053 最後に残るもの【アイゼア視点】
ボソッと耳元で聞こえた低い声に心臓が跳ねると同時に、ずしっと猫一匹分の重みを肩に感じる。
スイウも皆と一緒にいるものだと思っていたがいつの間に背後に回ったのだろうか。小さく早鐘を打つ心臓を落ち着けようと、また出そうになったため息をアイゼアは寸前のところで飲み込んだ。
「前から何となく気づいてたが、やっぱりか」
何となく気づいていたということは、以前から怪しまれていたということだ。鈍感そうに見えてそうでもなく、他人に興味がないわりに意外と見ている。相変わらず抜け目のない人だという感想しかない。
「邪魔された瞬間の間抜け面……上手いこと二人きりだったのに残念だったなぁ?」
「はは、煽るねー」
面白いものを見つけたと言わんばかりに饒舌で楽しそうなスイウに思わず苦笑する。八つ当たりするように頭を傾けてスイウへ押し付けると、ふわふわで滑らかな猫の毛が頬に触れた。
「うわ、毛並み良いタイプ? それともお手入れとか意外としてる感じ?」
「重い。頭を置くなっ」
最近は猫の姿を見ている時間が長いせいか、つい人の姿が本来の姿であることを忘れそうになってしまう。毛並みの気持ち良さに思わず頬擦りすると、スイウは物凄く嫌そうに体を捩りながら抗議の声を上げた。
「傷心の僕を慰めに残ってくれてたんじゃないのかい?」
「んなわけないってわかってて言っただろ」
「なら、相談に乗ってくれるためかぁ。僕のために一肌脱いでくれるなんて……あ、一毛皮かな?」
「そのボケはどこから突っ込んでほしいんだ?」
「どこからでも大歓迎かな~」
「のらりくらりと……お前のそういうとこ、うんざりするな」
頭を開いて池で丸洗いしてやろうか、などと物騒なことを口にしながらもスイウは特に何もしてはこない。顔や言動のせいか普段から怒りっぽく見えるが、別に怒っているわけではないのだと今はわかる。おそらく呆れが大半で、心の声を代弁するなら『コイツ何言ってんだ?』あたりだろうか。
それなりに長く生きているだけあってか、スイウは大抵のことを軽く毒を吐いてその場で終わりにしてしまう。その良い意味での根に持たなさをアイゼアは密かに羨ましいと思っていた。
「そんなに悩んでるなら一つ助言をやる。相談相手を選び直すところから始めるといい」
声色だけなら親身に相談に乗っている風だが、あからさまに回避しようとしている。面倒事に巻き込むなと言わんばかりだが、先に面白半分で踏み込んだのはスイウの方だ。知ってしまったからにはただで逃がすつもりは更々ない。
「またまた〜。婚約者いたって話だったよね? スイウせーんぱい」
「気色悪……お前、他人の神経を逆撫でるのだけは一流だな」
戯けた態度で誤魔化してはいるが、正直に言えばワラにも縋るような心境だ。それを知ってか知らずか、スイウは尻尾を鞭のようにして後頭部に何度も叩きつけてくる。全く痛くないが、不満な気持ちだけはビシビシ伝わってきた。
「その無駄に整った顔くらいしか勝負できるところがないのに、相手はメリーか。丸腰で戦場に来た新兵って感じだな」
「取り柄が顔だけって結構失礼じゃない?」
「一個褒められてるだけマシと思え、ペテン野郎。逆に良いとこあるなら売り込んでみろ」
「あはは、酷い言いぐさだなぁ。売り込む、売り込むねぇ」
好感を持ってもらえるように取り繕えてもそれは所詮偽物だ。スイウのペテン野郎という評価もあながち間違いではない。本来の自分に好感を抱いてもらえるような良いところが果たしてあるのか。スイウの言う顔の方も特別武器になると思ったことはなく、何も思い浮かばない。
ずっと黙り込んだままだったせいか、スイウは嘆息すると面倒臭そうにもぞもぞと何かを呟く。何を言ったのかまではわからなかったが、声色に呆れとほんの僅かな同情が混じっているような気がした。
「僕はメリーのことを知って、少しでも歩み寄れたらって思ってたんだよね」
あるはずのない売り込めそうな点を探すのは時間の無駄だと判断し、別の切り口から悩んでいる話をすることにした。人と人ならざる存在どちらの経験もあり、長く生きてきたスイウなら何か自分では導き出せない答えや考えを持っているかもしれないと期待してのことだ。
胸の内で燻っている思いを口にしただけだが、スイウは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「つまり上っ面だけさらって理解した気になりたいと。謙虚なフリだけお上手な、傲慢な騎士サマ?」
「地味に心を抉ってくるねー」
「図星だから抉れるんだろ」
謙虚なフリだけ上手いという一言がチクリと胸に刺さる。一部を知ってメリーの全てを理解したと思えるほど思い上がってはいない。ただ何か一つでもメリーのことを理解し、共感して寄り添えることがあればと望んでいた。
「そもそもお前は歩み寄りたいんだろ? できることは他にあるんじゃないのか?」
よくよく考えれば、何となく触れて理解した気になって「僕にもわかるよ」なんて言ってしまうことが一番恐ろしいことなのかもしれない。同じものを見たり知れたとして同じ感情や考えを抱くとは限らないように、本当の意味で相手を知ることは想像していたよりずっと難しいことなのかもしれない。
メリーを理解することは彼女の孤独を癒やすには必要不可欠な要素だと思っていた。同じものを知ることで、少しでも彼女の理解者になれればと思った。そうやって心に触れたい気持ちばかりが先行して、自分に足りないものや、できないことばかりを見ていた。
「他にできること、か」
アイゼア自身も幼い頃に孤独を感じていたことを今も強く覚えている。養父母と暮らすようになってから、孤独の傷は少しずつ癒えていった。
それは養父母がアイゼアの過去や思いを全て知り、理解していたからではない。何があっても傍にいて、それでいて無遠慮に踏み込もうとせず、ただただ傷ついた心を受け止めて寄り添い続けてくれたからだ。
たとえ真に理解はできなくとも、相手に寄り添い歩み寄りたいという心があれば、手を取り合える距離に近づくことができるのではないか。一人にはしないと言っても良いのではないか。スイウの言葉は辛辣でありながら、今まで焦りで見落としていたものを思い出させてくれていた。
「そんなことより、一つくらいメリーの記憶に残るようなことしてみたらどうなんだ」
「……記憶って言うからには、言葉だけじゃなくて行動でもってことだよね?」
「当たり前だ。とりあえず追いかけろ。祭りの記憶をフィロメナで埋めつくされたいのか?」
スイウの言葉にハッとする。このままフィロメナたちと祭りを見て回ってしまったら、確実にアイゼアのことは記憶に残らない。それはこの関係が今のまま全く進展しないことを意味している。
「行かないと……」
トラヴィスを意識し、焦りすぎていた。せっかくメリーとランタン祭へ来られたのだから、一緒に楽しまなければ必ず後悔する。時間を共有し、少しでもメリーの中に残らなければ。
「だろ? まぁ俺としては、ガキ共の世話を一人でやってるエルヴェが憐れでならんってだけだが」
「それはそうだね。カストルとポルッカを任せきりにするのも悪いし」
祭りで浮かれたフィロメナに、幼い二人。メリーもおそらくフィロメナの勢いに振り回されている。エルヴェの負担はかなり大きなものになっているのは想像に難くない。
スイウの言葉を胸に、今できることをしようと気持ちを切り替える。アイゼアは皆に追いつくために歩調をいつもより早めて歩きだした。
メリーたちを追いかけながら、スイウは悪態をつきつつもゆっくりと一つずつ助言をくれていた。憎まれ口を叩きながらも、何だかんだ面倒見が良いというか、世話焼きなところが彼にはある。
『必ず数歩前で背中を向けて、文句言いながらも待っててくれるようなヤツだった』
いつだったか、スイウの生前からの友人であったクロミツが言っていた言葉を思い出す。きっとスイウは人間として生きていた頃と今も本質は何も変わっていないのだろう。
彼からすればアイゼアの恋愛相談など真面目に聞く必要もないが、助けを乞われれば最終的にはほんの少しだけ手を貸してしまう。口も態度も悪いし一言も二言も余計だが、結局スイウは根本的に人が良いのだ。
「記憶ってのは大半が実際にあったことだ。事実の積み重ねは薄っぺらな何の意味もない言葉に説得力と実感を持たせる」
「なるほど。トラヴィスの言葉には事実の裏付けがないから、説得力も現実味もないわけだ?」
「まぁ、メリー自身に好意を持たれる経験が少ないのも問題だな」
恋愛はおろか、人から好かれるという経験に乏しいメリーにとって『好き』という言葉は、それこそ訳のわからないものなのだろう。
メリーの魔力は人を幸せにすると言ったときも、メリーは『夢みたい』だと表現した。それは暗に現実ではないと言っているようなもので、メリー自身は自分の魔力は人を幸せにするものではないと考えているということだ。それと同じことで、メリーは好意を寄せられても夢のようなものだと捉えているのではないだろうか。
彼女の兄妹の命日に会話をしたときもそうだ。現実味がないからこそ照れも動揺もなく、からかっていると指摘しつつも真剣に怒りもしない。それは失礼だ、と怒る方が感覚として健全な反応だったはずだ。
「あとお前の場合、口だけは上手いことと、胸糞悪い愛想笑いからくる信頼感のなさが致命的だな」
「さっきから容赦なくボロクソに貶すよね」
「悪いが遠慮って言葉は生前から持ち合わせてない」
本当に一言余計だと言いたくなるが、軽く無視できない程度には核心を突いている。読心術でこちらの心を覗いたことがあるからなのか、元々の観察眼の鋭さからなのかはわからないが、アイゼアがひっそりと劣等感を感じている部分を的確に刺激してくる。
それでも決して無意味な暴言ではない。言葉は悪すぎるが、嘘か本当かもわからない言葉ばかりを重ねても心には届かないとスイウは言いたいのだろう。
「言葉は誰にでも簡単に言える。要はそれを誰が言ったかの方が重要だな」
「それは僕にもわかるかも」
かつて人を信用しなかった自分が少しずつ心を開いて人間不信を改善できたのは養父母のおかげだが、初めから二人の言葉を信用していたわけではなかった。優しさや大切にされているという経験と信頼の積み重ねがあったからこそ初めて言葉に耳を傾け、歩み寄ることができたのだ。
「メリーへの好意を信じてもらえるだけの積み重ねがないと何を言っても伝わらないってことだね」
養父母が凍りついたこの心を溶かしてくれたように、少しでも多く時間と経験をメリーと重ねていく必要がある。楽しいことや嬉しいことを共に分かち合い、傍にいることを好ましく感じていることを信じてもらえるように。同時にメリー自身にも、共にいることを望んでもらえるような……そんな関係を築きたい。
たとえその先で振り向いてもらえなくとも、人と関わって楽しかったという経験はアイゼアの存在を飛び越え、その先に広がる多くの人々との繋がりに昇華される。きっとメリーが普通に、幸せに生きていく手助けになるはずだ。これは決して無駄なことではない。
メリーと同じ道を共に歩みたい。今度は自分がメリーを守りたい。その一方で、誰かに奪われたくない、自分だけを見てほしいという思いもある。純然たる想いだけではなく、綺麗な恋心でもない。
それでもこの心の中には間違いなくメリーの幸せを願う想いも含まれている。その部分だけ彼女に伝わるように努力すれば、この感情が彼女を傷つけることはないと信じたい。
メリーへ想いの押しつけにならないようにと恐れていた心が、何を示せばいいのかわかったことで、少しだけ強く前向きになれたような気がした。
「なぁ、アイゼア」
喧騒に紛れるようにぽつりとスイウが呟いた。今までよりも静かな声色に耳を澄ます。
「人は相手の何から忘れてくか知ってるか?」
唐突な問いかけだった。相手の何から忘れていくか、そんなことは今まで考えたこともなく想像もつかない。考えを巡らせていると、スイウは見かねたように答える。
「……人は最初に相手の声を思い出せなくなる。次に顔、最後に思い出を忘れる。完全に消えるってよりは、正確に思い出せなくなるって感じだな。覚えといて損はないだろ」
千年以上前の時代を生き、そして死に、多くの人の死に向き合ってきたスイウの言葉は妙に含蓄があって重い。
彼はそうやって少しずつ“誰か”を忘れてしまったのだろうか。もしかしたら声も顔も忘れ、思い出だけが朧気に残っている人がいるのかもしれない。
そして彼が言わんとしていることは何となくわかった。声を忘れるということは、言葉も声色や温度を伴ったものとしては残らない。
やがて表情も思い出せなくなり、そう言われたという事実だけが靄のかかった思い出として残ってゆっくり消えていく。言葉は人を変える力もあるが、同時にあっという間に風化するものでもあるということだ。
会話しながら早足で歩き続けていると、ようやくメリーたちが出店で何かを買っている姿が見えてくる。
「最後に一つ忠告してやる。お前の言葉に説得力が出ても、想いの方が受け入れられるかはまた別だ」
「え?」
「おいおい……」
耳元で聞こえるスイウの愕然とした声は、嫌味を通り越して本気で信じられないと言わんばかりだ。
「伝わったところで今のままのメリーなら返事はこうだ。『気持ちは嬉しいです。でも付き合うのは正直無理ですね』」
「無理……」
「一々傷つくな、鬱陶しい」
無理という響きに後頭部を鈍器で殴られたような心地になる。ここまで話を詰めておいて、最後の最後で落とすなんてあんまりだ。
だがスイウの言う通り、いくら自分の言葉や想いを信じてもらえたところで受け入れられるかはまた別の問題でもある。一緒にいてもいいと思ってもらえたとしても、それが自分と同じ色の感情とは限らない。もちろんそう思ってもらえるだけの努力や働きかけをすることは厭わないが、結局最終的に選ぶのはメリーだ。
種族差を始めとするありとあらゆる壁を越え、メリーに自分を選んでもらうことの難しさは考えずとも理解できる。そもそも自身に手を取ってもらえるだけの魅力や価値はあるのか。
一人で十分と言わんばかりに堂々とした彼女の姿に、ほんのりと気が遠くなりそうになる。
「やっぱりこれ、前途多難ってやつかな?」
「知るか。それよりここまで付き合ってやったんだ。俺の労力だけは死んでも無駄にするなよ」
鼻で笑うスイウの声を聞きながら、アイゼアは苦笑した。今は一つでも多く思い出を重ねるために、一歩ずつ距離を縮めていく。何にせよ、行動しなければ何も始まらないのだから。




