第60話 水面下
「え? 文音が何だって?」
朝のHR後、俺はつぼみんから早々に変な話題を投げられて首を傾げた。藍は日直の仕事で離席しているため、つぼみんとの二人会話だ。
「だからー……今日1組で騒ぎがあったんだけど、文音ちゃんとサクくんが巻き込まれてたんだって」
ほう、今度は俺ではなく文音とサクのほうに騒ぎときたか……。
長い事一緒にいたことで、俺の面倒ごと体質があいつらにも感染してしまったのかもしれない。
「へぇー。……で、それってどんな騒ぎだったの?」
正直、自分が巻き込まれてないトラブルにわざわざ頭を突っ込みたくはない。できることなら聞かなかったことにして、今日も平和に一日を過ごしたいものだ。
だけど今回は当事者があまりにも知り合いすぎる。文音もサクも中学からの付き合いだ。そーゆう意味で聞かないわけにもいかないので、一応聞いておくことにした。
それに、どうせ俺が回避しようと躍起になったとしても最後には結局巻き込まれるに決まっているのだ。
だからもう俺は降りかかる火の粉を振り払うつもりはない。堂々とすべてを諦めて名ばかりの”天才くん”として高校生活を送っていく方針である。
だったらこうして自分からちょっとだけ足を踏み入れた方が幾分かマシだろう。
「何かね……ほら、このまえの……押切芽衣ちゃんっていう女子いたでしょ? またあの子とトラブルがあったみたい」
つぼみんの声のトーンが微妙に下がる。どうやら心配しているようだ。
「ん? 押切? ……誰、それ」
当たり前のように俺がその押切とやらを知っている前提で話されたが、知っているわけがない。
だって、俺ってば未だに自分のクラスの人たちも大半は覚えてないんだよ?
他のクラスの人物なんてそうそう覚えてるわけが無いんだ。
唯一親睦を深めていたと思っていた彼方も、俺を試験で満点に仕立て上げやがったかと思えば赤点で即退学してたし……。
それに、このまえっていつのことを言ってるんだろうか。もう少し丁寧に話してほしいものだ。俺の記憶力は決して良い方じゃないんだから。
「いやいや……野内くんが帝くんと揉めた時にさ、いたじゃんか。1組の子」
「……あ、ああー……いたいた。いたね、うん」
つぼみんの補足説明でようやく思い出した。あの女子は押切という名前だったのか。
もう一か月も前のことだから思い出せるか微妙なところではあったが、俺が姿を見せたときに一番驚いた表情をしていたことが印象深くて記憶に残っていた。何というか、見るからに「え、誰!?」みたいな顔をしていたのだ。
「あの時は文音ちゃんに靴を隠されたとか騒いでたんだけどね。今回は押切ちゃんが足を滑らせて、文音ちゃんに水を被せたんだって」
「へぇー、そうなんだ」
なるほど、あの時の騒動はそういうことだったのか。今更ながら真相を知った。
それに、今朝の騒ぎというやつも聞いた感じだとあんまり大したことではなさそうだ。とりあえず一安心する。水を被せたって言ってもどうせちょっと濡れた程度だろう。それぐらいの揉め事なら俺が巻き込まれることもないはずだ。
そう思うと、ホッと肩の力が抜ける。
「そうなんだ、って……野内くん、心配じゃないの?」
「心配? まぁ、してたけど……聞いた感じだと多分大丈夫そうだから、もうしてないかな」
つぼみんの言う心配って多分文音たちのことを指して言っているんだろうけど、俺にとっての心配はそこじゃあない。
これくらいの小競り合いくらいなら、俺が巻き込まれるかもしれないって心配はするだけ無駄だろうという意味で、心配ないと伝える。
「え……大丈夫、かなぁー? つぼみが見たのは騒ぎが収まった後だったけど、結構空気重かったよ?」
「喧嘩って仲直りが難しいからなー。直後の雰囲気なんてそんなもんじゃない?」
俺は経験則から物を言う。まぁ経験則と言っても、俺の、ではない。中学時代、何度か友達同士の喧嘩を見てきたからその経験からだ。大体喧嘩の後の空気感っていうのは重いものだ。
それも時間が経てば、自然と元に戻る。今回もそうなることだろう。……多分。
「そう、かなぁー……」
「そうだって。それにサクもいたんでしょ? ならなーんの心配もいらないよ。サクからしたら喧嘩の仲裁なんてお茶の子さいさいなんだから」
ていうか、俺が満点を取ったことに比べたらこんなのトラブルでもなんでもないレベルじゃないか。それなのに、つぼみんは何でこんなに心配顔なんだろうか。意味が分からない。
さっきの俺の面倒ごと体質がサクたちに感染したかも、なんて言葉は訂正だ。全く汚染されていない。
「んー……でも、野内くんがそう言うならそうなのかも……?」
「うんうん。そうだよ、そう」
つぼみんはまだどこか納得しきれていない様子だったが、一応は納得してくれたようだ。
それから自然と話は切りあがり、各々授業の準備をし始める。
その際、「まぁ……アイツらに相談とかされた時には、素直に相談くらいは乗ってやろうじゃないか」と。
密かにトラブルでもないようなトラブルに対して絡んでいく前向きな気持ちだけは残しておいた。相談されたところで価値ある意見は出せないんだけどね。
◇
あの騒動から二週間が経過した。
その間。
特にこれと言って大きな出来事は起こらなかった。
――本当に何も、起こらなかった。
「……クッッソがぁッ!」
一年生の教室棟から離れた、講堂の近く。
人が全く見当たらない、カメラもないような放課後のその場所で、「ドンッ!」と通路の鉄柱に拳を当てる大きな音が鳴り響いた。
その音は、誰にも聞かれることなく梅雨空に吸い込まれていく。
拳を押し当てているのは押切芽衣。
気は強いが、異性に好かれそうな見た目、比較的整った容姿をしている1組の女子リーダー的存在だ。
普段なら取り巻きを従えて廊下を闊歩している彼女が、こんな人気のない場所で一人、壁を殴っている。
その姿は、いつもの余裕綽々とした押切芽衣とは程遠い。
こんなところで声を荒げている理由は言うまでもなく、想定とはだいぶ違ってきている現状に苛立ちを感じているからだ。
躊躇なく振るった右の拳からは、熱さすら覚えるほどの痛みがジンジンと伝わってくる。拳の皮が少し擦りむけて、うっすらと血が滲んでいる。
だが、その痛みすら今の押切にとっては些細なものだった。心の奥底で燃え盛る怒りと焦りに比べれば。
この痛みは、むしろ心を落ち着かせるための薬のようなものだ。
「クソ帝がッ!! マッジで何なの!? あいつさえいなけりゃ今頃は上手くいってるはずだったってのに!!」
そう。
押切の予定では……今頃は千条文音の心は壊れに壊れ、学校にも登校できなくなるほどの状態になっているはずだった。精神的に追い詰めて、もう二度と立ち直れないくらいに。
それがどうしたことだろうか。もう6月も最後の週に入ってしまったというのに、千条文音は今、ちょっぴり元気がないくらいの具合で普通に登校できてしまっている。
二週間ほど前にあった教室での一件以来、押切の千条文音へのいじめが悉く上手くいっていない。
ハッキリ言って頓挫していた。
「ウザイウザイウザすぎるッ!!」
もう一度、拳を鉄柱に叩きつける。今度は左手だ。
押切の思惑が上手くいっていない理由は、大きく分けて二つある。
一つは、常日頃から千条文音の周りに島田朔をはじめとした仲間たちがウロチョロとしていること。特に島田朔は、押切が何か仕掛けようとすると必ずと言っていいほど文音の側にいる。
そしてもう一つが、教室の中にて千条文音に帝友恵という強力な助っ人ができてしまったことだった。
「クソ帝のやつ……ウチが喧嘩買ったフリしたことに気付いてやがったんだッ!」
あのとき、押切は帝の挑発にあえて乗ったように見せた。そうすることで千条の心に安心という感情を芽生えさせるために。希望を持たせてから叩き落とす――それが押切の狙いだった。
だがしかし、帝はあの時点で押切の思惑に気が付いていたに違いない。
例えば靴に画びょうを入れたり、カメラから見えないよう人の波を作って弁当に虫を入れてやったり……それら全てが帝によって阻止されているのだ。
いや、正確には画びょうも入れたはずだし、虫も混入させたはずだった。
なのに、帝がすべてを看破しそれらを退けてしまった。
そのせいで千条は嫌がらせがあったことは分かっているだろうが、今日までまったく実害を受けていない。靴も足も無事だし、弁当だって帝が事前に処理してしまったためショッキングな絵面を目の当たりにしていない。
「クソがぁッ!! これじゃあ、あの野郎を避けてる意味ねぇだろうが!!」
押切はある記憶を思い出しながら、今度は右足で鉄柱を思い切り蹴る。
手で殴ったときよりも大きな音が鳴り響いた。靴底に響く衝撃が全身に伝わる。
その時だ。
「手を貸そう」
「ッ!!」
突然、物陰から出てきた男子生徒に声をかけられる。
押切は反射的に身構えた。
いつの間に――気配すら感じなかった。
男は何とも不気味な雰囲気を纏った人間で、影が薄いのか濃いのかハッキリしない感じがある。いや、正確には存在感が極端に希薄だったり濃密だったりするのだ。まるで、周囲の風景に溶け込んでいるような様子。何となく、理由も無いのにカメレオンを思い浮かべた。
「……あんた、誰」
見覚えがある。だが、どこで見たかは思い出せない。
「俺は8組の上垣内遥輝。お前は1組の押切芽衣だろう?」
低く、抑揚のない声。
まるで感情が欠落しているかのような、機械的な喋り方だ。
その声を聞いた瞬間、押切の中で何かが弾けた。
「ウチはそうだけど……って、そんなことより今……8組の上垣内、だって?」
聞き間違いじゃない。確かにそう聞こえた。その名前には明確に覚えがあった。
「ああ、間違いなく。……俺は、上垣内遥輝だ」
聞き返すと、男はまるで自分に言い聞かせるかのように丁寧にその名前を再度口にする。
「……マジであんた、上垣内なんだ。そんな雰囲気だったっけ」
見覚えがあったのも、その名前を知っていたのも当然だ。何故なら、彼は入学式のあの日、指定席を取った英傑の一人なのだから。とはいえ、かなり風貌が変わっているように思える。
「こんな雰囲気だ」
上垣内はこう言っているが、記憶にある姿からはかなり変化していた。少なくとも、指定席確保者の姿を一度は拝んでいる押切が分からなかったぐらいには、だ。
まぁしかし、そんなことはどうでもいい。
「ふーん。まぁいいや。……で? あんたさっき、何だって?」
とにもかくにも、さっきの話を進めなくてはならない。
「手を貸すと言った」
「はっ、手を貸す? 急に現れてそんなこと言われても、『はい、お願いします』ってなるわけないでしょ。そもそもさぁー? あんた、ウチが何しようとしてんのか知らないわけでしょ? ……んなの怪しすぎるっつーの」
ハッキリ言って怪しい。怪しすぎる。
これはもしかしたら帝の……いや、野内の差し金かもしれない。
たしかに行き詰ってはいるが、こんないかにも罠の匂いがする蜘蛛の糸を掴むほど困ってもいない。耳を傾けるなんて選択肢はそもそもあるはずがなかった。
なので、ここから会話をして情報を掴まれでもしたら迷惑だと思い、押切は早々にこの場を立ち去ろうと上垣内に背中を向けた。
しかし――。
「千条文音の退学」
後方から飛んできたその言葉の内容に、思わず足を止め振り返る。
心臓が一瞬、大きく跳ねた。
「押切芽衣。お前は千条文音を退学させようとしている。……そうだろう?」
無表情だが確信めいた様子で上垣内は押切の目を覗いてきている。
上垣内が答えた押切の目的「千条文音の退学」。これは紛れもない事実だった。
どうしてそれが分かったのか聞きたいところだったが、話の進行を優先する。
「へぇー……それを分かったうえで、手を貸そうって?」
「ああ、そうだ」
淡々と。ただ「そうだ」とだけ上垣内は答えた。そこに熱意も無ければ善意もないように見える。肌感だが、この時点で警戒していたスパイのような類のものではないだろうと思えた。
「だとしたら……確かにあんたはマジで手を貸してくれるんだろうねー。……でもさぁー?」
真意を確かめるため、今度は押切が上垣内の目を覗き見た。
「あんたが何で手伝おうとするわけ? 何かメリットがあるようには思えないんだけど?」
手を貸してもらうことは有難い。しかし、肝心の理由についてが不明では上垣内の手は取れない。帝の時は野内の情報を餌に。宴の時は快楽を餌に手を貸してもらった。そうやって、人はお互いに利害関係があって初めて手を取り合えるのだ。だから、その点を問い詰める。
「それは、俺もその方が都合がいいからだ」
「……都合がいい?」
「ああ。その方が――千条文音を退学させた方が、野内蓮を攻略するのに都合がいい」
「!!?」
……今こいつ、なんて言った?
野内蓮を……攻略、だと?
それは押切からしてみれば、暴虎馮河、有勇無謀というやつだった――だが。
「く……くくっ……くくく……アハハハハッ!!」
挑むのが自分でないのならこんなにも面白いことはない。帝の時も思ったが、自分に関係がないのならむしろ歓迎すべきイベントだった。
「ハァーー……それ、いいねぇー。最高じゃん。まぁ、そーゆうことなら手を貸してもらおうかなぁー?」
押切の口元に、邪悪な笑みが浮かぶ。
「ああ、もちろんだ」
一方は満面の笑みで、一方は仏頂面。
そんなアンバランスな表情たちの握手が、その場で交わされる。
梅雨空の下、二つの影が重なり合う。
上垣内の手は冷たかった。まるで……生気を失った死体のように。




