077 目に映るものを信じて(1)【メリー視点】
イルシーの森の奥深く、少し開けた日の当たる場所に兄のミュールと妹のフランの墓碑はある。柔らかな草を踏みしめて墓碑の前に立つと、メリーを歓迎するように草の青い匂いと温かな日だまりが迎え入れてくれる。
天を仰ぐと緑の額縁に彩られた青空の眩しさが目に染みた。花を手向けてから祈りを捧げ、墓碑にもたれかかって座る。固くひんやりとした冷たい石の感触は、かつての二人の柔らかな温もりとは……程遠い。
「ミュール兄さん、フラン……ありがとう」
黄昏の月の魔力のことをどう考えて受け止めていたのか、二人が生きている間に一度も尋ねたことはなかった。二人が向けてくれる感情を疑ったことがなかったからだ。疑わなくていられるほどに、とても丁寧に優しく隠されていたということだろう。
あの頃の温かな気持ちと、捨てたくなるような重い気持ちを抱えたまま目を閉じ、余計なことを考えないように瞑想を始めた。ゆっくりと息を吸い、静かに細く長く息を吐く。風景の一部として同化するように、存在を自然の中へ馴染ませていく。
髪は風に溶け、足は地へと根を下ろす。
体は幹に、手は枝となり天へ向けて枝葉を広げる。
気配もやがて草花のざわめきに沈む。
無になれば無になるほど妖魔や精霊が周囲に集まる。メリーの魔力を好まない精霊たちも、このときだけはすぐ傍に感じることができた。
自分という存在がひっそりと森に絡め取られて同化していく。風、木、草、花、土、石。あるいはこの森を構成する種の一つになるように人と自然の境界を曖昧にする。それが霊族の瞑想というもので、精神を研ぎ澄ますということは魔力の純度を高めることにも繋がる。
「おい。干からびるまでそうしてるつもりか」
不意にぶっきらぼうな声が上から降ってくる。瞑想状態から戻ると周囲に集まっていた精霊たちの気配が蜘蛛の子を散らすように離れていった。溶けるように曖昧になっていた自身の輪郭を取り戻すと、声の主であるスイウが目の前でこちらを“見下ろしている”のが見えた。
すでに日が傾いてきているのか、ほんのりと辺りが朱を帯び始めている。ここで瞑想を始めたのが昼頃だったことから、数時間ほど瞑想に耽っていたことになる。
「さすがに干からびるまではしませんよ」
「へー……そのわりには今回えらく長かったな」
スイウの視線に内心ギクリと固まる。意味深に感じるのは自分に探られたくない腹があるからだろうか。魔術士にとって瞑想が重要なのは事実だが、心を無にしていたかったからというのもある。そうでなくては昨夜のことをすぐに思い出してしまうからだ。
『メリーを捨てるくらいなら、僕は普通じゃなくていい!』
酷く切羽詰まったアイゼアの声が鮮明に蘇り、静かな水面に一滴の雫が落ちるように波紋を広げていく。泣きそうに歪んだ彼の表情。伝わる体温と息遣い。真摯に向けられる言葉。その一つ一つが記憶の雨となって、心の水面を叩く。
忌避され、白眼視され、冷たい言葉を向けられることには慣れている。今更傷つきもしない。納得はいかなくても、仕方ないことだという諦めもあった。
自他共にそういうものだと思っていたものに『耐え抜けるから別にいいなんて思わない』と言われたのは初めてだった。傷つく傷つかないではなく、当たり前のように疎まれている環境をアイゼアは許そうとしなかった。
『これからもメリーの隣にいていいかい?』
『メリーが大切だから』
息が詰まって、胸が苦しい。はち切れそうなほどの嬉しさと受け入れるわけにはいかないとささやく理性と、影に僅かに潜む猜疑心。差し伸べられた手を取りたくて、取るわけにもいかなくて、もし手を取ったとしても結局同じ失敗を繰り返すだけではないかという怖さがある。
だがアイゼアは、メリー自身が大切な人たちを守りたいと思うように、メリーを守りたいのだと言う。内に抱えた強い思いが共鳴し、自身がアイゼアと同じ立場ならきっと同じような選択をするという確信へと変わる。信念にも近いこの思いを拒絶されたときの感情を想像し、それまでの対応を貫けるだけの意思の強さを失ってしまった。
アイゼアを悲しませたいわけではないという思いと同時に、諦めなければ何かが少し変わるかもしれないという期待を抱いてしまう。現実を目の当たりにしてなお、甘い言葉にしがみついてまた夢を見ようとしている。愚かだと自覚しながら自制できないのは、他でもないアイゼアの言葉と彼自身を信じたいからかもしれない。
もし誰からも受け入れられなかったとしても、アイゼアさんだけは傍にいてくれると信じていいんですか。
なんて言えるはずもなく、心の奥底へ沈めるように飲み込んだ。大切な人や守りたい人をたくさん抱えているアイゼアの重荷にはなりたくない。
だから彼の存在を支えに自分自身の力で、あと少しだけ頑張ってみよう。考えや感情が整理されていくことで焦燥で張り詰めていた緊張が緩み、決断を急ぐのではなくゆっくりと物事を見極めてみようという冷静さを取り戻していた。
とはいえ現実を知りながらの夢の継続は、寄る辺なく不安定な足場に立っているような心許なさがある。黒く塗り潰されてしまいそうな自分の存在を確かめるように、アイゼアの名前を呼んだ。理由を知らない彼は、くだらないことをしていると思ったに違いない。それでも呆れることなく優しく返事をくれた。
『うん』
たったその一言が自分はまだここにいても良いのだと思わせてくれた。暗闇の中の灯火のように柔らかく眩く、あるいは凍える夜を乗り越える焚き火の熱のように温かく優しい。雪に埋もれて死にかけていた冷たい体にゆっくりと血が通っていくように、不安定な自分の存在が息を吹き返していく。
穏やかな眼差しも柔らかな声も心配してくれる心も、たとえ一時的だとしても自分に向いていることが嬉しかった。胸の高鳴りとくすぐったさに、この時間が終わってほしくないと思うほどの幸せを感じていた。
穏やかな温もりを感じる心の奥には、確かな熱がある。恋い焦がれる想いと孤独を薪に燃え盛る灼熱は、いつかこの身を滅ぼす炎となるのかもしれない。
一度誰かに縋れば、今までの自分にはもう二度と戻れない。一人で生きる運命なら、誰かに縋ることは許されない。だからどんなに焦がれても、孤独を紛らわせるために彼に手を伸ばしてはいけない。これ以上はダメだと……自分に言い聞かせ続けている。
この執着を手放すにはどうすればいいのだろう。あの温もりが手の届かないものだと思い知る度に、心が軋んで痛みを訴える。こんな感情は早く死んでしまえばいい。実体があれば灰にできるというのに、ないものは簡単に消せないから面倒で仕方ない。
特別な人なのだと自覚してからの自分は、アイゼアに会えば会うほど、優しくされるほどどんどん深みに嵌まっていく。感情から目を背けても、アイゼアの存在が目の前にあれば否応なしに浮上してしまう。
今に至っては会えていなくてもアイゼアの存在を意識してしまっている。だから何も考えないように瞑想することにしたのだが、終わってしまえばまた振り出しに戻っていた。
「そういやあの結晶、今のところ特に問題はないな」
「え? あぁ、言われてみれば」
「これでやっと少しは自由になれる」
今日は墓参りや瞑想以外にももう一つ用件があってここに来ている。スイウが人の姿になるにはメリーから魔力をもらう必要があり、メリーの存在に依存しなくてはならない部分がある。
昼に人の姿に戻る必要があるたびにメリーが必要になるというのもお互い不便ということで、魔晶石とも呼べない程度の魔力結晶を作ってみたのだ。結晶一つで元に戻れるのならより自立した生活ができる。今日はそれをスイウに試してもらい、今のところの結果は上々らしい。
一時的なものとはいえ解決策が見つかったのは喜ばしいことだ。メリー自身の寿命がスイウより長くないことを考えれば、ゆくゆくは考えなくてはならなかったことでもある。結晶さえ残しておけば、自分がいついなくなっても当面の間はスイウを困らせることはないだろう。
「済んだなら戻るぞ」
スイウに促され、兄妹の墓碑のある場所からスイウの住む小屋のある泉へと戻る。人の気配もなく、澄んだ森の空気と静謐な静けさは何度訪れても心が安らぐ。
「スイウさんみたいな隠遁生活も悪くないですよね」
「は?」
厭世的な魔術士の中には、人里を避けて暮らす者も稀にいる。人の中で生きることが難しいのならそうしてしまえばいい。そうすれば悩む必要もない。今はもう自分の身一つなのだから、気軽にそういう選択もできる。
「ここでの暮らしってどうですか?」
「どうもこうも、隣家がないだけで普通の一人暮らしと大差ない。けど、お前はやめとけ」
「ですよね。ここで暮らせば道に迷ってしまって話になりませんし」
「そういう向き不向きの話はしてないんだが」
なら一体どういう話なのかとは思うが、そこにあまり興味はない。夢破れた場合のことも視野に入れ、移り住むのに最適な場所を考える方が有益だ。
「そもそも何で隠遁生活なんて話になってんだ? 昨夜のこと気にしてんのか?」
スイウなら何となく察しているだろう。親しくしてくれていた友人たちに恐怖心を抱かせたくないと考えていることを。そのためにはある程度の距離は必要なのではないかと思っていることも。わかっていて聞いてくる意地の悪いスイウに、わざと肩を竦めながら愛想笑いをくれてやった。
「どうでしょうかね」
スイウは一切表情を変えず、何か言ってくることもなかった。ただ静かについたため息はどこか諦めたように、好きにすれば良いと言っている気がした。
スイウは何か言いたかったのだとメリーは思う。しかし彼と自分は考え方が似ているところがあるせいか“わかり過ぎてしまう”ときがある。同じ立場だとしたら同じ選択をする者同士、つまり“他人のことを言えない”から何も言えなくなる。
他人を諭して説得するには理解だけでなく、ある程度の考え方の相違が必要だとメリーは思う。近すぎることで何もできないこともあるのだ。
「さて、森の出口まで案内をお願いできますか?」
「あぁ」
スイウの案内で森の出口に向かう。少しずつ木々の密集率や風景の雰囲気が変わり、ゆっくりと現実へ醒めていくような憂鬱さが胸の奥から忍び寄る。
『もう帰っちゃうノ?』
『ずーっとここにいればいいのニ』
「お前ら森の奥に帰れ」
スイウは舌打ちをしながら、空中で手をヒラヒラとさせている。視認はできないが、近づいてきた妖魔を追い払ったのだろう。
以前から夕暮れ時にたまに妖魔に声をかけられるようになっていたが、もちろん誘いに乗る気はない。誘いに乗るということは向こう側の住人、つまり人ならざるものになるということだ。人の心をメリーに授けてくれたミュールとフランのためにも、人として生き、人として死ぬのだと心に決めている。
「ったく、再三やめろと言って……ん?」
妖魔のことをぼやいていたスイウが不意に立ち止まる。目を鋭く細め、胡散臭そうに前を睨みつけていた。
「何かありました?」
「人の気配がする」
ここイルシーの森は迷いの森として有名で、あまり好んで人は寄り付かない。専ら賊か自殺志願者か、たまに学者や騎士、メリー同様採取に来る人もいるらしいが。今が夕方であることを考慮すれば、あまり歓迎できる存在でない確率が高い。
スイウが警戒し始めると、まとっていた空気がガラリと変わる。例えるなら、爽やかな初夏の風から刺すような冬の早朝の空気へ、やがて気配を完全に殺したのか何も感じない無風へと変わった。




