058 君と僕の内緒の話(3)【アイゼア視点】
「メリー!?」
メリーは以前、泳いだ経験がないと言っていたはずだ。まずいと思った頃にはコートを脱ぎ捨て、メリーを追いかけて泉の中に飛び込んでいた。
静かな泉には似つかわしくないけたたましい水の音がし、今度は水の中のこもった音に耳が支配される。鋭く肌を刺すような冷たさが全身を襲い、心臓が胡桃のようにギュッと縮こまるような心地になる。濡れた服が体にまとわりつくのも構わず、まだ深くは沈んでいないメリーの体を引き寄せた。
水を飲んで溺れる前にと急ぎ水面へ到達する。幸い陸地からは大きく離れておらず、メリーを先に陸へ上げてからアイゼアも這い上がった。
「けほっ、す、すみま……」
水を飲んだのか咳き込んでいるメリーの背をさする。水を吸った服が肌に貼り付き、冷えた空気が体を冷やしていく。さすがに春になったばかりの早朝の気温と雪解け水のような冷たさの水が合わさるとこたえる。
背中をさすりながら顔を覗き込むと、苦しげにまぶたを固く閉じているのが見えた。咳が収まってくると、薄く目を開けたメリーがこちらを見上げる。ゆっくりと開いた瞳は少し涙目になって潤み、艶やかな光を宿してアイゼアを映した。
「メリー、大丈夫かい?」
咳は収まったようだが他に苦しいところがないか心配になって声をかける。メリーは問いかけに応じず、呆けたように少しだけ口を開いて、ぽかんとこちらを凝視していた。無言が続き、溺れかけたことが心の傷になったのではないかと不安がよぎる。
再度声をかけようとすると、突然メリーの指が額のあたりに触れた。アイゼアの濡れた前髪をつうっと指先がなぞる。見惚れているような切なげに細められた瞳に見つめられ、体がみるみる熱くなっていく。胸を突き破りそうなほど強く高鳴る鼓動に、呼吸をするのも忘れそうになっていた。
「……メリー?」
頭が真っ白になって何も言えなくなる前に彼女の名前を呼ぶと、ようやくハッキリと目が合う。
「あっ、す、すみません!」
我に返ったのか、メリーは弾かれたように姿勢を正した。こちらへ手をかざすと、ぶわっと熱が体を包む。一瞬で髪も服もすっかり乾き、服に残る熱のおかげで冷えた体もゆっくりと温まっていく。どうやらメリーが魔術で乾かしてくれたらしい。
「不躾に、本当にすみません。いろいろとご迷惑をおかけしました……」
珍しく声にありありと反省の色を滲ませ、メリーは頭を下げる。前髪が垂れ、顔は完全に見えなくなっていた。
「気にしないで。それより、君についてきて正解だったね」
「まったくですね。一人だったら溺死していたかもしれないです」
盛大についたため息は安堵と呆れが入り交じっているようにも聞こえた。
その後、メリーに代わり、アイゼアが泉の水を瓶に汲んだ。一際強く日光が当たっている場所の水が汲みたかったようで、手を伸ばしたらうっかり体勢を崩して落ちてしまったとのことだった。
そういう事情なら遠慮なく頼ってくれればいいのにとは思ったが、『陽の光が強く当たって輝いている場所』『水面を極力揺らさないように』『できるだけ表面の水を』と事細かな指示に加え、掬う位置に関してはかなりのこだわりがあるらしく何度も修正された。おかげで背中や腕がつりそうになったほどだ。
指定が多くて遠慮したのか、頼むのが面倒で自分で何とかしようとしたのかはわからないが、泉に落ちたときは肝が冷えた。一人で無茶はしてほしくないが、言ったところで聞き入れてくれないであろうことも悩ましい。
何とかならないものかと無意識に額に手を当てると、先程触れたばかりのメリーの指の感触を思い出す。こちらを見つめるメリーの瞳と表情が頭をよぎり、あれは悪くなかったなと不謹慎な感想を抱いてしまっていた。
メリーは、街へ帰る頃にはすっかりいつも通りの調子を取り戻していた。取り留めのない話をしながら帰路に着く。だが、アイゼアの頭からは先程の出来事が離れてくれなかった。
あの表情に隠されたメリーの心が知りたい。なぜ髪に触れたのか理由が知りたい。もしかしたら、万が一の確率で望む答えが秘められているのかもしれない。あり得ないとわかっていても、どうしても期待してしまう。
聞いてしまおうか、やめておこうか。悩みに悩んだ末、アイゼアは話題が切れるときを見計らって切り出すことにした。できるだけ自然体に、意識していないように、ただ何となく疑問に思ったふうを装いながら。
「ねぇ、さっき何で僕の髪に触ったの?」
尋ねた瞬間、メリーの肩がピクリと反応を示す。追い討ちをかけるように「どうして?」と問うと、口を固く引き結びながら、渋い表情をした。メリーはほとほと困ったと言わんばかりに重そうに口を開く。
「そんなに気になります? 大した理由はないんですけど」
「気になるね。いきなり何でだろうって思ったから」
鋭い言葉で断れられるかと思いきや、特別嫌がる素振りはない。ただ少しだけ言いにくそうに、きゅっと唇に力が入っているように見えた。
「髪から水滴が落ちてるのを見て、朝日が当たって氷柱が溶けてる光景を思い出したんです。懐かしくて、綺麗だなって。触ったのは無意識でした」
メリーは視線を逸らしたまま、世間話でもするかのように理由を話す。彼女の中では本当に大したことではないらしい。整然とした横顔に戸惑いの色は一切なく、声色まで淡々としていた。
言葉だけを汲み取って、思わず触れてしまいたくなるほどに見惚れていたと解釈して良いのだろうか。声色からは全くそんな感じには思えず確信も持てない。さらりと告げられた褒め言葉に不意を突かれたことで、鼓動は逸る。好きな人からそんなふうに言われて、意識するなという方が無理だ。
先程の切なげに見つめる瞳を思い出し、そんなことを感じながら触れていたのかと考えるだけでますます火照りは増していく。まさかそんな答えが返ってくるとは夢にも思っていなかったのだ。
相変わらずメリーにいつものペースを乱されてしまっている。苦肉の策で、照れてしまった顔を見られないように顔を反対側へと逸らすので精一杯だった。
「いきなり触られて怒るのも無理ないですよね。すみませんでし……」
メリーは突然言葉を止め、立ち止まったのか足音がぱったりと聞こえなくなる。こちらも合わせて足を止め、うっかり振り返りそうになるのを何とかこらえた。危うく顔を見られてしまうところだったと内心どぎまぎする。
「髪に触れるなんて、友人が侵していい距離ではなかったですね。不愉快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」
「え、メリー?」
突然の深刻すぎる謝罪と微かな衣擦れの音に慌てて振り返り、ぎょっとする。数歩後ろでメリーが直角九十度で深々と頭を下げていたからだ。
「何でそんな頭下げてるんだい!? 僕は全く怒ってないからねっ」
誤解を解こうと急ぎメリーに近づき、肩に手を添える。そんなに怒っているように見えただろうか。泉に落ちてからここまでの間に、怒っていると感じさせるような発言や態度をとった記憶はない。
体を起こしてこちらを見上げたメリーはきょとんとした表情でアイゼアを見つめてくる。
「何でそんなに顔赤いんですか?」
しまった、と思うときには時すでに遅し。照れを意識してしまったせいで頬が再び熱を取り戻し始める。もう逃れられないと観念し、どうせなら自分の感じたことを少しだけ明かしてしまえと心が自棄になりかけていた。
「君が僕を見て綺麗だって褒めるから。まさかそんなこと考えてたとは思ってなくて……」
「はい? この程度の賛辞、耳にタコができるほど聞き慣れてるんじゃないですか?」
メリーは驚いて目を丸くする。確かに容姿を褒められるのは初めてではない。少し慣れている面はある。それでもやはり好きな人からというのは特別なのだ。
「はは……どうかな?」
メリーの頬が徐々に赤く染まっていく。ほんの少しだけ明かした気持ちに触れたメリーの感情の色が変わっていく。まるでこちらの照れを分け与えたような感覚に心がくすぐったく痺れた。もっと伝えたらどうなるんだろうという好奇心に突き動かされる。
「褒め言葉の例え、メリーらしい言葉選びだよね」
「え? あ、氷柱に例えられるのが初めてだったんですね?」
「うん。初めてだね、さすがに」
朝日を受けて溶ける氷柱のようだとメリーは例えた。雪国で生まれ育ち、長く暮らしていた彼女らしい言葉選びだ。果たして本当にその光景に似ていたのかというのは甚だ疑問だが、メリーが『そう感じた』ことこそが重要だ。
「氷柱みたいに綺麗……かぁ」
「わざわざ言葉にし直さないでくださいよ、酷い人ですね」
「あはは。君がそんなに顔赤くしてるのは珍しいなぁ」
もうすっかりこれ以上ないくらいにメリーの顔は赤い。最初は意識もしていなかった言葉のはずが、今では照れ臭いものに変わってしまっているようだった。
強気で出てこないのは助けられた負い目があるからだろうか。いつも一筋縄ではいかないところもある彼女が、ころころと翻弄されているのが可愛くて面白い。
「アイゼアさんだって人のこと言えない有り様ですが?」
「じゃあ僕らは今おそろいってことだね」
本来なら照れている姿なんて隠してしまいたい。だが今は開き直ってしまったからなのか、照れも火照りも心が高揚して心地良い。
照れを分けあって、同じように頬を染めて、抱いている気持ちまでおそろいだったら良いのに。きっと心の色は少しだけ違っているのが惜しい。
「よくそんなこと恥ずかしげもなくぺらぺらと……!」
信じられない、と言いたげに目を見開くと不貞腐れたようにそっぽを向く。よほど恥ずかしかったのか、メリーはガバッとケープのフードを目深に被ってしまった。
顔の大半が隠れてしまい、唯一見えている口元は言葉を零さないようにギュッと固く引き結ばれている。そのままスタスタとメリーは帰路を歩き始める。いつもより足早な速度に、これ以上からかわないでという抵抗を感じていた。
ねぇ、メリー。
僕の髪に触れたとき、君がどんな顔してたか知ってる?
という意地の悪い質問は飲み込んだ。どのみち説明する気もない。あのメリーの表情は自分だけの秘密にしたい。切なさと熱を帯びたあの瞳は……今思い出しても心が浮かされそうになる。郷愁で恋い焦がれるメリーの表情にうっかり勘違いしてしまいそうになったほどだ。
いつかメリーはあの表情を誰かに向けるのだろうか。もしそんな日が来るなら、それが自分であってほしいと願い、別の誰かだと思うだけで心臓を取り出して捨てたくなるほどに苦しい。
「少しくらいこっち向いてくれてもいいのに」
先に歩いていってしまうメリーの背中に小さく呟く。そよ風よりも小さな声で紡ぐ言葉は届かないはずだが、メリーは応えるように立ち止まった。
「アイゼアさん、私が泉に落ちたこと誰にも言わないでくださいね。絶対ですからね!」
「わかった。喋ったら燃やされそうだしね」
「失礼ですね、さすがに燃やしませんよ。でももう二度と信用はしないと思います」
お願いを無視したときの対応が何気に重い。燃やされるのもなかなかだが、二度と信用されないというのもかなりつらいものがある。どちらにせよ誰かに話すつもりなど更々ないので心配する必要もないが。
メリーと自分、『二人だけの秘密』という甘い響きに頬が緩みそうになる。ホイホイと誰かに話してしまうのはあまりにももったいなすぎるだろう。などと暢気に考えている間に、メリーとの距離は少しずつ開いていってしまう。アイゼアも遅れないようにメリーの背中を追って歩きだした。
「そんな早く歩いて帰ったら、真っ赤な顔みんなに見られちゃうよー?」
「なら遠回りして帰りますっ」
そのまま歩調を緩めることもなく、こちらを置いていかんばかりの勢いだ。拗ねたメリーも可愛らしいが、早く歩けば歩くほどこの時間も早く終わってしまう。
少しからかい過ぎてしまっただろうかと頭の隅で考えながら、アイゼアはメリーの隣へ並び、同じ歩調で帰路についた。




