076 どうか君の傍に【アイゼア視点】
諦めたくない。まだ自分がメリーにできることはあると信じたい。根拠はないが、このまま何もできずに見送りたくない。必死に伸ばした手が、メリーへと届く。引き寄せる勢いで体勢を崩した彼女を、とっさに抱きとめた。
まだここにいるという安堵と二度と手の届かないところへ行ってしまうかもしれないという不安が混ざり合っている。腕の中に収まった温もりを確かめるように、無意識のうちに抱き寄せていた。
「どうしてそんなに簡単に手放せるの?」
メリーは当惑しているのか、そわそわと落ち着きのない気配が伝わってくる。やんわりと胸を押し返してくる手を無視して、ここで逃げられても困ると思い抱き竦めるように腕に少しだけ力をかける。
「……アイゼア、さん……?」
「思い描く未来も、みんなと重ねてきた時間も信頼も、君にとってはその程度の価値しかなかったのかい?」
自分で口にして、これほど虚しくやるせないものもない。メリーとの出会いや過ごした時間は自分にとって大切なものだ。心を支えてくれた言葉、温かな手、穏やかなひととき、一つ一つが胸の中に息づいて明日を生きる力になってきた。
それほどかけがえのないものだと思っている自分に比べ、メリーは関わらないでという一言で全てを捨てようとしている。彼女が自分が放った言葉の重さに自覚があるのかはわからないが、互いの思いの落差に心がズキズキと痛んだ。
「大切に思っていたのは僕だけだったのかな」
ありのままの気持ちとはいえ被害者ぶった言い回しを選んでしまうことに我ながら辟易とする。心の奥底に感じていた捨てられたという憤りと悲しみと、そんなことはないという否定の言葉がほしい気持ちがわかりやすく滲み出ている。
自分が大切にしていたものを、“これだけ想っていたのに”と天秤の片側に積んで罪悪感を煽る。そして、同じだけのものをもう片側に差し出せと──強引に迫っているも同然だった。
だがメリーは婉曲的な押しつけがましさには気づかない。というより、気にも留めないだろう。仮に気づいたとしても、こちらに忖度した返答を返すような人ではない。こちらと同じ気持ちでなければバッサリハッキリ切られるだけだ。その通りになれば自分は二度と立ち直れない気がした。
胸を押し返していたメリーの手が服を巻き込んで固く握りしめられる感覚がし、腕の力を緩めて下を向く。メリーも俯き気味なのか、頭の上しか見ることができない。
「言ったじゃないですか、幸せな夢だったって。夢からはいつか覚めるもの、ですよね?」
ため息混じりの力ない声で返ってきた言葉は、全く予想していないものだった。幸せなものであったとこちらの思いに同調しながら、自分のものではなかったと否定する。メリーにとっては手放す手放さないという話ではなく、夢だから自分の手の中にあるものではないということらしい。
静かに上向いたメリーの顔に、もう当惑や動揺の色は見られない。覚悟を決めてしまったかのような静かな瞳がアイゼアの姿だけを映している。
だがそれ以上にアイゼアの心を乱したのは、一度は見たはずの生々しく怪我が残る顔だった。手当てはされているが、所々に貼られたガーゼの隙間から覗く痣や傷がとても痛々しい。身の安全も心も守れなかったという現実がアイゼアの胸を引き絞るように軋ませ、苦しさと悔しさをかき立てる。
半ば衝動的に一際目を引く頬の大きなガーゼに手を伸ばすと、ビクッとメリーの肩が揺れた。そのまま指先で触れ、そっとガーゼの表面を小さく一度だけさすると、メリーは目を見開いたまま体を強張らせる。
そのまま瞬きも忘れてしまったかのように、じっとこちらを見つめて動かなくなった。ただ唯一深い青の瞳が街灯の光を受け、熱を帯びて揺らいだように見えた。
「僕たちの今までは夢なんかじゃない。僕は、メリーの持ってる全部を諦めたくない」
メリーには心から笑っていられる未来を歩んでほしい。希望も夢も可能性も、友人たちに囲まれた今の生活も失ってほしくない。それでも思うような平穏はなかなかやって来ない。厳しい現実が、確かにあったはずの幸せすら一時の夢に変えてしまった。
見えない何かに少しずつ未来を狂わされているような錯覚さえ覚える。仮にそうだとしても、どうやって抗えばいいのかもわからない。どうして彼女は希望を持つことすら許されないのだろうか。どうして、どうして、と答えのない虚しい疑問を繰り返すたびに、心が爛れて崩れ落ちていくような心地になる。
「ありがとうございます。ですが、気持ちだけで十分です」
ぐっと胸を押され、そのままメリーを腕から解放する。だが右手だけは腕を掴んだまま放さなかった。メリーには悪いが、話を聞いてもらうために意地でもここに留まってもらうつもりでいる。
メリーの願いを知っているからこそ、希望の欠片を探し出そうとしている。と言えば聞こえはいいが、考えを変えさせるなんて傲慢の極みであり、彼女に好意を寄せる自身の心が未練がましく追い縋っているだけに過ぎないのかもしれない。
たとえそうだとしても彼女が望む未来を取り戻せるのなら、どれだけみっともなくても構わないとさえ思えた。
「僕も幼い頃は社会から拒絶されて生きてきたから、メリーの気持ちがわからないわけじゃない。あの暮らしを他の人に味わわせたいとは思わないしね」
金も愛情もなくたった一人で貧民街で暮らし、泥水や残飯の味を知り、最終的に盗みで生計を立てた。アイゼアが南区の貧民と知れば、皆一様にゴミを見るような目で睨み口汚く罵ってきた。
それが当たり前で、特に悲しみも傷つきもせず、“そういうものだ”と思っていた。逆に自身の方が、群れないと生きられないのは弱い証拠だと馬鹿にさえしていた。
心が凍えていることは、心の痛覚が麻痺していると気づけない。あの頃の自分は一人で平気だと思い込んでいた。きっとメリーの境遇や抱いている思いと近いものがあるのではないかとアイゼアは考えている。
「なら、関わりを断つのが最良の選択だとわかるはずです。どうして引き止めるような真似をするんですか」
「メリーにも味わってほしくないからに決まってるじゃないか。耐え抜ける強さがあるから別にいいなんて僕は全く思わない」
「……え?」
メリーは相当驚いたのか少しの間のあと、気の抜けた声と共にぽかんと小さく口を開いて固まった。
「メリーを一人にしたくない。どんな未来でも必ず僕を連れて行って」
ふと、彼女の復讐の終着点で聞いたメリーの兄妹と思しき人物の言葉を思い出す。メリーの幸せは兄妹の願いであったことをアイゼアは知っている。メリーにはその声が届いていただろうか。
「僕は多少そういう環境に耐性あるから心配いらないし、君の話相手くらいにはなれると思うから」
養父母に引き取られて初めて愛情の温度を知った。最初は胸の奥が火傷したように痛んだ。凍っていた心が溶けるときの痛みは、耐え難いほどに苦しい。優しさはジリジリと身を焦がし、これまでの現実全てが絶望するほどに暗く凍てついたものであったことを理解する。
それまで自分がしてきたことが『罪』であると知り、良心の呵責に苛まれる。本来持つべき優しさや思いやりを知るほど、取り返しのつかない過去が心をズタズタに裂いていく。
罪悪感は聞こえるはずのない責め苦と怨嗟の声となって心を蝕み、今なお罰のように心身に刻まれている。そして何より、誰からも愛されなかったという現実があまりにも惨めで虚しくてつらかった。
今はそれらの痛みを飲み込んで、冷たさも温もりも痛みも感じられる心を持っている。心が死ななかったのは決して自分が強かったからではない。養父母や優しくしてくれる周囲の人々がいつも傍で見守っていてくれたからこそ、潰されずに前へと進んでこられたからだ。
「だから、これからもメリーの隣にいていいかい?」
今度こそメリーの心まで届いてくれと言葉を紡いだ。今にも千切れそうな縁を結び直す糸となってくれるようにと祈りながらメリーを見つめる。
黙り込んでしまったメリーはゆっくりと完全に俯いてしまった。控えめに伺いながら、屈んで軽く顔を覗き込むと顔を背けられてしまう。薄紅色の髪の隙間から見える唇は、躊躇うように震えていた。
「どうして……そこまでする義理はないはずです」
おそるおそる何かを手探りで探すような慎重な声色。風に揺れる蝋燭の灯火のように弱々しい印象を抱くと同時に、反射的に口が動く。
「メリーが、大切だから」
今のメリーがどんな感情でいるのかを考えるよりも早く、本心が口をついて転がり出ていた。自分でも正直驚いたが後悔はない。
「君が大切な人を守りたいように。僕は僕の方法で大切な人を大切にしたいんだ。この気持ち、メリーならわかってくれるんじゃないかって思うんだけど」
「……他人の気持ちなんて知りませんけど、さすがにそれは私でもわかります。そんなふうに言われたら断れないじゃないですか」
メリーは相変わらず俯きながらも、少しだけ緊張を緩めたのが空気感から伝わってくる。微かに笑っているような、やれやれ仕方ないなという感じの穏やかな声をしていた。
「もしメリーがみんなを嫌いになったわけじゃないなら、みんなの声一つ一つに耳を傾けてみてほしい。もしかしたら僕みたいにメリーと今まで通りが良いって思ってるかもしれないよ?」
「それはないですよ。霊族の本能ですし、無理してた事実は変わりません」
「誰がそんなこと言ったの?」
「誰がとかそういうわけではないですけど……」
「ならそれはメリーの勝手な妄想でしかないよ。もっと一人一人のありのままを見て。結論はそれからでも遅くないと思うんだ」
トラヴィスの反応や過去の出来事から視野が狭まっている。思考を切り替えることは容易ではないからこそ、もっと皆の言動に目を向けてほしい。見ていれば、決して無理をしているわけではなく、自ら望んでメリーと関わろうとしていることに気づけるはずだ。
アイゼアにできるのは、固定観念を弱めて現状を見つめ直すきっかけを作ることくらいだろう。いくら言葉にしても届かないものは、メリー自身で辿り着かなくては本当の意味で見えてこない。メリーなら必ず皆の思いに気づき、蔑ろにしたりはしないと信じている。
「……わかりました。急ぐ必要もないですし、アイゼアさんの言う通りゆっくり考えてみます」
落ち気味だったメリーの視線が、ふっと上向く。瞳は凛としているだけでなく微かな輝きを取り戻しているように見える。
口元はキュッと力が入って閉じられているが、負の感情というよりは決意の表れのように感じた。まだ心の奥がざわつくような感覚は拭えないが、諦めと失望が色濃かった表情に小さく希望の光が灯ったような気がした。
「そっか。良かった」
親しかった相手に拒絶されても、恨み言も漏らさず離れようとした。それを強さと呼んで良いのかはわからないが、メリーは放っておいても一人でたくましく歩いていってしまえる人なのだとつくづく思う。
たとえ心が苦しいと訴えていても、メリーの耳にはほとんど届かない。それが少しだけ心配だが、アイゼア自身が心を取り戻したように、メリーも少しずつでも取り戻せたらと願っている。
全てとはいかなくても、ほんの僅かでも、一欠片だって構わない。養父母がアイゼアにしてくれたように、アイゼアもまた、メリーに寄り添っていきたいと思っている。
もう必要ないとメリーの腕を掴んでいた手を離そうとした瞬間、ポンと手の甲に手が添えられる。突然のことに驚きメリーを見ると、柔らかく微笑みかけてくれていた。
「あの、ありがとうございました。おかげで少し冷静になれた気がします」
メリーは手の甲から手を離すと、胸に当てて遠慮がちにお礼を口にする。伏し目がちな、少しだけ照れ臭そうな表情がいつになくいじらしい。
何があっても傍にいると伝え、もう一度抱き寄せたくなるほどに庇護欲をかき立てられている。ただの友人の分際で早まった行動を取らないよう、むずむずする心を抑えていた。
「お礼を言われるほどのものじゃないよ。僕が、メリーが離れていくのが単純に嫌だっただけだと思う」
「離れていくのが嫌、ですか。そんなことを私に言う人いるんですね」
「あぁ、えっと、念の為に言うけど、物理的な意味じゃないからね。せっかく仲良くなったのに、縁が切れるのは寂しいって話で……」
まずいことを言ったつもりはないが、メリーは時折言葉を意図した意味とは違う方向で処理することがある。変に誤解されても良くないという焦りから弁解していると、メリーは肩を震わせ始めた。やがて口元を手で軽く隠し、こらえきれないといった様子で笑い始める。
「大丈夫です。ちゃんとわかってますから」
胸の奥が優しいくすぐったさを感じ始めている。メリーにいつもの笑顔が戻ってきたことが嬉しい。黄昏の月だろうが、恐ろしくなるほどの魔力を持とうが、こんなにも優しく笑う人なのだ。バケモノであるはずがない。普通の人たちと何ら変わりないとアイゼアは思っている。
『そもそもこの魔力が他人に受け入れられること自体ありえないんです。親愛の情が私に向くなんてもっとありえない。これが私にとっての“当たり前”なんです』
誰からも愛されないことを当たり前だと言い切ったメリーの姿が頭をよぎる。今はあくまでも一方的に拒絶されないように食い止めただけに過ぎない。受け入れられ、普通に暮らしていくというささやかな夢は潰えたままになっている。
そして自身の魔力も、誰も幸せにできないのだと失望したままだ。普通に暮らせる日は来る。メリーの魔力は人を幸せにできる。アイゼアはそう信じていても、証明はできない。
以前スイウが言っていた。言葉に実感を持たせるのは、信頼と経験の積み重ねだと。メリーにはそれを確信するだけの経験が足りないどころか、悪い方向の経験ばかり積み上がっている。
覆すのは容易なことではないが、アイゼアは諦めるつもりはなかった。たとえどんなに時間がかかっても、メリーがそう思える未来をこの手で必ず手繰り寄せてみせる。
メリーを好きな人はもうすでにここにいる。友人も、これから好きになってくれる人もきっといる。ゆっくりとでも、それを知っていってほしいと願っている。
「……アイゼアさん」
「どうしたんだい?」
「アイゼアさん」
「大丈夫、ゆっくり話してみて」
口元を緩めてはいるが、寂しそうな瞳から目が離せなくなる。何かあるのなら遠慮なく話して頼ってほしい。抱えているものは少しでも軽くしたい。自分にできることがあるなら、いくらでも付き合うつもりでいる。
「すみません。何か話したいことがあるわけじゃないんです」
メリーは眉尻を緩く下げて否定すると、少しだけ言いにくそうにしてから口を開く。
「ただ……呼んでみたかっただけなんで」
「そっか。何度でも呼んで。何度でも返事するから」
メリーが自宅へ向かって歩きだしたのをきっかけに、アイゼアも後を追い、隣を歩く。特に会話はなく互いに無言だったが、間に流れる空気は決して冷えてはいない。しばらくして自宅が見えてきた頃、不意に名前を呼ばれた。
「アイゼアさん」
名前を呼んでくれるメリーの声が心地良い。寂しげな響きをまとっているが、静かな強さを丁寧に包んだような声色だ。ゆっくりと紡がれた声に応え、メリーの方へ顔を向ける。
じっと返事を待つメリーの様子からすると“呼んでみたかっただけ”なのだろうと察する。穏やかに視線が交わると、メリーの瞳の奥に秘められた期待の熱が春風のようにアイゼアの内へと吹き込む。思わず顔が綻び、目を合わせたままアイゼアは一つだけ頷いた。
「うん」
短い返事を、宝物を手渡すようにして大切に大切に返すと、表情こそ大きく変わらないものの嬉しそうな輝きを瞳に宿す。まるでプレゼントの箱を開けた瞬間の子供のような喜びを湛える瞳は少し大げさにも見えたが、もしかしたら今のメリーにとってはそれくらい嬉しいことなのかもしれない。
感情を出しすぎないようにしながらも抑えきれないのか、メリーから控えめな笑みが零れている。穏やかに細められて潤む瞳に、自身の鼓動が逸る。普段の振る舞いからは想像もできない姿を見せてくれているのは、メリーが心を開き、安心できる相手だと認めてくれているからだと思うのは自惚れだろうか。
このささやかな一瞬は、次の瞬間には雪のように消えてしまいそうだと思うほどに淡い。刹那的で儚いこの瞬間と心を守りたい。吹き晒しの孤独と失意の雨に壊れてしまわないように。




