047 君の微睡みは僕を殺す(1)【アイゼア視点】
メレディス・クランベルカ。昨夜初めて会ったばかりの聞き馴染みのない人物の名前だ。にも関わらず『メリー』という略称を口にしたとき、その響きになぜか覚えがあるような気がした。
メリーと一日一緒に過ごしてみて、彼女の人となりはますますよくわからなくなってしまった。本当に何を考えてるのかわからず、こちらが想定している回答とは全く違う答えが返ってくる。何とも掴みどころのない不思議な人だとアイゼアは思った。
包み隠さずズケズケと物を言うわりには急に気づかわしげになったり、無表情だと冬の北風のように冷たく見えるのに、笑うと温かさを感じる。親切なようでいて全て自分勝手にやっているだけだと言うし、詮索はしてこないのにこちらに寄り添おうと無遠慮に踏み込んでくる。
今だってそうだ。貸してくれたはずのベッドに潜り込まれ、なぜか一緒に寝ることになってしまった。背中に触れたメリーの手が、きゅうと引き寄せるように僅かに力がかかる。
温かい。
体の震えも冷や汗もすっかり止まり、恐怖も罪悪感も寂しさも優しい温もりに溶けるようにして消えていった。
こんな心穏やかな夜を迎えるのは生まれて初めてかもしれない。当然、誰かがこうして一緒にいてくれる経験も人の温もりを知るのも初めてだった。
先程の心配そうにこちらを見つめるメリーの表情が忘れられない。なぜそんなに親身になって心配してくれるのか。メリーにとって大人の自分はそれほどまでに大切に思える友人なのだろうか。
魔法薬で子供に戻っているという話は半信半疑だったが、もしそれが本当ならそんなに悪くないと今は思える。こんな自分にも将来、これだけ気にかけて大切にしてくれる友人ができるということだ。
「大人の俺は、メリーさんを騙して友達になったのかな……」
アイゼアは未来の自分への信頼のなさと僅かな罪悪感を抱きながら、温もりに身を委ねて目を閉じた。
* * *
爽やかな鳥のさえずりが外から聞こえ、ゆったりと意識が覚醒してくる。心地良い温かさに、二度寝したくなる気持ちを抑えながらアイゼアはまぶたを押し上げた。すぐ隣に誰かがいる気配に気づき目視すると、それがメリーであることに一瞬思考が停止する。
「え……いや、なんで?」
無意識に転がり出た声は普段よりも妙に高く、とっさに口を手で覆う。ゆっくりと自身の状態を認識し、メリーの手がこちらの背中へ回され、まるで抱き寄せられているような体勢であることに気づく。
ありえない距離感と状況に混乱し息を吸うのも忘れ、氷漬けになったように体を強張らせて固まる。ドクドクと早鐘を打つ心臓の音を聞きながら、混濁した頭を必死に稼働させ記憶を手繰り寄せた。
魔法薬を浴びた自分は記憶や精神までもが退行し、昨晩はあの頃よく見ていた悪夢を見た。昨夜の自分が抱いていた苦しくて心細い気持ちが鮮明に蘇ってくる。
あの頃の自分は養父母にすら頼れず、悪夢を見ても一人で震えながら黙って耐え忍んでいた。今回こうして眠り、穏やかに目が覚めたのは紛れもなくメリーのおかげだ。
更に記憶を辿っていくと、一通り全部思い出すことができた。当時の素行の悪さ、捻くれた性格と物言いをばっちりと見られてしまった。
スイウには笑われ、フィロメナを戸惑わせ、エルヴェに気を使わせ、メリーには面倒をかけた。カストルとポルッカにも暴言を吐いて逃げ帰ってきた。皆に迷惑をかけたことに気が滅入り、自己嫌悪で頭が真っ白になっていく。
全部なかったことにできたらいいのに……
そんなふうに思っても後の祭りだ。後悔に似た深いため息をつきながら、ふと投げ出されたメリーの手に目が留まる。
『怖い夢でも見ましたか?』
昨夜の心配そうなメリーの表情と優しい声色を思い出す。悪夢から掬い上げてくれたメリーの手を、感謝の思いを込めてそっと握りしめた。
布団から出ていた手は冷えた室内の空気に晒されてひんやりと冷たくなっている。子供の姿のままの手はメリーの手を包むには小さく、もう片方の手を彼女の手の甲へと添えて温める。
これだけ迷惑をかけておきながら、なかったことにしたいだなんて虫のいい話かもしれない。記憶のないフリでもしてしまおうかと思ったが、それはやめようと思い留まる。
あんな酷い態度をとっていた自分に、メリーは怒ることもなく根気強く傍で世話を焼いてくれた。子供に戻っていた自分は確かにメリーの存在に救われていた。それをなかったことにはしたくない。
改めてメリーへ視線を向けると、規則正しい呼吸を繰り返し気持ち良さそうに眠っている。朝日を受けた白い肌と僅かに色づいた頬は何とも柔らかそうに見え、サラリとかかる薄紅色の髪が艶やかに輝いていた。僅かに口元が緩んでおり、唇はふっくらとしていて色っぽい。
楽園で地獄を味わっているような妙な心地になり、あまりよろしくない方向に思考が転がり始めていることに気づく。
自覚があるならさっさと起きて部屋を出ていけばいいともう一人の自分が理路整然と呟いた。こちらが動いたところでどうせメリーはまともに目を覚まさないことも経験則でわかっている。わかっているくせに、こんな機会は早々ないと思うだけで抜け出す気力が一向に湧いてこない。
好意を寄せている……つまり下心のようなものを持っているわけで、この状況を利用していることは「最低だ」と言われてしまうだろう。抱き寄せられているような形とはいえ、メリーに他意はない。ただ安心させるためにしてくれただけだ。
彼女の善意に付け込むというのはやはり人としてどうなのかという常識に則した思考と、そもそもこの状況を作ったのはメリー自身なのだから少なくともメリーからは責められる謂れはないという都合の良い責任転嫁がせめぎ合っていた。
背中に回されたメリーの手の温もりを強く意識してしまい、触れられている部分がじんじんとひりつくように熱を帯びてくる。手を伸ばせば髪にも頬にも届くであろう距離が、まるで空に浮かぶ雲のように遠く感じられた。
迫るようなもどかしさに囚われそうになったとき、弱い力で手を握り返される。心臓が跳ね、おそるおそるメリーの様子を覗うと、相変わらずメリーは目を閉じたまま眠っていた。どうやら起きたわけではないらしく、静かに安堵する。
眠っているとはいえ、手を握り返してくれた事実がどうしようもなく嬉しかった。まるで受け入れられたかのような気分になったが、それが自分にだけ都合のいい解釈だということは重々承知している。
逸る鼓動の音に聴覚を支配されながら、手の甲に添えていた手をメリーの頬へと伸ばす。
『あなたは私の大切な人なんです。今更何があったところでそれは揺らぎません』
大人の自分も信用ならないと言う子供のアイゼアにメリーは、そうは思わないと言ってくれた。その後に続けられた言葉を思い出し、手が止まる。
それは何をしても信頼が揺らがないという意味ではない。アイゼアの過去、そして今のアイゼアの全てを知らずとも『大切な人』に足る人物として信じているという意味だ。その信頼を独りよがりな思いで裏切るのか。自分にとっても、メリーは大切な人だ。傷つけたくはない。
あとほんの少しで触れられるというギリギリのところで押し留まり、ゆっくりと手を胸元へと引っ込めた。ここで負けていたら、いよいよ自分を許せなくなる。良心の呵責に苛まれ続けることは一目瞭然だった。
穏やかなメリーの表情とは裏腹に、アイゼアは締めつけられるような切なさを胸の内に抱く。握り返された手のひらの感覚や伝わる温もりは穏やかな幸福感と僅かな虚しさをアイゼアに植え付けてくる。それでも手放し難い温もりに、自身の感情を誤魔化すために固く目を閉じた。
しばらくして再び微睡み始めた頃、握っていたメリーの手にきゅうっと強く力が入る。
「ぅー、ん……」
くぐもった小さな声と共にメリーが身動ぎ、アイゼアは微睡みから一気に覚醒した。息を潜めて見守っていると、静かに深海の色の瞳が覗き、その目がゆったりとアイゼアを捉える。微睡んでいるのか、ぼーっとこちらを見つめていた。
「お、おはよう、メリー……」
あまりの気まずさにとりあえず挨拶をしてみる。メリーは頭が冴えてこないのかゆっくりと瞬きを繰り返し、少し間を置いてから小さく囁くように唇が動く。
「おはよう……ございます」
挨拶したその場から、すぅっと再びまぶたが落ちていく。閉じられそうになる寸前、「あ」という声と共にゆっくりと再び目が開く。
「今……メリーって?」
「うん、呼んだよ。それより……そろそろ起きたいんだけど、壁際に追い詰められててどうして良いかわからなくて」
訳のわからないそれらしい理由をこじつけて、この状態に言い訳をする。だが、メリーは背中に回した手を退けることもなく、じっとこちらを見つめ続けていた。
「アイゼアさん、喋り方……?」
「もう戻ってるよ。昨日のこともしっかり覚えてるし。迷惑かけてごめん。それと、ありがとう」
「いえ……別に。んーと、体は……」
「えっ、ちょちょちょっと……!」
何の前触れもなくメリーの手がのそっと額に触れ、前髪を上げてくる。メリーはぼんやりとこちらを見つめたあと目を閉じた。今度は両手でこめかみあたりにやんわりと触れられ、アイゼアは再び体を強張らせる。
いきなり何なんだ……?
顔に手が添えられると親指が頬骨に触れ、そこからつうっと顔の側面を柔らかな手のひら撫でていき、ゆっくりと輪郭をなぞっていく。一度離れた手が首に触れたところで手首を掴んで止め、無理矢理引き剥がした。だが今度はこちらの腕を掴んでくる。
「待って待って、メリー! やめて、本当にっ……てか、何してんの!?」
「んー……ほそ……」
「ほそ……?」
「こっ……かくが……」
「こっ、こっかくが……?」
「……」
「いやいや、寝てないで起きて! ちゃんと説明してほしいんだけど!」
メリーは閉じかけたまぶたを押し上げ、半眼でこちらを見ながらのんびりと言葉を紡ぐ。
「骨格、と筋肉量……一昨日の夜……変わって、ない……かも……体の方も、触って診ないと、何とも……」
「へ、えぇ……? そ、それを診てたの?」
「はー……ぃ……」
一昨日の夜から変わってないって、いつ触ったんだ?
意識を失っているときだろうか。
いや、そもそも『体の方も』ってどこ触ったんだ……!?
聞いておきたい気もするが、聞くのが怖いという複雑な心境だった。顔が熱いような、それでいて血の気が引いていくような、自分でももう何が何やらわからず思考はぐちゃぐちゃだ。
とにかく落ち着かなくては。もうこの際過ぎたことはいい。これからどうすべきかを考える方が余程賢明だ。
「……とりあえず今日は本部に顔出そう……かな」
「着替えを……いきなり体、戻ると……」
片言だがメリーの言いたいことはわかる。街中や職場で突然元に戻った場合、着ていた服は一気にキツくなるだろう。下手をすれば破れかねない。
「怖っ……」
最悪の事態を想像して身震いした。周りには笑われるかもしれないが、アイゼア的には笑い事じゃ済まない。これ以上同僚の笑いのネタを増やしてたまるか。
「今日……経過観察。休んで二度寝……」
「しないよ!?」
その瞬間、離れていたはずの手が再び抱き寄せるように背中へ触れる。
なぜ戻す──!?
背中に回された手に力がこもり、メリーはアイゼアの体を更に引き寄せる。もうこちらが甲高い悲鳴を上げたいくらいの個人的な大惨事だった。




