064 白はやがて黒に染む【メリー視点】
格子状に区切られた盤の上に白と黒の駒が並ぶ。攻防の末、というよりは半ば一方的に白が黒に追い詰められていた。
「うーん……」
圧倒的な劣勢にメリーは次の手を悩み、何度めかもわからない唸り声が漏れた。盤面から視線を上げてアイゼアを一瞥すると、見なければ良かったと思うほど勝ちを確信した余裕の笑みをこらえていた。
この状況が悔しいはずだが、なぜかふわふわと心地良い浮遊感を感じている。先日見た魔法薬の幻のせいでアイゼアを意識してしまっている自覚はあった。
メリーは白のキングを手に取り、移動させる。ここ数手は、追っ手から逃れるためにキングが右往左往してばかりだ。
「あ、チェックメイト」
「ぬ……」
アイゼアが黒のナイトを手にすると、迷いなく盤の上へと置く。歴然とした経験値の差を早々埋められるはずもなく、メリーはすでに何戦も惨敗し続けていた。
チェスを教えてもらってから、本を読んで定石やルールを頭に叩き込んだ。実際に指した順を記録した紙を見返して再現し、再考したりもしてみた。それでもまだまだ努力も経験も遠く及ばない。
盤の上の駒を睨み付けても今更状況が覆るわけもなく、アイゼアが打った最後の一手をそれまでの対局を記してきたノートへと書き込む。逃げ場を失い、すっかりお手上げ状態になっている白のキングを見つめ、静かに息を吐いた。
「……参りました」
メリーが敗北宣言をすると、アイゼアの口元が満足そうに弧を描く。この微妙に小憎たらしい笑顔を何度見せつけられたことか。内心毒づきながら、何度目かわからない苦々しい敗北の味を飲み込んだ。
「初心者をいたぶって、とっても楽しそうで何よりです」
負け続けていることに文句があるわけではなく、あの笑顔が気に食わない。かといって涼しい顔をされてもそれはそれで微妙に腹立たしいような気もする。
どうやら自分は文句はないと思いながらも、やはり悔しいらしい。とりあえず目の前の笑顔は妙に心をざわつかせて癇に障る。だからチクリと針で刺すように嫌味を言ってやることにしたのだ。するとアイゼアはきょとんととぼけたような顔で目を丸くした。
「いたぶってるつもりはないんだけどなぁ。メリーは魔術を使うとき、相手をいたぶってるのかい?」
「いいえ」
「つまりそういうこと。僕もメリーと同じで──」
短い言葉だが、メリーにとって非常にわかりやすい例えだった。自分に一定の実力があるのはわかっている。そして相手がどうであれ一切手は抜かない。
「全力で相手を潰しにいってるだけ、ってことですか」
「うん。それに手を抜かれて勝ってもメリーは嬉しくないよね。むしろ逆に怒る気がするんだけど」
「そうですね。よくもこんな舐め腐った真似してくれたなと思いますね」
よくわかっているじゃないか、と感心するほど理解がある。元々観察眼のある人ではあるが、ここまでくるとむしろ考えを見透かされていそうな気さえしてくるのが恐ろしい。
「アイゼアさん、もう一戦だけやりませんか?」
「もちろん。いくらでも受けて立つよ」
にこりと微笑み、余裕たっぷりな様子を一切隠そうともしない。膝の上で組まれた指と、優雅に足を組み替える様は王者の風格すら漂う。
相変わらずアイゼアは自分の勝利を疑っていない。少し前に始めたばかりの初心者が経験者……それもあまり負けることがないと豪語する人を相手に勝つのは無謀に近いのかもしれない。
だがこのまま大人しく引き下がりたくない。せめて追い詰めて焦りというものを味わわせてやりたい。一勝をもぎ取ってやりたいという欲だってある。とにかく一矢報いらねば気が済まないというやつだ。
「今回も先攻はメリーがどうぞ」
「なら遠慮なく」
チェスは先攻有利のゲームだ。ハンデで毎回先攻を譲られているとはいえ、手を抜かれているわけでもなければ極端に有利になるように優遇されているわけでもない。ルール違反ではないのだからと受け入れ、先攻の証である白の駒に手を伸ばす。
クスッと鼻で笑う声が聞こえたような気がしたが、一々反応していては始まらない。手早く駒を初期の配置に並べ、合図もなしに早速一手目を打つ。アイゼアの余裕の笑みを今度こそ崩し、悔しさと屈辱の海に沈めてやるのだと意気込んでいた。
盤面はすでに終盤、結局アイゼアを劣勢にするという目標は達成されずにまた追い詰められている。どこで指し間違えたのか経験の浅いメリーには検討もつかなかった。
いや、どこかで決定打があったというよりは全ての積み重ねの結果なのかもしれない。気づかないうちにさりげなくかつ巧妙に敗北の道へ進むように仕向けられていたのだ。
アイゼアはそういうことが本当に巧い。こちらが望む場所へ駒を動かすように、誘い込むようにして駒を動かしているのだろう。きっとそうだと頭ではわかっていても、見破れるだけの実力がメリーにはまだなかった。
とにかく今打てる最善の手を考えねばと盤面を眺め、次のターンで王手をかけられないよう、牽制するための駒を動かす。すると間髪入れずにアイゼアは駒を動かす。迷いは一切感じられず、しなやかに伸びた指先を目で追う。
「あ……」
「チェック」
王手を防いだと思っていたが、もう一つ王手をかけられる駒が残っていたらしい。こうなると別の駒でどうにかするか、キングを逃がして延命するしかない。
思わず口元に手を当て、下唇を人差し指でさする。自然と眉に力が入っていたことに気づき、次は指先を眉間に移してほぐした。焦りからか、落ち着かない心を静めるためにその往復を繰り返す。気づけば盤面に顔を近づけ、体勢が前のめりになっていた。
どうすべきか考え倦ね、動かす駒を決めきれない。長考しすぎてアイゼアはさぞかし暇なことだろう。盤面を見下ろした顔の角度を維持したまま、そろりと視線だけをアイゼアへ向ける。様子を伺うだけのつもりが、ばちっと目が合う。何となく逸らせなくなってしまって気まずい。
盤面を見ていなくても勝てると確信があるのか、元からこちらを観察していたらしい。添えられた手の隙間から見える口元がにやにやとしている。面白い何かを見つけて笑いをこらえているかのような表情が気になり、首を傾げた。
「何か?」
「いや、降参しないんだなーって思ってね」
「絶対しません」
確かに今の状況はほとんど負けが確定しているような状態かもしれない。だが何が起こるかわからないのが勝負の世界というものだ。たとえ偶然だとしても、起死回生の一手で劣勢を覆し、勝利を掴める可能性がある。いつだって貪欲に勝利を狙いにいく、それがメリーの戦い方だ。
「可能性がある限り諦めるつもりはないです」
「ふぅん? でも『ちょっと待って』とか『やり直させて』とは言わないんだね」
「勝負の世界にやり直しなんて存在しませんよ。それに、勝てれば何でも良いとまでは思ってませんから」
これはあくまでもゲームだ。生きて帰らなければ意味がない本物の戦場とは訳が違う。明確なルールがあり、それに則って対等の立場と戦力でぶつかり合うからこそ面白いわけで、そこに『やり直し』という卑怯な手段は無粋としか言いようがない。おまけに、そんなことをしてまで負けたときの惨めさは、目も当てられないくらい悲惨だ。
「そもそも、そんなことお願いする人いるんですか?」
「結構言ってくる人いるよ。必死にやり直しを乞う姿が見てて面白いけどね。そのあとの負けっぷりも」
「うわ〜、性格悪……」
自分はアイゼアに醜態を晒すようなことがなくて良かったと心の底から思う。でなければ今頃、更にほくそ笑みながらうんざりするくらい面白がられていたに違いない。
「でも、対局を書き記すくらい勝つために執念燃やしてて、最後までしぶとく粘り続けて、負けたらすぐに再戦を申し込んでくるとびっきりの負けず嫌いもいいね〜」
「……それ私のこと言ってます?」
「さて、どうだろうね?」
などとはぐらかしているが、わざとらしく連ねられた特徴は全て漏れなくこれまでのメリーの行動と合致していた。挑発的な物言いに対抗するように、思い切って駒を一つ動かす。
「そうやって余裕かまして油断してるうちに私がですね──」
「はーい残念。チェックメイトだね、メリー」
「え……あー!」
アイゼアが駒を動かし、改めて盤面を確認する。チェックメイトだと言われた通り、確かに白のキングは逃げ場を失っている。勢いに任せたことで華麗なる自滅を決めていた。やはりアイゼアに勝つにはまだまだいろいろと足りていないようだ。
「はぁ、出直してきます」
次に対局するときこそは絶対負かしてやろうと最後の一手を書き記した。またチェスに関する本を読み漁らなくては。対局を記した紙を見ながら再現し、問題点を洗い出すのも忘れてはいけない。勝つためにやることはまだまだあるとわかるだけでもメラメラと燃えてくる。
「次は必ずぼこぼこにしてやるって顔に出てるよ」
けらけらと無遠慮に笑うアイゼアに、少しずつ拗ねてやりたい気持ちになってくる。ただ、楽しそうに屈託なく笑う顔をもう少しだけ見ていたいとも思ってしまった。
「当然ですよ。私は執念深くてしぶとく粘る負けず嫌いですからね。おまけにやられたらやり返さないと気が済まない性格なんです」
「あはは、ごめんごめん。からかいすぎちゃったかな」
ごめんと言いつつも悪びれる様子は全くない。やっぱり面白がっているんじゃないか、と怒りを通り越して呆れてしてしまうほどだ。
「それにしても、前よりかなり強くなってて驚いたよ。結構勉強してるよね?」
「せっかく教えてもらったんで、強くなりたくて」
「そうなんだね。本気でやってくれる相手が増えて嬉しいよ」
どうせやるなら強くなった方が絶対に面白い。そう思ったから力を入れてみただけだ。それにまだまだアイゼアを楽しませられるほど強くもない。下手をすれば弱すぎて退屈なくらいだろう。だというのに、アイゼアはなぜか嬉しそうだった。
そんな反応を見せられたら困る。喜んでいるアイゼアを見て、メリー自身も嬉しいと感じてしまう。できるだけ見ないようにしていた感情が心の片隅でチラチラと顔を見せては、引っ込むのを繰り返している。
「勉強熱心で努力家なとこも、勝ってやろうって一生懸命なとこも僕は好きだよ」
いつも以上にまっすぐな瞳に、心臓がギクリとぎこちなく鼓動する。ふわりと和らぐ目元と穏やかな瞳がやけに眩しく感じられ、視線をそろりと盤面へと戻した。自然とペンを握る手に力がこもっていることに気づき、緊張していることを悟った。
人に好かれる要素などないが、好きと言われたことがないとまでは言わない。ただ言われ慣れないなとは思っている。メリーに好きだと言ってくれる人は少数とはいえ周りにいた。皆の『好き』には冷えた手のひらを包んで握るような柔らかな優しさと温もりがあった。
だがアイゼアに言われると、不思議なことにそれだけじゃない感覚が心を痺れさせる。胸の奥がじんと熱を持つような、焼け焦げるようにチリチリと痛むような、不快なようでいて心地良くも感じるのがちぐはぐとしていて……気持ち悪い。
今までに感じたことのない奇妙な感覚を抱くのは、きっとアイゼアを意識するようになってしまったからだ。そうして特別な存在に感じていることを思い知らされる度に、自己嫌悪とやるせなさに苛まれている。
「……そうですか」
アイゼアは本当に酷い人だ。好きだとか、相手が喜びそうな褒め言葉をホイホイと口にする癖がある。だから勘違いを助長させて要らぬ苦労を抱えることになるのだと前々から思っていた。
「私も。手を抜かずに勝負してくれるとこ好きですよ。勝ち誇ったような顔は、少し癇に障りますが」
熱を帯びた感情も、人たらしな面に対する呆れも今は心の隅へ置いておく。もっと単純で素直な思いを伝えることにした。
好きにもいろんな意味があることを知っている。好きという言葉を、すぐに恋愛に結びつけるほど視野が狭いつもりはない。友としての純粋な好感を示した言葉だ。
「えぇー、そんな顔してたかな?」
なんてとぼけながら、アイゼアは大げさに肩を竦めている。そのわざとらしさからわかるのは、こちらをからかおうという意図すら隠す気もないということだ。彼はその気になれば完璧に隠してしまえるのだから。
「してました、してました。だからこそ潰しがいがあるんですけど」
「意気込んでるねー。再戦が楽しみだよ」
アイゼアは笑みを更に深くする。メリーの宣戦布告も物ともせず、返り討ちにしてやろうという考えがひしひしと伝わってくる。だからこそより潰したくなる。やる気も上がるというものだ。
いつかアイゼアを負かして悔しがるところを見たい。苦戦させられるほど互角に戦えるようになったら、お互いきっともっと楽しい。何より、アイゼアと一緒にいられる時間も自ずと増えるかもしれない。そんなふうに期待してしまっている。そのくらいであれば、友人の範囲として許されると信じながら。
「あ、そうだ……! オセロがあるんですけど、そっちで勝負してみませんか?」
「ふふ、まさかオセロでなら勝てるって思ってる? 悪いけど、負ける気はないよ」
「結構な自信ですねぇ」
「もちろん。後攻が有利だからメリーに譲ろうか」
「その選択を後で後悔しても知りませんから」
アイゼアが不敵に笑い、応えるようにこちらも強気の笑みを返す。チェスは初心者だが、オセロはそれなりに経験がある。今度こそ一勝をもぎ取ってやるのだとメリーは意気揚々とオセロ盤をテーブルの上に広げた。




