060 蜂蜜色の夜明けまで【アイゼア視点】
執務室内を照らす陽の光はゆるやかに赤みを帯び、ひっそりと暗闇を引き連れてくる。窓の外では街頭の灯りがぽつりぽつりと灯り始めていた。
残照の気配すら失せた頃、アイゼアは自身専用の執務机の上を整理し、騎士団本部を後にした。街は仕事終わりの者たちで賑わい、ぶつからないよう人の流れの中を歩いていく。
目的地はペシェが個人で経営している雑貨店だ。店はすでに閉店時間を過ぎているが、今日は何かを買いに行くわけではない。ペシェにお礼と報告をするためだった。
鍵はまだ閉まっていないようで、扉を開くとカランと軽い鐘の音がアイゼアの存在を報せる。しんと静かな店内にはペシェしかおらず、フィロメナは退勤した後のようだった。
「いらっしゃい。あ、もしかして例の件のことで来てくれた?」
「そう。『冥月の夜』のこと教えてくれてありがとう」
「んー? もしかして何か進展あった?」
「それはどうかなぁ。悪くはなかったと思うけど」
ペシェはカウンターで何か作業をしていたようだが中断し、にんまりと満足げに笑いながらこちらに向き直って頬杖をつく。
「ね、せっかく来てくれたんだしさ、どんな感じだったのかちょっとだけ聞かせてよ」
ペシェの期待の眼差しを受け、アイゼアは先日の夜のことを思い出しながら口を開いた。
* * *
四の月、三十番の日。アイゼアは仕事終わりの遅い時間にメリーの家を訪ねていた。それはペシェから教えてもらった『冥月の夜』というスピリアでの祝祭が大きく関わっている。
何でもスピリアでは、四の月から五の月に変わるこの夜に、精霊と親交を深め、皆で春の訪れを祝うらしい。そして冥月の夜には欠かせないという蜂蜜酒を何としてでもメリーと酌み交わしてこいという指令をペシェから受けてきていた。
呼び鈴を鳴らすと返事が聞こえ、しばらくしてメリーが玄関から顔を覗かせる。
「あれ、アイゼアさん……こんな遅くにどうしたんですか?」
「この時間じゃ迷惑だろうなって思ったんだけど、どうしてもメリーに相談したいことがあって」
「わかりました。どうぞ上がってください」
家に招き入れられ、通されたのはいつものリビングではなく裏庭だった。中央にはかがり火が焚かれ、いつもは隅の方に置かれている丸いテーブルと椅子が近くに運ばれている。
「アイゼアさん、こちらへどうぞ」
「ありがとう」
メリーに促され、用意してもらった椅子に腰掛ける。テーブルの上にはボトルが二本にグラスが四つとアイスペールが置かれており、おそらくあのボトルの中身がペシェの言っていた蜂蜜酒だろうと予想する。
他には籠に盛られたベリーの山と本が数冊積まれている。本のジャンルに法則性はなく、タイトルは上から順に『妖魔と人を拒む地』『ジンジーニ旅行記』『最新版新種薬草大辞典』『プリンセスプリンシアの宮廷料理集』と見事にバラバラだ。
メリーが座っていたと思しき椅子の前にも一冊、栞を挟んだままの本が置かれている。それもやはり方向性が違い、表紙には『図解・チェス指南書〜初級編〜』と書かれてあった。
以前サヴァランとブリットルと共にメリーの家に遊びに来たときにチェスをしたことがあった。メリーはチェスはしたことがなかったのだが、指南書を読んでくれているということは興味を持ってくれたということだろう。
チェスが好きなアイゼアとしては、いつかメリーと対局できる日がくるのだろうかと密かな期待を抱きながら視線をかがり火の方へと移した。
「どうして裏庭にって思いましたよね?」
「そうだね。それにこのかがり火は?」
おそらくこれも冥月の夜の儀式の一つなのだろうが、偶然を装って来た以上あくまでも何も知らない体で尋ねる。
「今夜は冥月の夜って呼ばれる祝祭の日で、そのためのかがり火ですね。邪気を払って精霊を鎮め、親交を深める夜なんです。春の訪れを祝うことで繁栄や豊穣を願う意味もありますね」
「へぇ、スピリアにはそんなお祝い事があるんだね」
「はい。今年はペシェとミーリャと一緒にって思ったんですけど二人とも予定が空いていないみたいで……」
メリーは少しだけ残念そうにしながら苦笑した。本当は二人の予定が空いていないのではなく、ペシェがアイゼアとメリーを二人にするためにミーリャに根回しし、メリーに嘘をついたのだと察した。
「でも、アイゼアさんが来てくれて嬉しいです」
かがり火の明かりに柔らかく照らされながら、はにかむようにメリーは微笑む。少しだけ夜の気配をまとう落ち着いた横顔に、心臓が小さく反応を示した。
「じゃあ僕が代わりに付き合うよ。具体的には何をすれば良いんだい?」
「いろいろあるにはあるんですが、特にこれをしないといけないってのはないですね」
蜂蜜酒らしきものはそこに置かれているのだが、飲むことは祝祭の内容に含まれないのだろうか。蜂蜜酒を自然な流れでもらうためにそれとなく聞いてみたのだが返答は期待したものとは違っていた。
「なら、どんなことをして過ごしてるのが定番?」
「えっと、儀式としては蜂蜜酒を酌み交わしたり、踊ったりが主流ですかね。あとはかがり火の周りで会話を楽しんだり、わりと緩い感じですが……」
メリーの語気は徐々に弱まり、少しだけ表情を曇らせる。何か迷っているのか、小さく口を開いたかと思えば閉じてしまう。
「……メリー? 何かあった?」
さすがに気になり尋ねると、メリーはハッと息を呑んだあと、眉尻を下げて曖昧な笑みを浮かべた。
「冥月の夜は全ての境界が曖昧になる夜でもあると言われてます。生と死の境界、天界と冥界とこの世界の境界、精霊たちと人との境界。だからなのか、精霊や妖魔が活性化して悪さすることもあるんです」
「境界が曖昧、か」
嫌な響きだとアイゼアは思った。メリーは人として曖昧な存在だと以前スイウが言っていたのを思い出す。そしてメリーが消えそうになるのは生と死の境界が曖昧になると言われている黄昏時だ。あらゆる境界が曖昧になる夜、今夜何も起きないと良いのだが。
「……実は以前、スイウさんに妖魔に気をつけるように忠告されてて。妖魔の騒ぐ今夜は一応かがり火を焚き続けて徹夜しないとダメかなって思ってるんです。だからその……もし可能なら、朝が来るまで私に付き合ってもらえたらなーって思ってたんですけど」
「朝まで……?」
「あっ、もちろん無理強いする気はないので断ってくれて構いませんよ」
相変わらずどこか力のない笑みを浮かべているメリーに、不安が拭えなくなる。基本的に遠慮のないメリーだが、徹夜で付き合ってくれというのは気が引けるのか、こちらを気遣うような言葉を口にした。遠慮するところと強引なところの基準が彼女の中でどう処理されているのか、いまだに読みづらい。
どちらにせよ一人にしたくないという思いもあるが、こんな絶好の機会を断るのはもったいない。メリーと一緒に過ごせるのは願ってもない申し出だ。早い段階でペシェから話を聞いていたおかげで、明日はきっちり休みにしてある。断る理由は全くもってない。
妖魔に気をつけなければならないのが『黄昏の月』の体質のせいなのか、スイウを連れ戻した代償からなのかはわからないが、それがなくとも少し心配だっただけに一緒にいられることに安堵した。
「大丈夫、付き合うよ」
「そうですか……ありがとうございます」
にわかにメリーの表情が明るくなり、少なからず頼りにされていることを実感して嬉しくなる。むしろ今晩だけと言わず、もう少しあてにしてくれても構わないくらいだった。
メリーはボトルを手に取るとグラスに黄金色の液体を注いでいく。予想通り、色からしてこれが蜂蜜酒だと確信した。そのグラスを自分で飲むわけでもなくテーブルの少し離れた所へと置く。
「それは何?」
「蜂蜜酒ですね。精霊や妖魔と親交を深めるためのお供えのようなもので、私が作ったんです」
「蜂蜜酒って作れるもんなんだね」
「意外と簡単ですし、美味しいですよ」
じっとグラスを眺めていると、不思議なことに目の前で中身がちびりちびりと減っていく。目には見えないが、精霊や妖魔が蜂蜜酒を受け取っている……ということなのだろうか。
「メリーには今、精霊の姿が見えてる?」
「いえ、力の強いものでなければ実体化しないので視認できませんね。何となく集まってきてることを感じられる程度です」
以前霊族にも精霊は視認できないと言っていたが、活性化する祝祭日の夜でもそれは変わらないようだ。それでも蜂蜜酒が減っていくという明確な現象が伴うことで、アイゼアの中で一気に現実味を帯びたことだけは間違いなかった。
「アイゼアさんでも実体化したものは見えると思いますよ」
「へぇ、僕にも見えるものなんだ」
実体化した精霊とはどんなものなのだろうか。人に近い姿形をしているのか、それとも動物か、はたまた魔物のような見た目なのか。実際に見てみたい気持ちはあるが、簡単に見られるものでもないのだろう。
いつの間にか空になりかけていたグラスに蜂蜜酒が注ぎ足されていく。メリーが飲み始めたらついでにもらおうかと思っていたが、なかなか飲もうとはしない。儀式に蜂蜜酒を酌み交わすことが含まれているなら、精霊や妖魔以外が飲んではいけないということはないだろう。
「僕も蜂蜜酒飲んでみたいなぁ」
少々図々しいが、ここまできて提案がないなら単刀直入に頼んでみるしかない。情報としてはすでに出揃っており唐突には感じないはずだ。という予測を裏切り、メリーは驚いたのか目を丸くして呆けたように口を小さく開いたまま固まった。
酌み交わすことが祝祭に含まれているのなら飲みたいというのも不自然な話ではない。分けてほしいと頼まれることのどこに驚く要素があったのかわからず、アイゼアの目には少し奇妙に映って見えた。
「あれ? てっきり飲んでも良いものだと思ってたんだけどダメだった?」
「そんなことはないですよ。ちょっと待っててくださいね」
メリーは視線を逸らしたまま、少し緊張したような表情で口をもごもごとさせていた。空のグラスを一つ手元に寄せ、氷を入れてから蜂蜜酒をとぽとぽと注いでいく。
どうやらメリー自身は飲む気がないらしく、アイゼアの分だけのようだ。このままではメリーと酌み交わすという指令が達成できない。彼女はお酒に強くはないが、先程蜂蜜酒を美味しいお酒だと紹介してくれた。飲めないわけではないのなら、せめて一杯、いや半分だけでも何とか酌み交わして帰りたい。
「メリーは飲まないのかい? 酌み交わすのも儀式の一つって言ってたよね?」
「えぇ、そうですね」
断りにくいように儀式であることを強調して追撃すると、メリーの表情が僅かに強張る。そのまま少しぎこちない動きでもう一つグラスを手元に引き寄せ、蜂蜜酒を注いだ。
「冥月の夜にはこんな伝承があるんです。この夜にかがり火を囲んで蜂蜜酒を酌み交わした者たちは精霊たちの祝福を受けて固い絆で結ばれる、と」
カランとグラスの中で氷が鳴り、蜂蜜酒の入ったグラスの片方をこちらへ差し出した。何事もなかったかのように浮かべる笑みはどこか気まずそうな、妙に緊張しているようにも見えた。
「そんな意味があるんだね。すごく素敵な伝承だと思うよ」
グラスを受け取り中を見ると、かがり火に照らされた氷が柔らかな黄金色の中でつるりと光を反射して輝いている。透明感の高さに氷の質の良さが伺え、どんな味がするのか楽しみになった。
「あの……私はこれからも親しくしていけたらって思ってます、けど」
メリーは蜂蜜酒の入った自身のグラスを俯きがちにじっと見つめている。口元は微かに笑っているのに、どこか憂えているような、ほんの少しだけ悲しいものに見えた。なぜそんなふうに感じたのかはわからないまま、メリーを励ますように少しだけ声色を明るくする。
「僕も同じ気持ちだよ。これからもよろしくってことで、乾杯」
「か、乾杯」
メリーの少しだけ慌てた乾杯の声と共に、互いのグラスが小気味良く音を鳴らす。一口飲むと、飲みやすい爽やかさのある甘さが口内を満たした。確かに美味しいお酒だ。メリーもグラスを口にし、ほぅっと安堵したような笑みを浮かべていた。
とりあえずペシェの言っていた任務は達成した。なぜ何としてでも酌み交わしてこいと言ったのかその理由もようやくわかった。この伝承のことを知っていたからだろう。
メリーと固い絆で結ばれる。その思いがたとえ友としてだとしても、これから先の未来も互いに傍にいる関係になるのだとメリーも意識してくれていたらと願ってしまう。
それからは穏やかにかがり火を眺めながら、相談事を含めていろんな話をして夜を明かした。その記憶は二人だけの思い出にしておきたくて、自身の胸の内にそっと留めておくことにした。
* * *
妖魔関係の話を伏せて話し終えると、ペシェは腕を組み眉根を寄せて何か考え込み始める。
「ペシェが行くように勧めてくれたのは蜂蜜酒の伝承のことだよね? 迷信かもしれないけど信じたくなっちゃったよ。それにすごく楽しい夜を過ごせたし、本当にありがとう」
「いやそれは良いんだけどさ、固い絆ってどういうことよ」
「え? メリーがそう教えてくれたけど、違うのかい?」
勧めてくれたはずのペシェが伝承のことに関して首を傾げている。そもそもこれが目的で、恋愛方面に作用すればいいと狙って勧めてきたものだとばかり思っていたが。
「なるほど……」
「一人で納得してないで僕にもわかるように教えてよ」
ペシェは考えを整理するようにぶつぶつと一人言を呟いている。内容が気になり話すよう促すと、コクリと一つ頷いた。
「固い絆ってのは確かにそうなんだけどさ、男女二人きりのときだけは例外で意味が変わって、恋愛色強い内容になるはずなんだけど」
「うん……?」
恋愛色が強いということはどういうことなのか。メリーの言い方では全くそんな雰囲気はなかった。恋愛限定ではなく親しい者と絆を深める、みたいな意味だった気がするが。
「正しくはこう。『冥月の夜に男女二人きりで蜂蜜酒を酌み交わすと、精霊の祝福を受けて強い愛と運命で結ばれる』ってね」
「男女二人きりの場合はそうなるのかい? 愛と運命って、だいぶ意味が変わるような気がするけど」
「そうよー。恋のおまじない的な感じでスピリア人で知らない人はいないってくらい有名なんだけど。あのメリーとはいえ知らないとは思えないし、やっぱ意図的に隠したってことになるのかねー?」
ペシェの言う伝承が正しいのならこれは恋愛色が強いどころではなく、むしろそのものだ。まさか条件によって内容が変化する伝承だとは思いもしなかった。
ならなぜメリーはありのまま話さなかったのか。むしろ何も知らない、何でもない友人同士で酌み交わしてしまって良かったのかと彼女に聞きたい。もしかしたらメリーも、と至極可能性の低い淡い期待を抱いてしまいそうにすらなる。
「あれ、照れてる?」
「照れてはないよ。ただ知らなかったとはいえ、本当に恋愛に関するまじないをしてたのか……って今更落ち着かない気分ってだけで」
「だよね〜。さすがに意識しちゃうかなーって思って詳しく話さずにアンタを行かせたのよ。間違いなく正解だったわ」
それは賢明な判断だ。行く前に聞いていたら少なからず意識してしまっていただろう。同時に蜂蜜酒を飲みたいと言ったときにメリーが驚いていた理由もわかった。
ペシェの話は本当だろう。何より嘘をつく理由もない。メリーの様子が少し変だったことにも説明がつく。自分に都合良く解釈するのなら、メリーもそれなりにこちらを意識している。更に都合良く解釈するなら、そういう関係もやぶさかではないという見方もできる。
他に考えられるとすれば、メリーとしては友情を深めるつもりで酌み交わしたいからこそ余計な情報を断ったかだ。この伝承をこちらに伝えれば変に気を使わせてしまうと判断したからとも受け取れる。
だが違和感はまだある。今まで自分が見てきたメリーなら、そういったこともわりと包み隠さずあっけらかんと話してしまうだろう。伝承など信じていなければ「迷信ですけどね」などと軽く扱うことで重くさせない方法もある。とにかく今回のメリーの行動はいつものメリーの行動様式からは少し外れているような気がした。
「ま、とにかく良かったじゃない。脈ありというか、一応意識されるようになってきたっぽいし、一歩前進でしょ」
言われてみればその通りだ。今までは全くの恋愛対象外で、正直異性として意識されているのかも怪しいくらいだった。メリーがこちらに好意を抱いていると考えるのはまだ早計だが、今回の行動は異性として認識するようになったと判断していい気がした。
蜂蜜酒を注いでいたときの、緊張していたメリーの顔がふと脳裏をよぎる。意識して緊張してくれていたなんて、それも自分に。少し信じられないような、でも嬉しいような不思議な心地だ。
メリーの可愛らしい一面をこの目に焼き付けられたことにじわじわと頬が緩み、押さえきれず口元を隠す。しっかり見ていて良かったとしみじみと喜びを噛み締めた。
「ちょっと、意識された程度で舞い上がっててどうすんのよ。思春期の少年じゃあるまいしー?」
「僕、そんなに舞い上がってるかな」
と言いつつも、心はそわそわとしたままなのは事実だ。緩んだ表情を引き締め、心を落ち着けるように一つ深呼吸して目を伏せる。だが思考は上手く切り替わらず、まぶたの裏にあの日二人で迎えた朝日の色を見ていた。




