第6話 自己紹介は基本的に失敗する
「野内藍です。これから1年間、よろしくお願いします」
パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ――。
教室に鳴り響く拍手の熱量は、ただの自己紹介とは思えなかった。
いや、もはや拍手というより歓声に近い。
窓ガラスがビリビリと震えているような気さえする。
「まじ?あの子やばくね」
「うち霞むんだけど……」
「まぶしっ、纏うオーラが光ってるよ!」
「Love!」
まるでステージに降り立ったアイドルの登場シーンのように、全員の視線が一点に集中している。
男子も女子も、例外なく釘付けだ。
そのスポットライトを浴びているのは先程俺——野内蓮の彼女になった野内藍だ。
交際成立からわずか5分。たったの5分で、俺の中の彼女の株は暴落を続けている。
まるでバブル崩壊後の不動産価格みたいな感じで下落の一途を辿っているが、クラスのテンションは逆に天井知らずで上昇中だ。
バブル絶頂期もかくやという盛り上がりを見せている。
やはり、美は正義ということだろう。
藍の佇まいは、確かに非の打ち所がない。
黒髪は絹のような光沢を放ち、制服の着こなしも完璧。
背筋をすっと伸ばした立ち姿は、まるで何かの広告に出てきそうなモデルのようだ。
全く、どいつもこいつもその内面を考えようともしない短慮な奴らだ。
……なんてことは、外見だけに見惚れて速攻で告白した俺が言えることではもちろんない。
むしろ俺が一番の短慮野郎だった。
「はいはーい、皆ー静かにねー。次の子、自己紹介よろしくねー」
10組の担任になった若い女の先生が、湧き上がったフロア(教室)を軽い調子で窘める。
茶髪をポニーテールにまとめた、どこか頼りなさそうな雰囲気の先生だ。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。新任教師かもしれない。
そして、次の自己紹介は――俺の番だ。
(ここが勝負どころだ。絶対に目立つなよ、俺……俺は、何としてでも、普通の学園生活を送るんだ!)
まだ公表するつもりはないが、入学早々に彼女ができたという事実だけでも十分すぎるほど目立つ要素なのに、これ以上心配の種を増やすわけにはいかない。
……まぁ、あれは俺が告白したから完全に自業自得だと思うけど。
しかし、そうだとしたら普通の学園生活を送りたいという俺の切実な願いを叶えるためには、尚更にここで地味な印象を植え付けておく必要があるのは事実だった。
そして、俺はゆっくりと席を立つ。
周囲の視線が俺に集まってくるのが分かる。
藍の自己紹介の余韻がまだ教室に漂っている中、俺は深呼吸をした。
そうして息を整える。
まるで時限爆弾の前で赤いコードか青いコードか迷うような心持ちだ。
いや、もっと言えば、どちらを切っても爆発するような気がしてならないって気持ちまで全く同じだ。
俺も、覚悟を持って挑まなければならない。
(ふぅーー…………よし、行くか)
「あ、あー、野内蓮です」
よし、良い感じだ!
いつもならもっと堂々としている(だけの)俺だが、声が若干震えている平凡な感じに装ってみた。
「趣味も特技も特にないです……」
ここで一瞬間を置くと、教室の空気が微妙に変化したのを感じる。
藍の華やかな自己紹介の後だけに、このギャップは非常に効果的だ。
「何の面白みも……何の!面白みも!趣味も!特技も!ない男です!」
声を少し大きくして、自虐的なトーンを込める。
数人からクスクスと笑い声が漏れた。いや、あれは嗤い声だろう。
ならば狙い通りだ。
「そこだけは、どうか覚えておいてください……いや、やっぱり覚えなくて大丈夫です。むしろ忘れてください、今すぐに。以上です」
………………………………パチパチパチ…
拍手は疎らで、明らかに同情的なものだった。
(完璧だ……完璧すぎる……やり切ったーーー!!)
ミスが出来ないプレッシャーから少し緊張したが、なんとかやり切った。
本当は、趣味は料理をすることだ。
特技は運動全般で、中学時代は陸上部と水泳部を掛け持ちしていた。
それに、少しだけユーモアを交えた会話が出来る男だが、今はそんな情報は必要ない。
これこそが俺の作戦——”負のプロモーション”戦略だ。
目立たないこと、平凡であること、印象に残らないこと。
今はそれらが何よりも重要だった。
結果的に、目立たず終われたはずだし俺にしては珍しく大成功と言えるだろう。
藍が事前に教室を盛り上げてくれたおかげもあって、なおさら地味になった。
よかったよかった。
無事に終わった自分の自己紹介に満足し、さっさと席に座ろうとした――のだが。
その瞬間。
「……?」
席が、引けない。
いや、正確には椅子が動かない。
まるで床に接着剤で固定されているかのように、ビクともしない。
おかしい、俺の椅子は確かにここにあるはずなのに――
そう思って視線を下に向けると、前の席の藍が俺の椅子を左手でがっちりと抑えていた。
その細い指が、俺の椅子の背もたれをしっかりと掴んでいる。
見た目の華奢さとは裏腹に、その握力は相当なものらしい。
俺が引こうとしても、椅子は微動だにしない。
「な、なんでしょうか」
周りに気づかれないよう、小声で藍に問いかける。
俺の声は若干震えていた。
……だって、嫌な予感がしたから。
……やめてくれ、俺に恥をかかせないでくれ。
お願いだから、今すぐ手を放してくれ。
一体こいつは何の目的で俺を立たせたままにしているんだ。
まさか、さっきの自己紹介が気に入らなかったのか?
それとも、もっと何か言わせたいことがあるのか?
こちらの問いかけには答えず、返事の代わりに藍はそっと右手を広げ、俺の机の端に小さなメモを置く。
『野内藍と野内蓮は交際していると、自己紹介の場で宣言すること』
――正気か。
……いや、正気じゃないだろ。
ここで交際宣言だなんて、どう考えても爆弾投下だ。
入学式も終わっていないこの瞬間で、だぞ……
城才学園は全国から人が集まってくる。
北は北海道から南は沖縄まで、優秀な(そして変わった)生徒たちが集結する場所だと言われている。
そのため、入学早々にクラス内カップルなんてまずいない。
みんな、まずは友達作りから始めるのが普通だ。
ここで交際宣言なんてしたら――
“1日足らずで超絶美人を口説き落とした伝説の男”認定まっしぐらだろう。
下手をしたら新入生間のSNSでも話題になりかねない。
俺の想定では、1週間から1か月ほどはグレーな関係を装い、うまく噂を流す予定だったのに……
「なんか仲良さそう」「もしかして付き合ってる?」くらいの曖昧な状態を保ちながら、徐々に既成事実化していく作戦だった。
にもかかわらず、この人は今ここで俺に宣言させようとしている。
絶対に無理な話だ。
これは俺の負のプロモーション戦略の邪魔にしかならない。
何とかなればいいのだが……
「あ、あのさ、ちゃんと公表は後でするからさ……な?分かるだろ?」
必至に説得を試みる。
俺の額には玉汗が浮かんでいた。
「今はまずいって。変な噂とか立っちゃうかもしれないし」
しかし、藍は微動だにしない。
まるで彫像のように椅子を抑え続けている。
「な、なあ?藍にそんな噂は似合わないよ。”初日から男と付き合う軽い女”なんて言われたら嫌でしょ?ねぇ?」
俺なりに、ダメな理由を理論的に説明してみる。
それでも藍の表情は変わらない。
「だからこの手、放してくれない?……お願い、マジで頼む……!」
もしかしたら、からかっているだけなのかもしれない。
もしかしたら、ただのお茶目さんなのかもしれない。
もしかしたら、俺の反応を楽しんでいるだけなのかもしれない。
もしかしたら――――なんてことは無かった。
藍は俺の言葉など聞こえていないような顔で、無言で俺に指示を飛ばしてきている。
その瞳はまるで、「早くしろ」と言っているようだった。
圧力が凄い。
「えっとー……野内君?どうしたの?まだ何か皆に言いたいことあったの?」
いつまでも座らない俺を不思議に思い、担任の若い女教師がそんなのんきなことを聞いてくる。
先生の声は明るく、まるでこの緊迫した状況を理解していないようだった。
藍の手が椅子を抑えているのは丸見えだろうに、そのことに言及する素振りは無い。
自己紹介が終わり散らばっていた視線が俺に集まってくる。
何事かとこちらを見てくる好奇心に満ちた眼差したちが、立ち往生している俺のことを射抜く。
(もう無理!!………ここで交際宣言をして目立つくらいなら、藍の手を振り払ってでも座ってやる!)
俺の決意は固まった。
絶対にここで宣言はしない!
「い、いえ、なんでもないですー。はははっ」
俺の乾いた笑い声だけが教室に響く。
「あの、ほんとつまらないやつなんで俺ってーははは」
最後に、少し目立ってしまったかもしれないのでイメージダウンのアピールも忘れない。
こんな状況だというのに、我ながら涙ぐましい。
(くっ……頼む、椅子を返してくれ。俺の平穏な学園生活のために!俺の普通の青春のために!)
――ガチャガチャ。
小さな音が響く。
俺は姿勢だけは座るふりをしつつ、なおも藍との静かな攻防を続ける。
椅子を引こうとする俺と、それを阻止する藍。
傍から見れば、きっと俺が椅子に座れない不器用な人間にしか見えないのだろう。
周囲の視線が痛い。
まるで針で刺されているような感覚だ。
「あの子とあいつ、なんか仲良くね?同じ中学とか?」
「なんか席座らないね、やっぱなんか言いたいことあるんじゃない?」
「いや、席つっかえてるだけじゃね?」
ガヤガヤと、囁きが広がっていく。
教室が騒めき始めた。
――もうだめだ。さすがに何かしないと座らしてくれない。
一発芸でもしてごまかそうか……いや、それも悪目立ちか。
歌でも歌おうか……いや、それはもっと目立つ。
なら、倒れたふりを……ってそれは大騒ぎだな。
そうやって、どうしたものかと無い頭を必死で回転させていたのだが、
そんな俺の必死の抵抗に観念したのだろうか。
何と藍がようやく椅子から手を離してくれた。
解放された瞬間、訳も分からず俺は勢いよく椅子を引いて座り込んだ。
「あ、いや、なんか椅子がつっかえてたみたいで。すみません……」
適当な言い訳を並べ、そそくさと着席する。
椅子のことをこれほど愛おしく感じたことはない。
恐らく今後もないだろう……多分。
(………ああ、助かったああああ!!)
いや、微妙に注目を浴びてしまったが、交際宣言よりは傷は浅い。
ギリギリの勝利だ。ギリギリだけど。本当にギリギリだけど。
それに藍も最終的にはなんだかんだで分かってくれたようだし、今後の交際も全力で駄々をこねれば意外と折れてくれるのかもしれない。
これはいい教訓になった。
「ふう……なんだよ、分かってくれたならもっと早く手をどけてくれてもよかったのに」
小声でぼやくと同時に安堵の息が漏れた。
てっきり藍はもっと責めるような顔をしてくるかと思っていたが、振り返った彼女の表情は、意外にも少しだけ申し訳なさそうだった。
不思議と、この瞬間だけは告白前に感じた印象に近いなと感じる。
「まさか、ここまで抵抗してくるとは思ってなかったの」
藍の声は、先ほどまでの高圧的なトーンとは違い少し柔らかかった。
「その……今のはさすがに無理矢理すぎたわ、ごめんなさい。」
告白したあとの、高飛車で傲慢な野内藍は、どこへやら。
目の前にいるのは、少し反省している様子の普通の女の子だった。
そのせいか、俺の焦りもすぐにおさまり、怒りもまったく湧いてこない。
しっかりと小言を言わねば気が済まないと思っていたのだが、思わず俺も素直に返してしまう。
「……え?ああ、いいよ別に。約束は約束だしな、ちゃんと守るよ」
タイミングが俺にとって悪かっただけで、交際を宣言するにはもってこいの場だったのは確かだし、こいつもここまで俺が嫌がると思っていなかったのだろう。
それ以上責める気にはならなかった。
「そう、ならいいのよ……」
藍は少し安堵したような表情を見せる。
「ちゃんとやるのよ、ちゃんと」
最後に念を押すようにそう言い残し、藍は前を向いたのだった。
――――しかし、その後ろ姿を見ていると、俺はつい思ってしまう。
この先の学園生活、一体どうなることやら、と。
蓮「生きた心地がしない……」




