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086 あなたの言葉の温もりは私の希望の温度(1)【メリー視点】

 メリーの手を包むアイゼアの手に優しく力がこもる。この手が明日も同じようにあるとは限らない。一年後、五年後、十年後、五十年後……百年後は確実にない。心の奥に潜む感情の正体を知りすぎてしまった。自分はこんなにも臆病だったのだと思い知らされ、心が焼き潰されていくようだった。


 なぜ二人との思い出は変わってしまったのだろう。復讐が終わって、慌ただしかった頃までは何ともなかった。段々と落ち着いて暮らせるようになってくると少しずつ違和感を感じ始めると共に、二人を思い出すことが増えていった。


 ミュールとフランの存在はいつも心を燃やす力をくれ、支えになってくれた。だがいつの間にか、二人との幸せだった日々を思い出すと二人の死の瞬間までもを頭の中で繰り返すようになっていた。


 迫り上がる怒りと憎しみは復讐を遂げた手を見て静かに消えていくのに、己の無力さだけが溶け残る。同じ手を見て思い出す。腕の中で花になって散らばっていくフランを。崩れて小さな破片になっていくミュールを。魔力を失っておかしくなった体の軽さを。石を砕く固くて鈍い感触を。


──二人の死の感触を、この手が覚えている。


 そしてまた二人との思い出に手を伸ばす。顔を、声を、言葉を、温かさを忘れないように、幸せだった日々で心を満たそうとして丁寧に丁寧になぞり、やがてまた最期の瞬間へと辿り着く。


 幸せだったと純粋に思えなくなっていることに気づき、全てが転じてこの身に降りかかってきた。まるで与えられたものの代価を要求されるように。


「どうして……」


 無意識に零れた声は、自分のものにしては随分とか細くて掠れている。苦しさと足元が覚束無いような浮遊感。思考は辛うじてできているが、全身が痺れたようにぼんやりとする。冷たさに体が強張ったまま、水底へ沈んでいく感覚に似ている気がした。視界に何かを映していることすら煩わしく、気づけば固く目を閉じていた。


「もしかしなくても、君の心の時間はまだ兄妹を亡くした日で止まったままなんじゃないかな」

「時間が止まったまま……」


 暗闇の中に声が降る。落ち着いたアイゼアの声は、天気雨のように明るくて暖かな印象だ。手繰るように彼の言葉を声に出して繰り返すと、すんなりと腑に落ちた。


 今と呼ぶにはもう取り返しがつかないほどに過去で、過去と呼ぶにはあまりにも生々しい。忘れたくなくて傍に感じていたくて、いつも心のどこかで二人の面影を追っている。


 仇敵である父ストーベルをこの手で殺し、復讐は果たした。未来と自由を勝ち取った。しかしそれは一つの区切りでしかない。失われたまま戻らないものに対する感情に向き合っていくことは、復讐とはまた別の戦いなのだ。


「確かにそうかもしれません。でも二人のことを忘れてしまうくらいなら、止まったままで良いんです」


 幸も不幸も全てが命を燃やす薪となって心を支え、原動力となってきた。だから復讐を果たすことができ、二人のいない今を生き続けている。二人の思いがなければ、きっと復讐を遂げた瞬間に命ごと燃え尽きていた。


「どうして忘れたくないんだい?」

「私が忘れてしまったら、二人は跡形もなく消えてしまうからです。忘れてしまった私に、二人のことを思い出させてくれる人はいませんので」


 小さな屋敷の中で世界から忘れ去られたように生きていた二人にとって、この記憶は数少ない生きた証でもある。そしてその記憶を共有する人は、極々小さな例外を除いてこの世には存在しない。だからたとえいつかは忘れていってしまうものだとしても、一瞬でも長く鮮明に留めておきたかった。


「そっか。何となくだけどわかる気もする。僕も父様と母様が過去になっていくのが苦しかった時期があるから」


 そっと寄り添うような声に、少しだけ体の感覚が戻ってくる。胸の中にあった寒さがゆっくりと凪いでいき、地に足が着いたような心地がした。


「……アイゼアさんはどうして苦しかったんですか?」

「理由はいろいろだね。二人が僕にくれた全てが幻になってしまうんじゃないかとか、カストルとポルッカに伝えるために覚えていないととか、二人を軽んじていることにならないか、とかね」


 微かに沈んだ声に、何と声をかければ良いのかわからず口を(つぐ)む。アイゼアの言葉を聞いて彼の思いの全てを理解できたとは思わない。それでも似たような痛みを抱えてきたこと、自分が抱いている思いと重なる部分があることを知った。


「でも何より、恩に報いることもできないまま、もう何もしてあげられることがないのが苦しかった。ただ忘れていくだけの自分を何度も薄情だと思ったよ」


 赤裸々に語られた言葉は、きっと誰にも知られたくないはずの言葉になんてしたくなかった思いや感情だったはずだ。だからこそ上っ面を伝うのではなく、雨が土に吸い込まれるように心の中へと染み込んでくる。


 いつもは本心すら隠して振る舞うような人が、見せたくない傷痕を曝け出してまでこの心の痛みに触れようと手を伸ばしてくる。


 そんなことをしたって他人の思いや感情なんて理解できるはずもない。理解してほしいとも思わない。なのに感じるのは呆れや怒りではなかった。胸の奥からジリジリと炙られるようなこの感情は一体何なのだろう。


「だから今みたいに考えられるようになるまで少し時間はかかったかな。でもおかげで、一つわかったこともある」


 アイゼアが喪失と苦しみを越えて導き出した答えが知りたくて目を開く。見上げると、自然とアイゼアと目が合った。


 ゆっくりと瞬きする彼の瞳には小さな光が宿っている。明るい太陽のような力強さはなく、静かな月明かりや星の(またた)きとも違う。暗闇を照らし歩むための柔らかな灯火に似ていた。


「本当に大切なことは必ず心の中に息づいて輝いてる。心配してたほど簡単に消えたり忘れたりなんかしないって」


 無意識に胸元に手を当てていた。別に手のひらに息づいている何かが伝わってくるわけではない。胸の奥を炙る熱が増したような気がして、そうしたい衝動に駆られたのだ。


「父様と母様がくれた言葉や教えはもう僕の一部になってる。心と体に染みついてるから消えないんだ。仮に僕が二人のことを全て忘れてしまっても、僕が僕のままである限り僕の生き方には二人の生きた証が刻まれてる。メリーにもそういうものがあるんじゃないかな」



──アイゼアの言葉から記憶が静かに蘇る。



 兄のミュールからは本当に多くの助言をもらった。ミュールの『お願い』もできるだけ叶えたくて何度も応えてきた。


『メリー、お前は自分を大切にしなさい』

『笑顔は誤解を解いてくれることもある。私もフランも、メリーが笑っていると嬉しくなる。笑顔にはそれだけ力があるってことを覚えておくんだよ』

『困ってる人を見かけたら、私の代わりに助けてやってほしい。お前ほどの力があれば大抵のことは容易いだろう。頼りにしている』


 体を壊され、思うように動くことのできないミュールの力になりたくて、頼み事は深く考えず言われるままに叶えてきた。


 だがあれは単なる助言や頼み事ではなく、人として生き、人と関わっていくために必要なことが身につくように導いてくれていたのだ。その意図が理解できるようになったのは、復讐の旅が終わってからのことだった。


 妹のフランからはいろんな感情を学んだ。ずっと蔑まれたり恐れられたりで他人との関わりなんか乏しくて、人と接することで生まれる感情を知る機会もほとんどなかった。フランはいつでも対等に臆さず接してくれて、喜びも怒りも悲しみも素直に表現してぶつけてきた。


『メリーおねえちゃん、えほんよむのへただね。でもね、がんばってよんでくれて、すっごくうれしかったよ!』


 最初の頃はミュールに「優しくしてあげなさい」と頼まれたもののどう接して良いかわからなかった。お願いを聞けば良いのかと渋々絵本を読んでやれば、にこにこしながら下手だと貶してきた。


『ミュールお兄ちゃん……ごめんなさい。何もできなくて、できそこないでごめんなさい。ミュールお兄ちゃんがくるしいの、わたしのせいだ。わたしがメリーお姉ちゃんのじゃまばっかりしてたから……!』


 ミュールの容態の悪化を、なぜか自分の責任だと大泣きしながら謝り倒されたときは本気で意味がわからず、初めてのことに困惑した。因果関係なんかないことを説明しても全く伝わらず泣き続けるフランを見限り、何もできない自分を今卒業しろと、まだ幼い彼女に看病に必要な雑用を全て叩き込んだ。


『もー、やっと起きた! ちゃんとベッドで寝なくちゃダメだよ! まったく……自分には甘いんだから』


 研究に没頭しすぎてうっかり机で寝ていたらお姉さんぶって説教してきたこともあった。何だこの理解し難い生き物は……と思ったことは数えきれないほどある。


 だが、命の刻限という言葉が常にチラつくあの生活に笑顔と明るさがあったのは間違いなくフランのおかげだった。


 腹が立つこともあったし接し方に困ったこともあったが、一緒にいて楽しかった。そんなフランと一緒にいるうちに様々な感情に触れて、向き合う機会も増え、感情を理解したり感情への対応も少しずつ覚えていった。


『いつもの、メリーお姉ちゃん、どこいっちゃった、の……?』


 息も絶え絶えなフランの声を思い出す。思えば、魔力や魔術を他人を守る目的で使おうと思えたのはフランが初めてだった。魔力が弱いというだけの理由で遊び半分にボロボロにされ、フランはぐったりとしていた。


 捨てられたように冷たい地面に転がされた姿を見た瞬間、頭が焼き切れそうなほど熱くなった。気づいたらフランを(なぶ)って面白がっていたやつらは元いた場所にはおらず、代わりに石畳が飛び散って土が剥き出しになっていた。その向こう側で、棒きれのように人が転がっていたのを覚えている。


自分の中に、フランを傷つけられると怒りの感情が湧くのだと気づいた。


 他人の命を奪うことに抵抗はなかった。そして、命を奪おうと思うほど心が動くこともなかった。


 けれど、このときは違っていた。“棒きれ”がもぞもぞと動き、まだ息があるのだと気づいたとき、もう二度とこんなことが起こらないようにきちんと“処理”しておくべきだと思った。訓練の幻影ではない、初めて……明確な殺意を持って、人を殺そうとした。


『やめて、メリーお姉ちゃん。おねがい。いたいのは……ダメ。わたしのせいでみんなにきらわれちゃう。そんなの、ぜったい……いやだよ……!』


 喋るのも苦しいはずなのに、フランは自分を傷つけた者を庇おうと必死に縋りついて止めてきた。フランの怯えきった顔を見て、他でもない自分が怖がらせてしまったのだと頭が冷えた。そして彼女の慈悲は理解できずとも、皆が皆自分と同じ結論に至るとは限らないことを知った。


『感情に任せて動くのは得策じゃない。何事においても、冷静さを欠いた方が負ける。その場限りの感情じゃなく、常に先を考えるんだ。でないといつか私と同じ失敗をしてしまう』

『わたし、メリーお姉ちゃんがぎゅーってしてくれるのすきなんだ。だから今日はね、だいじょうぶ、もうかなしくないよ、おこらなくてもいいんだよって、わたしがメリーお姉ちゃんをいーっぱいぎゅーってするね!』


 フランを連れて帰ってから、ミュールには反撃したことを咎められ、冷静になるよう忠告された。フランにはなぜか抱きしめられ、子供をあやすように宥められた。なぜと聞けば、二人は『心配』だと答えた。


 身を案じてくれる言葉はそれまでに何度も聞いてきてはいたが、自身の強さに自信があったせいか、いまひとつピンときていなかった。こちらから言わせてもらうなら、むしろ『心配』なのは虚弱体質なミュールや戦う力を持たないフランの方だった。


 負傷や体調以外に、心配するようなことがあるのだろうかと常々疑問に思っていた。だがこの日、心配するということにも種類があり、ミュールは『未来』をフランは『心』を案じてくれていたのだと知った。


 いろんな言葉や教えが経験と共に積み重なって今の自分ができた。そうしたものはもう思い出や記憶というものを凌駕し、自分の人格や生き方の一部として確かに染みついている。簡単に消えてなくなるものではなく、仮に消えたとしたら、それはきっともう……『私』ではない。

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