第56話 交際三か月目の大騒動
「…………」
登校直後、衝撃の試験一位獲得を知らされた俺――野内蓮は今、能面のごとく無の表情で自分の席に座っている。その理由は、全ての謎を解いてくれるだろうキーパーソン――本庄彼方が教室にいなかったからだ。
周囲からはこちらの様子を窺うような視線が飛ばされてきている。
(…………)
頭の中は真っ白だ。いや、正確には真っ白にしている。考えるのを放棄している。
満点。
千点満点中、千点。
完璧な点数。完全なる勝利。
――完全なる、計画の破綻。
俺が望んでいたのは、帝に負けることだった。それでペナルティとして藍と別れることになり、晴れて自由の身になれるはずだった。レティという心に決めた女性に堂々と接近できるはずだったんだ。
なのに……。
(なのに、何でこんなことに……)
クラスメイト達の視線が痛い。
まるで、何か凄いことをやってのけた英雄を見るような目だ。あるいは、化け物を見るような目とでも言うべきか。どちらにしても、居心地が悪すぎる。
無視だ、無視。
だって……俺だってわけが分からないんだから!
「あ、あの……」
そんな折、前の席から遠慮しがちに声を掛けられた。一応、俺の彼女である野内藍だ。ゆっくりと視線を動かし、無言で目を合わせる。応答の代わりに、だ。
今は、声を出す気力すらない。
「…………正直、驚いているわ。思考が追い付かないくらいに」
藍の声は、いつになく柔らかく小さい。
普段の、あの棘のある物言いとは明らかに違う。
どこか、困惑と……それから、少しの後悔のようなものが混じっている気がする。
あ、ちなみに驚いているのは俺もだよ?
「もちろん、点数のこともそうなんだけど……その……てっきり、あなたはわざと勝負に負けるつもりだと思っていたから」
そのつもりだったよ?
「だから、その……謝らせて欲しいの」
藍の声が、さらに小さくなる。
「あなたが何を考えているのか、とかはやっぱりまだ分からないんだけど……その、私はあなたに酷い態度を取って来たから」
うん? ……え?
「だから、今までの態度も含めて……ごめんなさい」
そして藍は、意を決したように謝罪をした。
その姿は、今まで見たことのないものだった。
冷たく、突き放すような態度を取り続けていた藍が、こんなにも素直に謝っている。
(……マ、マジか)
これは、俺の知っている野内藍じゃない。
別人だ。絶対に別人だ。
「これは言い訳でしかないけれど、私はあなたからの好意がずっと偽物だと思っていて……」
藍の言葉が滔々と頭に流れ込んでくる。
「それで……あんな態度を取ってしまいました。本当に、ごめんなさい」
しまいには、言葉が敬語になったばかりか頭まで下げだしてしまった。
……ダメだ。
驚きすぎてもう、何も考えられない。
満点という特大の爆弾を食らってしまった直後にこれだ。頭などとうの昔にクラクラとしている。返す言葉も見当たらない。
「……あ、あと……私は、私が……その、あなたと交際したのも、実は、ちょっとした嫌がらせのつもりだったの」
ちょっとした? あれが? はは、藍も冗談が上手くなったじゃないか。
「だけど……今度はちゃんと……ちゃんと、あなたの気持ちに応える努力をするつもりだから」
藍が、顔を上げる。
その頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
「だから、その……」
呆然としている俺の前で、藍が顔を赤らめながら口籠る。何とも初々しい表情をしている。
(――な、なんだ? 今度?)
その姿を見た俺は、あまりハッキリしていなかった意識を無理矢理に引き戻した。
そして、本当に今俺の前にいるのはあの野内藍なのだろうかと疑いの眼差しを向ける。
だってそうだろう。おかしい、おかしすぎる。
だって……可愛すぎるのだ。
いやまぁ、たしかに元々見た目は超一級美少女だったわけだけども、何か……いつもより可愛い気がする。うん、やっぱり可愛い。
恥じらう姿など可愛すぎてもはや目に毒だ。直視は危険だろう。心臓に悪い。
(おっと!……いけないいけない)
ここで、思わず見惚れてしまっていた自分に気が付き喝を入れる。
俺にはレティという心に決めた女性がいるではないか。危うく目移りしてしまうところだった。
いかんいかん、浮気はダメだぞ野内蓮。
そして、少しの間だけ黙り込んでしまった藍だったがようやく口を動かし始める。
目には、まるで何か大きな決断をしたような、そんな強い光が宿っていた。
「私は、あ、あなたの……か……彼女として! き、今日から、ちゃんと、するから……」
藍の声が、震えている。
緊張しているのか、それとも恥ずかしいのか。
多分、両方なんだろう。
「だから……その……よ、良かったら……このまま私と、交際……してくれ、ないかしら……」
最後の言葉は、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。
でも、確かに聞こえた。
藍が。
俺に。
改めて交際を申し込んでいる。
それも、嫌がらせではなく、おそらく本気で。
ふむふむ、なるほど……。
(そう来たか……)
至って冷静に、藍の震える唇を眺めながら俺は心の中で頷いてみせる。
……え? 何で冷静なのかって?
うん、何でだろうね。
多分、今日はもう俺のキャパシティが限界なんだよ。
だって、帝との勝負に完勝してしまったんだよ?
それはつまり、散々練ってきた計画が全部パーになったってことなわけで。
今の俺はいわゆる、無敵の人状態ってやつなんだろう。何が来ても怖くないよ、今ならね。
だって、もうここから失うものなんてホントにないんだから。
計画は破綻したし、唯一の希望である彼方は行方不明だし、周囲からは天才扱いされるし……。
――てなわけで、これをどうしようかってことなんだけど。
(断れる空気じゃ……ないしなー……)
妙に静かな10組の教室を全身で感じ取る。明らかにこちらのやりとりに集中している空気感だ。教室中の視線が、俺と藍に注がれている。まるで、何か運命的な瞬間を見守っているかのような、そんな神聖な雰囲気すら漂っている。
こんな状況で、断れるわけがない。
ここで断りでもしてみろ。今後高校三年間、俺はずーっと全女子の敵となってしまうだろう。
……それは嫌だ。藍と付き合うのももちろん嫌だけど、そっちも嫌だ。
なら、だ。俺が言うべき答えは一つしか残されていない。どっちも嫌なら、元の状態にしておくままのが幾分か面倒も減るだろうから。
「…………ああー……うん、じゃあその……改めてよろしく」
だから俺は――あの入学式の日みたいに、藍へと手を差し出した。
自分でも驚くほど、自然に。まるで、何の迷いもないかのように。自動操縦みたいな感じだった。
藍が、驚いたように目を見開く。そして、ゆっくりと、恐る恐るといった様子でその手を握り返してきた。
ひんやりと冷たく、細い手。
女の子らしいじゃないかと思った、その瞬間。
ドワッ!と教室の空気が縦に揺れた。
「「「キャァァァアアアーッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!」」」
耳をつんざくような黄色い悲鳴が教室中に響き渡る。女子たちの歓声だ。口々に祝福の言葉が飛び交っている。
教室全体が、まるでお祭り騒ぎのような雰囲気に包まれていた。
「ああ、入学式にもこんなことあったなぁ……」
なんてことを考えながら、俺はそっと――目を閉じた。
そして――。
スベスベな藍の手を握りながら……教室の悲鳴に意識を集中させながら……こう、思うのだ。
ああ、もう――。
(ぜーんぶ、どうでもいいか!)
――と。
もう、この先のことも、今のことも、とにかく何も考えたくない。
天才くん扱いは今後、ますます加速するだろう。
これからどうなるのかなんて、想像するのも恐ろしい。
でも、もういいや。考えるのをやめよう。
どうせ俺が必死に何かを考えたところで、今回みたいにどうにもならないんだから。
計画も、期待も、希望も。
全部、投げ捨てた。
もう知らない。
勝手にしてくれ。
野内蓮、完全降伏だ。
――こうして俺は、入学三か月目にして、思い通りにならないおよそ全てのことを諦めた。
蓮「……よーし!」




