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085 あなたの手の温もりは私の絶望の温度(2)【メリー視点】

 種族の寿命差から、ほぼ確実に先にアイゼアはいなくなってしまう。これ以上、彼が大切な人になりすぎてしまうことが恐ろしい。兄妹を失ったときの……あの苦痛を味わうのは、二度とごめんだ。


私、アイゼアさんのことは良い友人だと思ってるんです。


 断り文句としてあえて使わなかった嘘を口にしそうになって、慌てて喉の奥へと押し込む。


言ってしまったら終わりだ。もう気づいてる。

それはただの──逃げだ。


 アイゼアをこちらの面倒な事情に巻き込みたくない思いは本心だった。だがそれが解消されれば、純粋にそれだけでない感情が露呈する。


 幼い頃から、周りは平然とメリーを踏みにじってくる敵だらけだった。他人を変えることは不可能に近いことも、他人に期待するほどに不安定かつ不確定な要素が増えることも幼いながら理解した。


 最も信頼できるのは自分自身であり、信頼に足るだけの力を身につけることで揺らぐことのない強さと自信を得られると結論を出した。自分に向けられる悪意とそれに付随して生まれる感情を不要だと判断し、切り捨てることで今日までを生きてきた。自分は強くなれたのだと思っていた。


 だが復讐の旅や人との関わりを通して気づいたことがある。攻撃的な他人の言動には(もっぱ)ら強い一方で、大切にしている人から与えられる感情の揺らぎには弱い。芽生えた感情は良い意味でも悪い意味でも激しく心を揺さぶってくる。


 心を灼くような感情はまるで炎のように燦然としていて鮮やかで、心地良いような疲れるような苦しいような変な感覚だった。それでも捨てたいと思ったことは、不思議となかった。ただ一つ、アイゼアへの想いを除いて。


 同じ『捨てる』という選択でも昔と今では全く意味が変わってしまった。幼い自分は、受け止める必要のない痛みや無駄な感情を捨てることで他者に依存しない強さを得た。


 だが今の自分は単に失う痛みから逃げるためだけに捨てようとしている。大切な人から与えられている感情を、敵意や悪意と同列に不要なものとして扱おうとしている。


 捨てることで逃げずに立ち向かってきたという自負と矜持がアイゼアへの感情を捨てることを許さない。それがただの逃げでしかないことにもう気づいてしまっている。


 ここで逃げることを許してしまえば、常に強くあるための選択をしてきた自分が嘘になる。過去に捨てる決断をしたことが立ち向かうための手段ではなく、耐えきれなかった弱さのせいになってしまう。立ち向かってきた人生が逃げっぱなしの人生に一瞬で転じてしまう。


 荒天の雪原に吹く暴風のような恐ろしい現実が目の前に差し迫り、心を凍らせていく。強さという唯一の価値を失い、貫いてきた生き方や矜持も失い、空っぽになってしまった自分では大切な人を守りたいという思いすら負け犬の遠吠えにしかならない。


そんな空虚で惨めな存在になり果てて、一体どう生きればいい。


 そこまで思考が追い詰められたところで、ふと前にアイゼアに言われたことを思い出した。


「アイゼアさん、苦しいときは話してって言ってましたよね」

「もちろん。話してくれるならいつでも聞くよ」


 たぶん今が、これが苦しいときというものだと感じた。旅に出る前の自分だったら、自分の弱さを誰かに話そうなどとは考えもしなかっただろう。


 だがこれまでの人との繋がりの中で、弱さを認めて強さに変えられることもまた強さなのだと学んだ。だから今“立ち向かう”ために必要なのは、その先の未来で乗り越える強さを手に入れるために恐怖を認めて向き合うことだ。それができないのなら、全てを失った敗北者として死ぬ以外に道がない。


「なら、聞いてほしいんですけど」

「うん」

「ミュール兄さんとフランは私の一部と言っていいほど、私にとって大きな存在でした。今の私は毎日を穏やかに過ごしてるはずなのに、二人を思い出すとどうしようもなく苦しくなるときがあるんです」


 本来なら絶対に口にしない心の奥底に沈めた思い。話すことに強い抵抗感があったはずだが、短くも優しい返事に導かれるように素直に口から溢れてしまった。これまで何度か感情的に弱い面を晒してしまったことがあるとはいえ、冷静な頭で自ら話そうと思ったのは初めてかもしれない。


「だからアイゼアさんが二人と同じような存在に変わってしまうのが怖いんです。あなたは私より先にいなくなってしまいますから」


 自分の価値は強さ以外にはなかった。兄のミュールや妹のフランを始め、親しくしていた者は多かれ少なかれこの魔力に守られることを期待していただろうし、自分自身も強さに誇りと価値を感じていた。


 その考えは今でも変わっていない。臆病で弱気な本音を口にすることは存在価値を自ら捨てる行為でもあったが、それ以上に「私は逃げなかった」と胸を張って言える自分でいたかった。


 価値がないというのは癪だが、存在価値は他人がいて初めて生まれるものと捉えるならば最悪なくても構わないと思う。これから必要なのは存在価値の方ではなく、生きるための価値。つまり自分が感じる自身の価値……自信を持って自分を貫くための誇りと矜持の方だ。


「そうだね、普通にいけば僕はどうやってもメリーより長くは生きられない。人間と霊族……いや、そもそも人同士にはどうにもできない壁がいくらでもあると思う。でも相手を思う気持ちがあるならできることはあるってこの梔子(くちなし)の木が教えてくれたんだ」


 答えを求めるように、アイゼアから譲り受けた梔子の木へと視線を向ける。梔子はぽってりとした白い花を咲かせ、甘くしなやかな香りを辺りに漂わせている。彼の養母の形見であり、大切に育てると信じて託してもらったものだ。


 再度アイゼアへ視線を戻すと、彼も同じように梔子の木を見ていた。梔子の向こうに秘められた、メリーの知らない思いと記憶。懐かしそうに細められた瞳は同じものを見ているようで見ていない。


「優しい思い出と温もりと感謝、支えてくれる人たちがたくさんいること。父様と母様は亡くなったけど、僕に遺してくれたものは変わらず僕を支え続けてくれてる。今を大切にして生きようって前向きな気持ちになれる。だから僕もメリーに同じことができたらって、それが先にいなくなる僕が君にできることなんじゃないかって思ってるんだ」


 アイゼアの養父母は殺されたと聞いたことがある。ミュールやフランと同じだ。にも関わらず記憶を思い出したときの感情には雲泥の差がある。それはこうして話しているアイゼアの穏やかな表情を見れば嫌でもわかることだ。


 何が自分とアイゼアでは違うのか。穏やかに大切な人の話をする彼が心の底から羨ましかった。大切なはずの記憶は、いつの間にか心を温かくしてくれるだけのものではなくなっていた。


 アイゼアとの差を見せつけられたことでようやく明確に自覚し、心が灰になっていくような虚無感に襲われる。大切にしていた思い出が一気に色褪せて崩れていくようで、体から力が抜けそうになった。


「そう、ですか……でも私には意味がないと思います。私にだってミュール兄さんとフランとの幸せな思い出はありますし、今が幸せだってことも、支えてくれる友人がいる自覚もあります。それでもアイゼアさんのようには思えないんです。いつも……二人が、いなくなってしまったことが……」


頭から離れない。


 今を共に過ごし、未来を紡ぐはずだった人はもういない。もちろん大切に思える人は他にもいるが、一番大切にしていたはずの日々があの日に失われてしまった。


 それでもまだ存在するこの日々は何なのだろうか。二人の分まで人として自由に幸せになると誓い、実際に自由も幸せも手にした。なのにどこか満たされていない感覚がある。


 何かが違うような、これが自分の求めていた……兄妹たちの夢見た幸せの形なのだろうか、という僅かな疑念がほんの微かな違和感としてしこりのように胸の奥にある。


 アイゼアの出した結論が言葉の通りなら、彼とは何かが根本的に違う。条件は同じはずなのにこの胸の痛みはいまだ癒えず、彼のような明るい前向きさも持てないのだから。


 雪が手のひらの温度に耐えられないように、一人ではないと寄り添い励ましてくれている優しい熱が痛い。一人ではないからこそ恐ろしくて苦しい。


 アイゼアはいつだって希望をくれた人だった。だが、息の根を止めるのもどうやら彼らしい。弱さを乗り越えていくための強さへ変えられればと考えたが、自分は彼と同じ形の強さを持つことができそうにない。


 矜持を捨てて空っぽになるか、喪失の痛みに灼かれて灰になるか。何を選んでも残された結末は一つ──破滅しかない。そしてアイゼアへ抱いたこの想いは、やはりこの身を灼き滅ぼす業火だったということだ。

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