061 蜂蜜酒の囁く夜【メリー視点】●
四の月、三十番の日。今宵はスピリアでは『冥月の夜』と呼ばれる祝祭の日だ。
古くから死の季節が生の季節へ移り変わる節目の日とされ、春の訪れとして祝われてきた。それだけでなく全ての境界が曖昧になる夜でもあり、精霊や妖魔の活動も活発になる。日々の感謝を込めて祀ることで鎮め、親交を深めるのだ。そうしてまた一年、平穏に自然の恩恵を受けられるよう繁栄や豊穣を願う。
裏庭でかがり火を焚き、その近くへテーブルと椅子を運ぶ。最後に儀礼のための蜂蜜酒やグラスなどの準備を整えて、椅子に腰かけた。
ぼんやりとかがり火の炎を眺めながら、今日は徹夜かと小さなため息が漏れる。夜は長く、一人で過ごすにはあまりにも時間をもて余し過ぎてしまう。テーブルには暇つぶし用に持ってきておいた本が数冊あり、そのうちの一冊を手に取る。読みかけのページに挟まれた栞を外し、チェスの指南書へと目を落とした。
しばらく本を読み耽っていると、玄関の方から呼び鈴の音が聞こえてくる。夜も更けてきたこんな時間に誰かと思いながら返事をして扉を開くと、なぜか私服姿のアイゼアが立っていた。
「あれ、アイゼアさん……こんな遅くにどうしたんですか?」
「この時間じゃ迷惑だろうなって思ったんだけど、どうしてもメリーに相談したいことがあって」
おそらく仕事終わりに来たのだとは思うが、こんな時間にわざわざ訪ねて来るということは余程早く相談したかったのかもしれない。
「わかりました。どうぞ上がってください」
家に招き入れ、裏庭へと通す。庭の隅に置いてあった椅子を一脚、テーブルの傍へと運んだ。
「アイゼアさん、こちらへどうぞ」
「ありがとう」
椅子に座ったばかりのアイゼアは珍しそうに机の上を眺め、普段裏庭にはないはずのかがり火の方へと視線を向ける。セントゥーロ生まれの彼がスピリアの祝祭など知るはずもなく、疑問に感じていても何ら不思議ではない。
「どうして裏庭にって思いましたよね?」
「そうだね。それにこのかがり火は?」
「今夜は冥月の夜って呼ばれる祝祭の日で、そのためのかがり火ですね。邪気を払って精霊を鎮め、親交を深める夜なんです。春の訪れを祝うことで繁栄や豊穣を願う意味もありますね」
「へぇ、スピリアにはそんなお祝い事があるんだね」
「はい。今年はペシェとミーリャと一緒にって思ったんですけど二人とも予定が空いていないみたいで……」
毎年ミュールとフランの三人で過ごしていたが、それはもう二度と叶わない。ペシェとミーリャに声をかけてみたものの、今夜は予定が入っていると言われてしまったのだ。
「でも、アイゼアさんが来てくれて嬉しいです」
この祝祭には人同士の親交を深める意味もあり、一人で過ごすにも何となく退屈で物足りない感じはしていた。アイゼアが来てくれたときは驚きが勝っていたが、たまたまとはいえ訪ねてきてくれた人がいることを純粋に嬉しく思っている。
「じゃあ僕が代わりに付き合うよ。具体的には何をすれば良いんだい?」
こちらが申し出るまでもなくアイゼアは付き合うと言ってくれた。魔術を学んでいるからなのかはわからないが、霊族の祝祭にも興味を持ってくれているのかもしれない。穏やかな微笑みは、こちらの文化を快く受け入れようとしているようにも見えた。
「いろいろあるにはあるんですが、特にこれをしないといけないってのはないですね」
「なら、どんなことをして過ごしてるのが定番?」
「えっと、儀式としては蜂蜜酒を酌み交わしたり、踊ったりが主流ですかね。あとはかがり火の周りで会話を楽しんだり、わりと緩い感じですが……」
と言っても、いつまでこちらに付き合ってくれるつもりなのか。さすがのアイゼアも、まさかこれが夜明けまで続くとは思っていないはずだ。
「……メリー? 何かあった?」
表情に気まずさが出ていたのか、心配そうにしている視線に気づき、更に説明を続ける。
「冥月の夜は全ての境界が曖昧になる夜でもあると言われてます。生と死の境界、天界と冥界とこの世界の境界、精霊たちと人との境界。だからなのか、精霊や妖魔が活性化して悪さすることもあるんです」
「境界が曖昧、か」
仕事終わりで疲れていることを承知で、朝まで付き合ってくれと頼むのはさすがに心苦しいものがある。こちらがお願いしたことで無理をさせて体調を崩すようなことがあってはまずい。
だが一人で過ごすのには少しだけ気がかりな点があるのも事実だ。アイゼアが傍にいてくれればかなり心強い。メリーは迷ったが、一応お願いだけはしてみることにした。
「……実は以前、スイウさんに妖魔に気をつけるように忠告されてて。妖魔の騒ぐ今夜は一応かがり火を焚き続けて徹夜しないとダメかなって思ってるんです。だからその……もし可能なら、朝が来るまで私に付き合ってもらえたらなーって思ってたんですけど」
「朝まで……?」
アイゼアは僅かに驚いたように目を丸くした。やはり朝までというのは想定外だったのだろう。
「あっ、もちろん無理強いする気はないので断ってくれて構いませんよ」
強いお願いではないとわかってもらえるように、すぐに言葉を付け足した。アイゼア相手に取り繕えたかはわからないが、こちらのせいで無理だけはしてほしくないという気持ちが一番だ。
体を壊してからでは遅い。治すことにはその何倍もの時間と体力と金銭を消費する上、治るとも限らない。原因は違えど、兄のミュールの件で身をもって知っている現実だった。
「大丈夫、付き合うよ」
「そうですか……ありがとうございます」
アイゼアは嫌な顔一つすることなく、むしろ先程よりも嬉しそうに微笑みかけてくれた。こちらが申し訳なく思っていることを察して気遣ってくれたのかもしれないが、その優しさを嬉しいと感じてしまう。
少しでも疲れてるような素振りがあったら帰ってもらおう、そう考えながらメリーは蜂蜜酒のボトルを手に取った。かがり火を焚き始めてから時間もそこそこ経っている。そろそろ頃合いだろう。グラスに蜂蜜色の液体を注いでいき、テーブルの少し離れた所へ置いた。
「それは何?」
「蜂蜜酒ですね。精霊や妖魔と親交を深めるためのお供えのようなもので、私が作ったんです」
「蜂蜜酒って作れるもんなんだね」
「意外と簡単ですし、美味しいですよ」
精霊や妖魔たちが集まってきているのが肌に触れる空気の感覚でわかる。グラスの中身が少しずつ減っていくのがその証だ。
「メリーには今、精霊の姿が見えてる?」
「いえ、力の強いものでなければ実体化しないので視認できませんね。見えてないものは何となく集まってることを感じられる程度です。アイゼアさんでも実体化したものは見えると思いますよ」
「へぇ、僕にも見えるものなんだ」
アイゼアはまるで一度も見たことがないような反応を示すが、実は彼は何度も見ているし会話まで交わしている。スイウの存在がそうなのだが、アイゼアが期待しているような見える精霊や妖魔とは少し性質が異なるので黙っておくことにした。
「僕も蜂蜜酒飲んでみたいなぁ」
空になりかけていたグラスに蜂蜜酒を注ぎ足していると、期待を隠さない眼差しのアイゼアと視線が合う。炎のような揺らぎを感じる赤紫色の瞳に、メリーは今の今まですっかり忘れていた冥月の夜の伝承を思い出していた。
『冥月の夜、男女二人きりで蜂蜜酒を酌み交わすと精霊の祝福を受け、強い愛と運命で結ばれる』
本来は『冥月の夜、かがり火を囲んで蜂蜜酒を酌み交わした者たちは精霊の祝福を受けて固い絆で結ばれる』というものだが、男女二人きりの場合のみ例外的に意味が変わる。遥か昔から始まったこの祝祭には、春の到来を祝い、豊作、豊漁、健康、そして繁殖や繁栄の祈願の意味が込められている。
今となってはお遊びのような恋のまじないとして扱われているが、かつては『子孫繁栄』にまつわる重要な習わしの一つとされた時代があった。
昔は昔、今は今。単なるまじないでしかないと割り切ってしまえればいいのだが、簡単に片付けられない理由がある。蜂蜜酒の効能に強壮効果があるとされ、伝承の意味と密接に関係している。つまり現実味を帯びたいわゆる理に適っている面があるのだ。
医療が進歩した今でこそ重要視されないものの、元々はそれなりの目的と理由を持っており、そこに精霊の加護まで加わるのだからその効力は未知数となる。
「あれ? てっきり飲んでも良いものだと思ってたんだけどダメだった?」
「そんなことはないですよ。ちょっと待っててくださいね」
返事をしなかったせいか、アイゼアがを戸惑わせてしまったらしい。動揺と緊張を悟られないよう、空のグラスを一つ手元に寄せて蜂蜜酒を注ぐ。自分が飲まなければ儀式は完成しない。このままさり気なく流してしまおうと目論んだが、物事は思うようにはいかないものだ。
「メリーは飲まないのかい? 酌み交わすのも儀式の一つって言ってたよね?」
仕向けられているのかと疑いたくなるほど的確すぎる一撃に退路を断たれ、一気に追い詰められる。自分さえ飲まなければというメリーの淡い希望は儚く散ってしまった。
「えぇ、そうですね」
仕方なくもう一つグラスを引き寄せ、蜂蜜酒を注いでいく。いよいよ酌み交わすしかなくなってしまったわけだが、何とアイゼアに説明すれば良いのか。何となく言いたくない気持ちが渦巻いている。
そんなふうにだらだらと結論を出せない自分に、ふと疑問が湧く。そのまま伝承にまつわる全てを言ってしまえばいいではないか。いつもなら間違いなくそうするはずなのになぜ言いたくないのか、と。
妙な言いにくさは、伝えた場合どうなってしまうのだろうという不安が拭えないからだろうか。夜明けまで一緒にいてほしいと頼んだ手前、勘違いから気まずい空気になるのは嫌すぎる。
変に気を使わせたくもなければ、妙な下心があると誤解されたくもない。愛だの運命だの絆だのが強くなるどころか友情に致命的な亀裂が入りそうなくらいだ。せっかく親しくしてくれる奇特な人をこんなことで失うのは惜しい。
かと言って、こちらの都合で黙っていることが果たして正解なのだろうか。後ろめたいことは何もないのだから堂々としていれば良いのではないか。気まずくなろうともアイゼアのためを思うなら、意味はきちんと理解しておいてもらった方が良いかもしれない。きっとそうだ。たぶん。それが良い結果になるという確信はすこぶるないが。
「冥月の夜にはこんな伝承があるんです。この夜にかがり火を囲んで蜂蜜酒を酌み交わした者たちは精霊の祝福を受けて固い絆で結ばれる、と」
一際大きく耳についた氷とグラスのぶつかり合う音に心臓が跳ねる。言おうとしていたはずの言葉の続きが途切れ、紡げなくなった。言わなければと思いながらも、喉が乾いて貼りついたように閉じられてしまう。
挙動不審をできるだけごまかそうととっさに微笑んだが、果たしてどれくらい自然体が保たれているのか。何を言えば良いのかもわからず無言でグラスを差し出すと、アイゼアはすんなりとそれを受け取った。
「そんな意味があるんだね。すごく素敵な伝承だと思うよ」
アイゼアはこちらを訝しむような様子もなく、穏やかな表情のまま変わらない。
自分が教えなければ、大昔にどんな意味を持っていたかなど知る機会はないだろう。この選択はあまり良いとは言えないと理解しながらも、結局は黙ることを選んでしまった。
まるで騙してしまったような罪悪感を和らげようと、心の中で言い訳ばかりを連ねてしまう。あの伝承は恋をしている人や夫婦や恋人同士でするもので、自分とアイゼアには全く関係がないものだ、と。
そもそも男女二人きりという条件さえ引けば、本来は普通に親睦を深める内容なのだ。何もそういう関係に限定されるものではないのだから、男女二人きりだろうが友人同士ならきっと友情が深まる。そう思えば決して悪くはない。頭では都合が良すぎると思いながらも、そう思いこむことにした。
「あの……」
誰かと蜂蜜酒を酌み交わすのは初めてだ。ミュールもフランもお酒は飲めなかったし、メリーもほとんど飲まなかった。これから先の未来も絆が続くことを望むからこそ成り立つ儀式。旅に出る前の自分であれば、誰かと酌み交わそうなどと思いもしなかっただろう。
忌み嫌われることの方がずっと慣れていて、いまだに優しく接されることの方に違和感を覚えることもあるくらいなのだから。
「私はこれからも親しくしていけたらって思ってます、けど」
わざわざこんなことを口にしてしまうのは、アイゼアが友情を願ってくれていると確かめたいからだろうか。無関心な他人からの拒絶の痛みはもう感じなくなった。だが親しみを抱く相手との別離の痛みは覚えている。拒絶の痛みは……想像したくもない。
痛みを恐れなくて済む強い自分になったと思っていても、現実には臆病で弱い心がまだひっそりと息づいている。全ての痛みを感じなくなるには、一体どれだけの時間を要するのだろうか。
「僕も同じ気持ちだよ。これからもよろしくってことで、乾杯」
「か、乾杯」
泥沼のような思考から明るい乾杯の声に引き上げられる。つられてグラスを交わし、望んだ温かな言葉に固まっていた心が解れていく。一口含んだ蜂蜜酒は以前飲んだものより少しだけ甘く、強く感じた。
飲んでしまった、という後悔とふわふわとした高揚感。そわそわした気持ちを落ち着けようと胸元に手を当てると、小さく固い感触が手に伝わってきてあることを思い出す。
「そういえばずっとアイゼアさんにお礼が言いたかったのを思い出しました」
首から下げていたランタン飾りの首飾りを引っ張り出してアイゼアへと見せる。リブニークのランタン祭に行ったときにアイゼアが贈ってくれた物だ。
「それ、つけててくれたんだね」
首飾りに目を留めた瞬間、アイゼアの表情がふわりと華やぐ。優しく口角の上がった口元と穏やかに細められた瞳に、きちんとお礼を言うのだと意気込む。慣れないことをしようとしているせいか緊張し、トクトクと鼓動が小さく胸を叩いていた。
「カバンに入ってたときはびっくりしました。すごく嬉しくて、楽しい気持ちがずっと続いて、その、直接会って絶対お礼を言おうってずっと思ってたんです。ちょっと遅くなりましたけど」
「手紙でもお礼を言ってくれたのにありがとう。喜んでもらえたことが僕は何より嬉しいかな」
あの旅行からなかなか二人で会う機会がなく、お礼を言うにしても今更感は拭えない。それでもアイゼアは気にする様子もなく微笑みかけてくれる。アイゼアの嬉しそうに笑っている顔は、見ているこちらの気持ちまで明るくしてくれる力があった。
様々な顔を使い分け、その表情の一つ一つが本心なのか作り物なのかメリーには見分けがつかない。だが唯一、心から強く嬉しく感じているときの笑顔だけは何となくわかるような気がしていた。
「あともう一つお礼を言いたいことがあって」
「もう一つ? そんなに何かしたかな」
「私にいろんな言葉をかけてくれることです」
思い当たることがないのか首を傾げながら眉根を寄せているアイゼアに、ふっと小さく笑いが漏れる。彼の中では特別に親切にした意識もなく、こちらの望みを察して言葉にしたというわけでもなかったらしい。本心からの言葉だからこそ、気づかないうちにこんなにも心に響いていたのかもしれない。
「この魔力は破壊するだけの力じゃない。普通の人みたいに暮らせる日が来るかもって少しずつ希望を持てるようになったのはアイゼアさんの言葉があったからです」
「それこそ礼を言われるものでもないよ。そう思うからそう言っただけだし」
「たとえそうだとしても、アイゼアさんの言葉が見えなかったものを見えるようにしてくれたんです。それに不思議と力が湧いてくる感じがして。何て言えば良いかわからないですけど、とにかく感謝してるってことはちゃんと伝えておきたくて」
言葉にしているうちに段々と照れ臭くなり、半ば頭の中が白くなりかけながら何とか言い切る。もっと冷静で語彙力があればわかりやすく的確にこの感謝と喜びを伝えられたのかもしれないが、メリーにはこれが精一杯だった。
「だからその、ありがとうございます。アイゼアさん」
最後に感謝の言葉を口にすると、アイゼアは少しだけ俯き、伏目がちになる。
「そんなふうに言ってもらえると……やっぱり嬉しいね」
アイゼアは静かに一度深呼吸すると顔を上げ、こちらをまっすぐに見つめてくる。はにかんだ笑みは蜂蜜のようにとろりと甘やかで、思わず頬がほんのりと熱を帯びる。僅かに鼓動が逸り、メリーはひっそりと息を呑んだ。
「メリーの力になれてたなら良かった」
笑顔が温かい。不思議と胸の内側に小さな炎が灯ったように熱を帯びてくる。どこか地に足のつかないふわふわとした朧気な感覚は、夢と現の狭間にいるような奇妙な感覚をメリーに与えていた。




