第58話 押切芽衣という女
対策会議の翌日。
いつも通り、少しだけ余裕を持った朝の登校をしたサクだったが――。
「――文音ッ!!」
廊下を歩き1組の教室前を過ぎ去ろうとした、まさにその瞬間。視界の端に映り込んできた異様な光景に、思わず足を止めた。
今日は一日晴れだというのに――教室のど真ん中にある席へ座る文音の姿が、頭から足先までびしょびしょに濡れていたのだ。
まるでどこかの池にでも落ちてきたかのように、制服も髪も、すべてが水に浸かったみたく濡れそぼっている。周囲の生徒たちは、そんな文音を遠巻きに囲むように立っていた。だが、誰一人として手を差し伸べようとはしない。
ただ、遠くから眺めているだけ。
その光景が、サクの胸に鋭い怒りを呼び起こす。
「……ッ!」
サクは急いで文音に駆け寄ると、鞄からタオルを取り出す。そしてすぐに水に濡れて制服が透けてしまっている文音の肩に、できるだけそっと、それを掛ける。
「おい! 誰か説明しろ! どうしたんだこれ!」
教室を見渡しながら、声を荒げる。
しかし――誰もサクと目を合わせようとしない。視線を逸らし、足元を見つめ、あるいは窓の外に意識を向けて、この場から意識を遠ざけようとしている。
気にはしている。それは分かる。だけど、巻き込まれたくはないのだろう。
助けたときのメリットとリスクを無意識に天秤にかけてしまっているんだ。さらにいえば、助けたところで次は自分がそうなるかもしれないという恐怖もあるのだろう。
この教室の空気は重く、どこか息苦しい。
いじめが行われている場所に必ずというほど漂っている、あの嫌な空気感だった。
(くそッ!)
内心で唇を噛みしめながら、サクは周囲を見渡す。誰か一人でも、正直に話してくれる人はいないのか――と。
「はーい。それやっちゃったのウチでーす」
そんなとき、堂々と挙手をしながらサクへと近づいてくる女子が一人。
……押切芽衣だ。
サクは思わず眉をひそめた。
「ウチがうっかりトイレで足滑らせちゃってー。たまたま手に持ってたバケツひっくり返しちゃったんだよねぇー」
あっけらかんとした、大衆の面前での悠然とした無実の主張。その笑顔には、反吐が出るような作為が隠されているように見える。
「……うっかり? たまたま? 随分、ご都合な偶然だね。そんな言い訳が通用するとでも?」
「えー? ……何? うちのこと疑ってるわけぇ?」
押切は小首を傾げ、まるで無邪気な少女のような仕草をする。だが、その瞳の奥には冷たく邪悪な闇が感じられる。
「いや? 疑いじゃなくて……おまえがわざとやったんだろって言ってんの」
怒りから、らしくもない強い言葉が口から勝手に飛び出す。冷静さを失くしてしまいそうなほどに頭に血が昇っている。
サクは普段、こんな言葉遣いはしない。できるだけ穏やかに、できるだけ冷静に――それがサクの普通だった。
だが、今は違う。大切な友人が傷つけられている。それを見過ごすことなど、できるはずがない。
「アハハ! そりゃそう見えるかー。……でもさー、だとしても何? って感じなんだけど? どうしたらいいわけ?」
「……謝れ」
静かに、しかし確固たる意志を込めて言う。
「え? それだけ? ならもう謝ったんだけど?」
「文音に、土下座して謝れ!」
開き直られたことにより、完全に血液の温度が沸点を超えた。
サクの言葉は、自分でも驚くほど強かった。
今まで、こんな風に誰かに強く言葉をぶつけたことがあっただろうか。蓮や文音に対してさえ、ここまで感情的になったことはなかっただろう。
文音の肩に置いた手からは、震えがこれでもかといわんばかりに伝わってくる。まだ季節は6月。水に濡れた寒さからだろうか。それとも……。
……その理由を考えるだけでも腹が立つ。
文音は、こんな扱いを受けるような人間では断じてない。
「あー、そう? うん、土下座ねー、分かった分かったー。……じゃあそーゆうわけだから、ホントかどうか、確かめてみよっかー?」
「……?」
てっきりまた何か挑発的な態度を取ってくると思っていたが、あっさりと謝罪の要求を飲んだ押切はさらに不気味で楽しそうな笑顔を浮かべてそんなことを言い出した。
(どういうつもりだ……?)
サクは警戒する。
一口にホントかどうか確かめるなんて言っても、そう簡単に証明することなんてできないはずだ。
だって、当事者が文音と押切だけなのだ。それもトイレという密閉空間での出来事。すでに押切の言い訳はいくらなんでも無理があるわけだし、目撃者がいたとしてもこちらに分がある。だからこそ、何をするつもりなのかが全く分からない。
すると押切は、くるりと後ろを振り向くと何人かの女子に向けて喋り出した。
「ねぇ、ウチの言ってること……ぜんぶホントのことだよねぇー?」
「……ッ!!」
一体どうやって、なんてことを……このクズを相手にまともに考えている時点で間違っていたことに遅れて気が付く。
話しかけられた女子生徒たちは、一瞬だけ躊躇するような表情を見せる。だがすぐにその表情は消え、代わりに作り笑いが浮かんできた。
「う、うん。芽衣ちゃん……足滑らせてた」
「そうだよ。トイレの掃除しようとしてたんだよ? 芽衣ちゃんは」
「ていうかさ、もう謝ったんだしそこまで怒ることでもなくない? 別にただ濡れただけじゃん」
やり方は至って単純。
「頷けよ、じゃなきゃ次はお前らだぞ」という脅迫だ。
おそらく、普段から押切の取り巻きとして近くにいるだろう彼女たちがその威圧に勝てるはずもなく。
どこからどう見ても……誰が聞いても嘘であるその主張は、目撃者という第三者の証言を持って本当の事実となり果てた。
(こんなの……こんなの……!)
どうにもできない悔しさから、サクは爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめる。
「だよねぇー? ね? だから言ったじゃんー」
「……ッ! あぁ、そう。分かった。……じゃあもう、そういうことでいいや」
満面の笑顔でこちらに向き直った押切の目は、笑っているとは思えないほどに鋭くこちらを見ていた。背筋に怖気が走る。
こいつは……押切芽衣は、普通のいじめっ子なんかとは格が違うと悪い方向に評価を改める。
この女子は、ただ単に誰かをいじめて楽しんでいるわけではない。もっと計算高く、もっと戦略的に――人の心理を操り、周囲を巻き込み、逃げ道を完璧に塞いでいく。
そういう、恐ろしいまでの知性を持った相手だ、と。
「けど、次は……今度またこういうことがあったら、僕はお前を絶対に許さない。たまたまでも、だ」
サクは、今の自分にできる精一杯の警告を口にする。
「アハハ! 許さないって? 何されちゃうのかなぁ? ウチ、もしかして乱暴されちゃう感じー? キャー!」
押切の勝ち誇った声が教室に響く。
気が付けば登校してきた生徒で野次馬も増えてきていて、廊下でも別クラスの生徒が大勢足を留めていた。
言い返してやりたかったが、文音を注目から遠ざける意味でも早く保健室に届けたかったし、これ以上この場で戦うのは分が悪いと踏んだサクは撤退を決める。
「……文音、行こう」
そうして文音に声をかけ、肩を掴み立ち上がらせようとした――その時。
「あれ? 土下座は?」
「……は?」
押切から、意味の分からない言葉を投げかけられる。
突然の理解不能な展開に思考が追い付かない。
「だーかーらー、土下座だって。土下座」
「なんで僕が土下座しなきゃいけないんだよ、するわけないだろ。そんなの」
「え? 何でって……だって、さっきそーゆー約束したよね? ねぇー、みんなも聞いてたでしょー? 宴も聞いてたよね? ねぇ?」
「は? 僕はそんな約束――」
――してないけど、とサクが言い切る前に。
一人の男子生徒が大きな声を挙げた。
「たしかに! ……してたな!」
きっと、あれが宴と呼ばれた生徒なのだろう。
彼が何かに納得したように手を打つと、途端に周囲が騒めきだした。
「お、俺も聞いてたぜ」
「……うん私も。しかもさ、自分から芽衣ちゃんに言い出してたことない?」
「あいつ6組の島田だろ? 自分から約束させといてしらばっくれるのはねぇわな」
ざわざわと、やりとりを見ていただけの連中がこちらに矛を向けだした。その矛は無関心を貫いていた人たちを巻き込み、この場の空気を侵食していく。
(ッ!! ……くそッ!! やられたッ!!)
言葉巧みに、この空気になるよう話の流れを誘導されていたことに、ここでようやく気が付く。
実際は、サクはただ「文音に土下座して謝れ」と言っただけだ。
だが、その言葉を意識的に一言一句覚えている者などこの場には当事者であるサクと押切しかいない。周りのみんなは、なんとなくそういう内容のことをサクが言い出したよなと記憶しているだけ。
押切はそのことを理解した上で、全員の記憶を言葉と空気で塗り替えたのだ。土下座の命令ではなく、約束へ。
(こんな……噓だろ……!)
サクは愕然とする。これほどまでに華麗な人心操作を、リアルタイムで目の当たりにするとは思わなかった。
「…………げーざ…………どーげーざっ、どーげーざっ、どーげーざっ」
渋るサクを前に、周囲から手拍子と共に土下座コールが始まった。その熱気は段々と広がっていく。
それからすぐに、教室中の人間がただ何となくで手を叩き、後ろめたさを感じつつも小さな声で「どーげーざっ」という文言を口にしていた。
集団心理というものの恐ろしさを、サクは今、身をもって体験している。
「……サ、サクちゃん。ごめん、ごめんね、ごめん、本当にごめんね」
サクの手の中にいる文音は、びしょ濡れなのに泣いているのがよく分かる。
涙なのか、水なのか、それとも両方なのか――文音の頬を伝う水滴が、サクの心をさらに締め付ける。
こんな文音は見ていられない。いち早くこの場から遠ざけてあげたい。
「大丈夫、大丈夫だから。……文音は悪くない。これは僕の問題だよ、文音」
サクはできるだけ優しく、できるだけ安心させるように言葉を紡ぐ。
それにこれは、サクが押切の術中に嵌まってしまった結果である。文音に責などあるはずがない。
「ちょっとだけ行ってくるよ。それまで座って待っていて」
「サ、サクちゃん……?」
文音をもう一度席に座らせたサクは肩から手を離すと、押切の前へと膝をつく。
こうなってしまえばもう、解決策などもとより一つしかなく……。
文音を早く避難させるためにも、躊躇っている場合ではなかったので、覚悟はすぐに決まった。
「アハハハハハ!! 結構、思い切りいいじゃん! お前、可愛い顔してるのに性格は男らしかったんだねー」
跪いた状態なため、文字通り上から目線な押切の笑い声が降り注いできた。それには当然、腹の底から怒りがせり上がってきたが、苛立ちを見せてしまえば余計に調子づくだろうと考え、サクは平静を装う。
「ほら、さっさと謝罪しろよ! 『疑ってごめんなさい。僕が間違ってました、反省してます』って感じでな? そんで、土下座ね、はい早く」
「……疑って、ごめんなさい」
言われた通り、謝罪の言葉を口にしていく。周囲の生徒たちはサクの謝罪を聞くためだけに声を静め始めた。
後ろからは「サクちゃん」と名前を呼びながらすすり泣いている文音の声が聞こえる。その声が、サクの心を引き裂きそうだ。
……あと、もう少し。
もう少しで、文音をこの空間から避難させられる。
だから……。
だから、土下座する場面を見るのはしんどいだろうけど、どうか心を壊さず、耐えてほしい。
そんな願いを込めながら、言葉を続けようとした――その時だった。




