしても、自分が自分の生き方を貫く限り自分の中に刻まれているものが揺るぎない証明になっていくのかもしれない。そう思えた。
「今を生きて、その瞬間に置いていったものだけが思い出に変わる。一つは後ろを振り返ったときに道として、もう一つは宝箱の中の宝石のように未来への財産として支えになってくれるものなんだ」
何一つ忘れたくないと頑なになり続けていた心が、緩やかに解かれていく。思い出にも種類があって、それぞれ大切にする方法が違うことを今日初めて知った。
「君は宝石を宝箱にすらしまわず、道を作るための石材と一緒に抱え続けてる。それを続けてたら宝石は石材に傷つけられて輝きを失っていくし、腕がいっぱいでこれからのことは何も残っていかないよ」
思い出を振り返ったとき、アイゼアと同じように考えられないのも当然だ。彼の言葉を聞いた今ならすんなりと理解できるのが不思議だった。
今の自分は時間の止まった世界で朽ちることのない二人の亡骸を抱きしめている。そんな状態で思い出を振り返ったところで前向きな気持ちになれるわけもない。
幸せなことを思い出しても苦しさがつきまとうのは、アイゼアの言う『宝石』が傷つき、輝きを失いかけていたからかもしれない。
失ったものばかりに目を奪われて、叶うことのない未来を求めて、何度も頭の中で過去の幸せと惨劇を繰り返しながら『今』を取り零していく。そんな取り返しがつかない事態になってしまう前にアイゼアが気づかせてくれた。そして同時に、ある言葉を思い出した。
『死んだ方が生きてる方の記憶から消えてくのは優しさだ。すぐに立ち直れとは言わんが、あんまり縛られ過ぎるのは死んだ方も気の毒だろうな』
スイウがくれたあの言葉はこういうことだったのだと、今なら素直に受け入れられる。もし自分がミュールやフランの立場なら、二人を苦しめ続ける存在になり果てるなんて冗談じゃない。
それならいっそ存在ごと忘れ去ってほしいくらいだ。死という結末に囚われて、二人をそんな存在へと歪めてしまった自分の弱さが悔しくて、腹立たしかった。
「なんだか、目が覚めたような心地です」
冷えきってぼんやりとしていた思考と体に、悔しさと怒りの熱が血のように全身を駆け巡る。これまでに得た感情と経験と言葉が結びついて一つになり、視界が広がっていく感覚と共に頭が冴えてきた。
今度こそ本当の意味で二人を送り出してあげよう。心の中で抱きしめ続けてきた二人の亡骸を、役目を終えて過去になるべき記憶たちと共に埋葬する。時計の針を、ゆっくりとでも確実に未来へと動かしていこうと思えた。
すぐには消えない痛みも、いつか振り返ったとき歩んできた道となって自身の支えとなってくれるように。本当に大切にしたい思い出が心の財産と呼べるような輝きを取り戻せるように。
「私、必ずアイゼアさんみたいに二人のことを話せるようになってみせます」
「焦る必要はないよ。前を向いていれば、少しずつ大切なものが見えてくるはずだから」
理解はできても簡単には手放せない気持ちにアイゼアは寄り添おうとしてくれている。苦しいなら早く忘れてしまえと言うのは簡単だが、実際はそうではない。無理に解決しようとせず、ひとまず時間に身を任せてみようという姿勢に、思い出の歪みを正さねばという焦燥が和らいでいく。
「ねぇメリー、僕と一つずつ思い出を作っていこう。きっと未来では宝箱から溢れるくらい、たくさんになってるはずだよ」
楽しいことを思いついたときのような弾んだ声に反応した鼓動が、一つ強く胸を叩く。そこから少しずつ心音が耳の奥で優しく早まっていく。
思い出を作るということは、同じ時間を過ごし、同じ経験をし、心に残る何かを一緒に形にする『今』があるということだ。失うことばかり恐れて見えていなかったものに気づき、じんと胸の奥が温かく痺れる。
アイゼアは自らの手で幸せな未来を掴もうとしているのに、無理だと端から決めつけていた。人には必ず死が訪れ、遅かれ早かれ別れのときがくる。そんなごく当たり前のことに怯え続けていた。
大切な人と共にある幸せをミュールとフランが教えてくれた。なのに別離の痛みを知って遠ざけるということは、二人とのかけがえのない時間が痛みに負けてしまったことにならないだろうか。それでは『痛みを味わうくらいなら、幸せなんて知らない方が良かった』と言っているのと大差ない。
あの日々を痛みの記憶にしてしまわないためにも『愛する人と共に生きること』と『いつか来る喪失』に真剣に向き合っていきたい。アイゼアへの想いなんて捨ててしまえば良いと考えていた自分を恥じた。
「……なんて、僕だけの考えを押し付けてもしょうがないよね」
アイゼアの指が優しく目尻に触れてくる。いつの間にかぼやけて霞んでいた視界がフッと晴れ、世界が輪郭を取り戻す。
鮮明にアイゼアの姿を捉え、こんなにも真剣で真摯な眼差しを向けてくれていたのかと改めて気づく。穏やかな表情は、まるで冬の夜に包まる毛布のように柔らかく温かい。
「メリーにとっての幸せって何? 良かったら僕に教えて」
そよ風のような声はひっそりと優しく、さり気ない。押し付けがましさはなく、こちらの思い描く幸せと自由を何より尊重しようとしてくれているのが伝わってくる。アイゼアの瞳は変わらず灯火のような温かな光を宿し、メリーを静かに見つめていた。
この光を見るのは人生で“二度目”だ。出口のない暗闇に沈み、一人で彷徨い続けていた。闇雲に歩き続け、やがて痛みも感じなくなった。そんなメリーに道を照らすための最初の光をくれたのが兄のミュールだった。
寄る辺となる光を失い、ただひたすらにそれを取り返そうと故郷を旅立った。復讐を果たしてもこの手に光が戻ることはなく、暗闇に消えかけていたことにも気づかなかった心をアイゼアが探しに来てくれた。灯火に照らし出され、失いかけていた形を少しずつ取り戻していくようだった。
「すみません。幸せの形が何なのかハッキリとはわからなくて……」
兄妹で過ごしてきた日々は確かな幸せだった。だが同じ幸せはもう二度と戻らない。そして今ある日々はまだ、二人が生きていた頃と同じように幸せだと自信を持って言えない。
これから築かれていく幸せの形は全く同じ形にならないからこそ、自分にとっての幸せはこれだと言葉にするのが難しかった。
けれど、心からの幸せを探したいと……今は思える。
アイゼアは何度も前向きな言葉をくれ、この心に変わるきっかけをくれた。ここからまた変わっていきたいと素直に思える。問題は何一つ解決していないはずなのに、重ねられた言葉が心境を大きく変えていた。
もちろん怖くないと言えば嘘になるが、自分なりに向き合ってあがいてみたい。傷つきたくない、は敗走。距離感を保って守りたい、は防戦。そんな消極的な戦い方は自分らしくない。『幸せを掴む』という勝ちにいく戦いをこれからはしかけるのだ。
「だから、いつか必ず見つけてみせます。そのときは私の答えを聞いてください」
幸せの形を見出せたら、ささやかな時間も特別な思い出も、置き去りにされる痛みさえも愛し、心の支えにできる日がきっと来る。アイゼアが気づかせてくれたこれからの未来を信じたい。
「もちろん。一緒に探していこう」
「あ、りがとう、ございます……」
アイゼアの力強い言葉は温かく、ふわりと綻ばせた人懐っこい笑みがくすぐったい。無意識に、自分の力で何が何でも掴み取ってやろうと思っていた。一緒に探す、そんな選択肢をくれる人がいて、これからの未来ではそれを選ぶこともできるのだと気づく。隣で一緒に歩み、見守ってくれる人がいるということは嬉しいはずなのに、小さく胸が締めつけられた。
「あの、もう一つだけ、私の話を聞いてください」
「うん、何かな?」
言うか迷っていた、言わなければアイゼアには伝わらない想い。新たな関係の始まりの合図でもある。
口にすれば、きっとその瞬間から変わる。さすがに緊張し、アイゼアもこんな気持ちになったのだろうかと想像しながら深く息を吸って吐き出す。心のざわめきを少しだけ落ち着けてから彼の瞳をまっすぐに見上げた。
「私も、アイゼアさんが好きです。友人として、という意味ではないですよ」
その瞬間アイゼアは目を丸くし、二度三度と目を瞬かせた。呆けた顔のまま固まり、じーっとこちらを見つめ続けてくる。
「へぇ、メリーって恋心とかちゃんと認識できたんだ? ちょっと意外だなぁ」
「えっと……それはまぁ、なんとか……」
「まぁなんとか……?」
そんなことを言われるとは思っておらず、うっかり目を泳がせてしまった。
何だか失礼なことを言われているような気がしなくもないが、魔法薬の効果がなければ今でも無意識の下に眠っていた可能性は否定できない。とはいえ魔法薬のおかげだと白状する気にもなれなかった。
「とにかく、私は好きでもない人に好きなんて言いません」
「うん。それはそうだね」
アイゼアはゆっくりと落ち着きを取り戻していき、不意に距離が縮まる。背中にそっと力がかかり、そのまますっぽりと腕の中に収まると、こつんと額がアイゼアの胸元に軽く当たった。
「ごめん、別に疑ったわけじゃないんだ」
ぎゅうっと抱き寄せられてつま先立ちになり、体重を預ける形で体勢が傾く。ミュールやフランに抱きしめてもらうのとは少しだけ感情が違うと感じるのは、きっと気のせいではない。
「ありがとう、すごく嬉しいよ」
耳元で聞こえたアイゼアの声はいつになく近く、そよ風のように優しい。息遣いまで聞こえそうな距離感に心地良い緊張を抱く。伝わってくる体温に身を委ねて目を閉じると、安らぐような温かな匂いがした。
お互いの出会いは正直良いものではなかった。メリーは異国の怪しげな魔術士で、アイゼアはそんなメリーを拘束して連行した騎士だった。
何がどうなってこうなるのか、まったく縁というものは不思議なものだ。ぼんやりと今までのことを思い出していると、優しく背中をさすられる。まるで子供をあやしてるみたいだと思いながらも胸の奥がふわふわし、両手をアイゼアの背に回して抱きしめ返した。
初めて抱きしめ返した体は思っていたよりも大きく、がっしりとしている。包み込まれている感覚と温もりに頼もしさと安心感を抱いた。
「こうしてると、本当に恋人になったんだなって実感が湧くね」
「恋人、ですか……」
改めて口にすると、何と現実味のない言葉なのだろうか。ありえないと捨てたものは、いざ現実になっても上手く認識できないということなのかもしれない。
「恋人……恋人……」
もう一度、その現実味のない言葉を声に出してみながら、頭の中でゆっくりと事実を整理していく。
恋人、もうアイゼアとは友人ではない。想いを言葉にして伝えてくれた。苦しみと痛みに向き合ってくれた。嬉しかった。嬉しいのに、また胸の奥が締めつけられるような不思議な感覚がした。
「私に言葉をかけ続けてくれてありがとうございました」
アイゼアがたくさんの言葉をくれたからこそ、この『今』がある。苦しみに立ち向かう勇気と、誰かと共に歩むという未来に期待が持てた。そして初めてこの心に生まれた『人に恋をする』という感情を捨てることなく、大切にしたいと思えるようになった。
「お礼なんて言わなくていいから、一つだけ覚えておいてほしい。僕の幸せは、いつだって君の隣にあるって」
アイゼアにそこまで言わせるほどの価値が自分の隣にあるのか、メリーにはわからなかった。だが何があってもどんなときでも隣にいたいと思ってくれていることだけは伝わってくる。これからの時間を傍で分かち合おうとしてくれる人がいることが純粋に嬉しかった。
「覚えておきます。これからよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
現実なのか確かめるように抱きしめる腕に力を込めてみると、応えるようにアイゼアの腕にも少しだけ力がかかる。力強くも苦しくない程度に加減されていた。
「ねぇ、こっち向いてよ」
言われるまま顔を上げると、アイゼアと視線が交わる。アイゼアの瞳は、焚き火の上で爆ぜる火の粉のように輝いている。いつもは見せないようなそわそわとした様子が心なしか嬉しそうにも見え、小さく笑いが漏れた。
浮かれ気味の彼には聞きたいことや確かめたいこと、言いたいことがあった。だがそんな不安をぶつけたりはしない。アイゼアと共に幸せを築いていく努力をすると覚悟を決めたからこそ、想いを伝えたのだから。
あんなに恐れていた温もりから、今は安心感を感じる。想いが通じ合って隣にいられることに心が満たされていく。正しい道もわからず、進んでいるのか止まっているのかもわからないような暗闇の中にいた。今はアイゼアの持つ小さな光が、行くべき道を照らしてくれている。
今度こそ奪われたりすり抜けたりしてしまわないよう、彼を守るこの手が届きますようにと強く願う。ただただ『幸せだ』と心の底から言える未来を夢見て。




