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083 境界に触れる熱【アイゼア視点】

 和やかな時間はあっという間に過ぎていき、アイゼアたちは明日に備えて遅くならないうちに店を出た。支払いは元々の約束通り、メリーの分まで含めてスマルトが気前良く払ってくれた。


「それじゃ、お疲れさん。二人は明日の勤務も頑張ってな」

「それ言わないでよー。せっかく楽しい気分に浸ってたのに最低〜」


 プルシアの嘆きを聞きながら店の入口で二人と別れる。アイゼアはメリーを東区にある自宅まで送っていくことにした。メリーの表情はいつもと然程変わらないが、僅かな足取りの軽さからしっかり楽しんでくれていたことが伝わってくる。


「今日は何か用事でもあった? この時間に外出って珍しいよね」

「そうですね。最近生産が追いついてない魔法薬があって、その日できた分を毎日ペシェの店へ納品しに行ってるんですよ」


 メリーは魔法薬を運んでいたらしき、四角く立体的な肩掛けカバンをポンポンと叩いて見せてくる。おそらく接客の邪魔にならないよう閉店後に行ったのだろう。


「それより、私が酔ってたとき情緒不安定だったって言ってましたよね。どんな感じだったんですか?」


 深く気にしていないふうを装ってはいるが、さり気なく笑う口元が少し固い。そもそも気にしていないことをわざわざ聞いてくる性格でもないので、聞いてきた時点で気にしているのだろうなと思われるという点は頭にないようだ。


 あのときのことをそのまま伝えれば良くないことになりそうなのは目に見えている。常に強さにこだわる彼女は自身の弱さを他人に知られたくはないだろう。それも酔った勢いで自分の口から零してしまったというのは相当屈辱的なことなのではと想像できる。


「メリーが思ってるようなことはなかったと思うよ。何というか、気分が沈んでるって感じだったかなぁ。わりとすぐ寝ちゃったしね」

「そうだったんですね。迷惑をかけてしまったみたいですみません」

「飲み慣れてないって知ってたからある程度予測してたし、あんなのは迷惑のうちにも入らないから気にしないでよ」


 これまでいろんな酔い方のパターンで幾度となく介抱してきた経験がある。もちろん悲惨な目に遭ったことも数知れずだ。それを思えば全然手もかかっていないし、十分すぎるほどかわいい部類に入る。


「そうですか……とにかくありがとうございました」

「いえいえ」


 ホッとしたような控えめな微笑みにチクリと良心が痛む。嘘こそついていないが、知りたがっているのに隠してしまった後ろめたさがないわけではない。だが自分さえ黙っていればそれは“なかった出来事”として闇へと葬ることができる。正直に話すことでメリーが傷つくくらいならその方が良いと考えた。


「そういえばアイゼアさんが譲ってくれた梔子(くちなし)が咲き始めたんですよ。まだ花は多くないんですけど、せっかく家まで来るんですし見ていきますか?」

「そっか、もう花の季節だったね。メリーさえ良ければぜひ」


 話題が変わってくれたことに安堵しつつ二つ返事で誘いに乗る。返事を聞くなり、メリーは微かに目元を緩めた。


 想いが同じでなくとも、もう少しだけ一緒にいたいという気持ちは同じなのではないかと勘違いしそうになる。すぐに淡い期待を抱いてしまうのは自分の悪い癖だとわかっていても、メリーが嬉しそうに招いてくれることにふわふわと胸が踊った。



 メリーの家へ到着し、早速裏庭へと通される。扉を開けた瞬間、梔子の花の甘い香りがほのかに鼻先を掠めた。


 月光に照らされた瑞々しい草木の緑が目に映り、その中にぽつりぽつりと梔子の花が真珠のように白く淡く輝いている。過去の情景が一瞬見えたような気がして、懐かしさが胸の奥で燻った。


「綺麗に咲いてるね。こんなに大切にしてくれてるって知ったら母様たちもきっと喜ぶよ」


 心なしか屋敷に植えられていたときよりも生き生きとしている。梔子の木のことは庭師に頼んでいたが、庭師が手をかけることを叔母夫婦は快く思っていなかった。そんな逆風にも負けずきちんと維持し続けてくれた庭師には感謝しかないが、メリーが丁寧に手をかけてくれていることもよくわかった。


 梔子の香りに包まれていると、いつも昔のことを思い出す。ウィンスレット家に引き取られた日も同じように梔子の白い花が美しく咲いていた。そのときの養母の表情とかけてくれた言葉が静かに蘇ってくる。


『ほら、花びらの色がアイゼアの髪にそっくりね』


 養母がくれた温かさと心の奥底に潜む小さな後悔がじわりと滲み出す。あのときに感じていた思いを何となくメリーに聞いてほしくなった。


「昔、母様が言ってたんだ。梔子の花と僕の髪の色が似てるって。髪だけで、他は全然似てないのにね」


 旧姓が梔子を意味するガーデニアだったから引き合いに出されたのだろうが、花の色こそ似ていても、美しい花の在り方と自分の性格や人生は似ても似つかない。比較されても惨めなだけだと当時から感じていた。


「……言われてみればそうですね。わりと似てるかと」

「ちゃんと話聞いてた?」

「もちろん聞いてましたよ。似てるのは色だけじゃないって思ったんです。香りに癒しの効果があるのは有名ですし、実からは黄色と青の染料が作れるだけでなく、薬効や美容効果まであるのを知ってますか? 多才で器用な感じがよく似てると私は思いますけど」


 返ってきた答えは植物に詳しいメリーらしいものだった……のだが、思いもしなかった方向から流れるように褒められて戸惑う。褒めようという意識を感じない素直な言葉だからこそ少しだけむず痒く、落ち着かない。


「だから似てないって拗ねてないで、自分もそう思うってお母様に言って差し上げたらどうですか?」


 勝ち誇ったような、自信に満ちたメリーの笑みにつられて頬が緩む。少し皮肉っぽい言い回しも、彼女なりに自信を持たせようと激励してくれているのだと思うと微笑ましく感じた。


「ありがとう。もうちょっと自信が持てたらそうしようかな」


 メリーはこちらが想像もしていないような考え方をすることがある。彼女の考え方や価値観は周りを振り回して戸惑わせることも多い。


 だが、いろんなものに縛られ視野が狭くなりがちな自分に新しい物の見方や捉え方を教えてくれる。それがどれだけこの心を救ってきたのか、目に映る世界を輝かせてくれたのか、メリー自身は気づいてもいないのだろう。


「なんか……思い出がこうして形で残ってるのって良いですね」


 しんみりしたメリーの声が、静かな夜の空気に溶けていく。口元こそ柔らかく微笑んでいるが、寂しそうな眼差しがまっすぐに梔子の木へと注がれていた。


 今のメリーの家に彼女の兄妹を感じられるものはほとんど残っていない。アイゼアが知る中では、写真立てに入れられた四つ折りのシワの入った写真一枚だけだった。


 以前メリーの故郷を訪ねた際、兄妹と一緒に住んでいたという屋敷に泊めてもらったことがあった。綺麗に掃除されて整えられていたものの、屋敷内のあちこちに残っていた傷跡を今も覚えている。


 あの傷跡の一つ一つが、あの場で何が行われたのかを静かに物語っていた。当然壊されてしまったものも多かっただろう。


 大切な人を奪われただけでなく、大切な思い出の詰まった場所までめちゃくちゃにされたメリーの心情は計り知れない。復讐に命を燃やしていた姿とあの昏い眼差しを不意に思い出し、胸が苦しくなる。


やっぱり、メリーを一人にはできない。


 スマルトの助言から想いは自由で、選ぶのはメリーで、自分はただできることをしていけば良いのだと思った。でもこの指先から凍えていくような寂しさに触れると、独りよがりな想いだけではダメなのだと痛感させられる。


「アイゼアさんの思い出が消えないように大切に育てますね。安心して任せてください」


 もしこの梔子の木が失われたとしても、思い出や積み重ねてきたものは簡単に消えたりしない。梔子のことがあまり重荷になりすぎてもいけないと思って口を開きかけたが、一歩踏み留まるようにして閉じた。


 大切な人を殺されて失ったのはアイゼアも同じだった。それでも今、穏やかに笑える日々を過ごしている。最初こそどん底まで落ちたが、少しずつ前を向けるようになってからは悲しみに沈むことも段々となくなっていった。


 喪失の痛みを抱えながらもありのままの幸せを大切にできているのは、たくさんの温かな思い出が自分の中に残っていて、支えてくれる人たちが周りにいるからだ。


 養父母と出会って初めて人の温かさや愛情というものを知った。二人を失うと同時に、温もりも……未来も期待も失った。けれど──全てが失われたわけではなかった。


 罪人で、賢くもなく、性格も歪みきった子供だった。幸せが何かもわからないまま、ただ諦めていた。それでも養父母はいつでも誰よりもアイゼアの幸せを信じ、願ってくれた。心に寄り添い、思い出や出会いを紡ぎ、ひとりぼっちだったアイゼアに惜しみなく結んで繋いでくれた。


 二人の願いと共に築いてきた小さな積み重ねは、真に目を向けるべきものを指し示し、顔を上げて明日を生きるための背中を押してくれた。二人の存在は死してなおアイゼアを救った。もし同じことを自分がメリーにできれば、傍にはいられなくとも心の中で彼女を支え続けることができるのかもしれない。


「僕の大切なものを、一緒に大切にしてくれてありがとう」


 メリーは兄妹を大切に思う反面、固執しすぎているところがある。それはきっと遺された物があまり多くないことにも一因があるのではないかとアイゼアは思う。


 アイゼアにとっての梔子の木のような、兄妹の思い出や存在の証を宿す何かがメリーにはほとんどない。自分の中にある記憶だけがメリーの頼りなのだ。忘れたら忘れただけ思い出せなくなっていく。物がないということは、思い出すきっかけも乏しいということだ。


 だからといって寂しさを埋めるために過去の幸せにしがみついても、結局喪失感と虚しさに傷ついていく。失ったものばかり追い続けることは、未来永劫埋まることのない孤独と苦しみを追うのと同じことだ。


 なら思い出に意味なんてないのかと言われれば、それは違う。温かな思い出の積み重ねは、温かな未来を思い描く想像力に繋がる。大切な人を失っても、一緒にいてくれる者たちと新たな思い出や幸せを紡いでいく自信になる。


 それは悲しみや苦しみの中にあっても、希望を持って前へ進むための原動力になる。少なくともアイゼアはそうやって大切な人の喪失と共に歩んできた。


「当然ですよ。信頼して任せてもらったんですから」


 メリーの声は嬉しそうで、誇らしげに笑って胸を張っている。メリーを知る人なら当たり前のように思うこの姿も、アイゼアから見れば少し眩しく感じられる。


 友人の親とはいえ、顔も知らない他人の遺品なんて重荷に感じる人もいるだろう。それも植物という繊細で維持に手間もかかるものだというのに。少なくとも自分なら譲り受けることに不安を覚える。


 だがメリーにはそんな不安は欠片もないように見えた。彼女の口から「枯らしたらどうしよう」という言葉を聞いたことがない。自分に自信があるからこそ、信頼が重荷にならず誇りになる。その堂々とした姿は、厄介なことを頼んでしまったのではないかというアイゼアの後ろめたさを簡単に吹き飛ばしていった。


 メリーは良くも悪くも自分の意思を最優先し、誰かに手を差し伸べることも彼女の気分と感情次第だ。そこに正義感や良心はなく『自分が助けたいと思うかどうか』しかない。だからなのか、決して相手に見返りを求めない人でもあった。


 見返りを求めず自ら望んで手を差し伸べる姿は、ある意味では無償の愛と呼ぶのに相応しいのかもしれない。苛烈で極端な振る舞いの影に潜む人柄の純粋さが愛おしく、多くの人に知られぬまま誤解されていることに切なさを感じた。


「……やっぱり僕は、メリーの傍にいたいな」


 こらえきれなくなったメリーへの想いがあふれ、その一欠片が言葉になって零れる。


 かつての養父母がアイゼアにとってそうであったように、ゆっくりと世界を広げていくメリーの『今』を分かち合ってもらえる存在になりたい。嬉しいときも、楽しいときも、悲しいときも、苦しいときも、上手くいかないときも、その全てが温もりと共にあるように。たとえこの目で、最後までは見届けられなくても。


「……? 今いるじゃないですか」

「ふふ、そういう意味じゃないんだよ」


 不思議そうにしながら首を傾げるメリーを見て、遠回しな言葉では全く伝わりそうにもないなと少しだけ笑ってしまった。メリーに気持ちを伝えるのなら、やはり彼女自身も好んで使っている率直な言葉が一番なのだろう。


「メリー……さっきの言葉はね、僕はメリーのことが好きって意味なんだ」


 胸の奥に燻る愛しさと覚悟を込めて言葉を紡ぐ。悩みながらも周囲の人の言葉に支えられ、そして最後は養父母との思い出に導かれて辿り着いた。つくづく自分は多くの人に支えられて生きているのだと実感させられる。


 ずいぶんと遠回りをした気もするが、遠回りしたからこそ多くのことを知り、考えてきた。そうして自分の答えに辿り着けたのだから、これで良かったのだ。


 メリーはまっすぐにこちらを見つめたまま、ほんの僅かに目を丸くしていた。躊躇(ためら)いなく向けられる、果てのない星空のような青の瞳がアイゼアを映している。そんな些細なことにどれだけの喜びと幸福を感じているのか、メリーに全く伝わらないことが残念でならない。


 だからこそ心の中にある想いが一つでも多く正しく伝わるよう、真剣に、慎重に、そして大切に言葉に乗せていく。


「メリーが好きです。君の隣を、僕にください」


 ようやく本当の意味で明確に伝わったのか、メリーの瞳がまるで月が満ちていくように大きくまん丸になっていく。想いが伝わっても、実るとは限らない。ここから先はメリーが決めることであり、メリーが自分の幸せのために選ぶ道なら何より尊重したいと思える。


 想いが砕けたとしても、メリーが別の誰かを隣に選んだとしても、この胸に抱いた想いは変わらない。養父母が見返りなくまっすぐに愛し願ってくれたように、メリー自身が自分の行いに見返りを求めないように、誰よりも自分が純粋にメリーの幸せを願おう。


 この身が朽ち果てたその先で、温かな思い出を語らいながら笑い合える人たちがメリーの傍にいてほしい。思い出が未来を描き、孤独に打ち克つための支えになってくれれば、メリーはきっと穏やかに生きていける。そしてその思い出のほんの一欠片の中に自分がいられるのなら、これほど嬉しいことはないだろう。

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