第55話 虎、立つ
6月4日、火曜日。
私立城才学園高校・『進学期試験』――2日目。
天気は雨。
1年1組の教室にて――。
外の雨音が教室に静かに響き渡る中、文音は試験開始を告げるチャイムが鳴るのを待っていた。
一限の試験は、英語C。
生まれたときからアメリカにいた文音にとって、英語なんて母国語と同じようなもの。ハイスコアを取るのは朝飯前――のはずだった。
けれど。
「ッ!!」
試験開始直前、手元の参考資料を開いた瞬間、文音の時間が一瞬だけ止まった。
真っ黒だった。
手元にあるのは、持ち込み用の参考資料――だったもの。
あれだけ時間をかけて丁寧に書き込んだ文法の数々が、すべて黒いマーカーで徹底的に塗りつぶされている。細かい用例も、構文も、重要だと思って赤線を引いた部分も、何もかもが真っ黒な闇に飲み込まれていた。
(いつ、の、間に……)
思考が追いつかない。
心臓が早鐘を打つ。
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。
けれど、ここで動揺を見せるわけにはいかない。必死に呼吸を整えながら、自然な動作で視線を左前方の席へと向けた。
そこにいるのは、入学当初から文音にやたらと絡んでくる女子生徒――押切芽衣。
彼女はテスト前だというのに、緊張感など全く感じられないような満面の笑みで周囲と談笑している。
けれど、確かに文音は見た。
一瞬。ほんの一瞬だけだったけれど、チラとこちらの様子を窺ってきた彼女の仕草を。その瞳に宿っていた、愉悦とも勝利とも取れる光を。
押切芽衣。
クラスの中でも特に目立つ存在で、指定席の獲得者ということもあり、いつも取り巻きを引き連れている。
彼女の周りには常に笑い声が絶えず、一見すると人気者だ。
でも、文音にとっては全く違う存在。
あの笑顔の裏に隠された、冷たく醜い本性が垣間見えるからだ。
(ッ!! ううん……大丈夫、大丈夫……今はテストに集中しなきゃ、だよ)
だからといって、証拠などあるわけでもないし、今から彼女のことをどうこうできるはずもなければ、するつもりもない。第一、試験監督の先生に訴えたところで、信じてもらえる保証はどこにもない。
それに――これが英語で良かった。
そう思えるだけの余裕が、まだ文音にはある。
英語なら文音の地頭だけで八割は取れるはずだ。
元々この参考資料は細かい文章表現やイディオムを確認するためのものだったし、無いなら無いで何とかなる科目である。
これがもし、国語科目のテストだったらと思うと背筋が凍る。
本当に……英語で良かった。
だけど、次はどうする?
明日も、明後日も、この嫌がらせは続くのだろうか。
教室の空気が重く感じられる。雨音だけが、無機質に時を刻んでいく。
キーンコーンカーンコーン――。
チャイムが鳴り響いた。
「それでは、試験を開始します」
監督の先生の声。
文音は答案用紙に目を落とし、シャープペンシルを握りしめた。
大丈夫。
文音は……自分は、もう負けない。
◇
6月10日、月曜日。
「おはよーう? 千条さーん。ねぇねぇ、テスト。どうだった~?」
朝の下駄箱で、押切芽衣が明るい口調で話しかけてきた。
ニコニコの……満面の下卑た笑みを浮かべている。
性根から、そっち側の人種であることを物語っている人相だった。
「おはよう、押切さん……私はちょっと、上手くいかなかったかも」
「えぇー? そうなんだー? 千条さん頭いいのにねぇー? やっぱり難しかったもんねー、あのテスト」
「……うん」
白々しくも、隠すつもりが一切無いこの態度。
誰がやったのかなんて考えるまでも無いくらい、堂々とした犯行だ。
あの後、結局試験5日目まで嫌がらせは続いた。
参考資料を狙われたり、文房具を狙われたり、はたまた答案に書いた名前が消されていたり……。
そのどれもを誰にも指摘されず行っているのだから、筋金入りの超エリートいじめっ子だ。
素直に、その手腕だけは凄いと思う。まったくその行動に理解は出来ないけれども。
「あ、結果張り出されてんじゃーん。見に行こっかー、千条さん?」
「……うん」
クスクスと、嫌な笑い方をする。
彼女にとって、これはただのテスト結果などではない。嫌がらせの結果発表も兼ねているのだろう。成果を確認し、文音の反応を楽しむための舞台。
だから、こうして文音と偶然下駄箱で会ってしまったのだ。
――Tiger!
文音は彼女の後ろを歩きながら、「虎」と呼ばれていた過去の自分を思い出す。
たまたま、中学では”天才くん”とサクちゃんが傍にいたから良かったものの……考えてみれば、日本に来ても虎は虎のままで。
高校でもまた、同じことが繰り返されようとしている。
まったく情けない話だ。
何が【習得の天才】だろう。
どれだけ言語を習得できても、技術を習得できても、これっぽっちも本質の部分が成長していない。相変わらず、虐げられる側の人間のまま。
だから、文音は決意したのだ。
この問題は――今回だけは、絶対に”天才くん”抜きで切り抜けて見せると。
いつまでも頼ってばかりじゃダメなんだ。
成長しなきゃならない。強くならなきゃならない。
そんな気持ちを奮い立たせ、張り出された試験結果を強く見る。
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『城才学園高校・本年度第一回 進学期試験 結果』
1位:言峰星海 1000点
1位:野内蓮 1000点
3位:帝友恵 954点
:
:
52位:千条文音 766点
:
:
201位:押切芽衣 478点
……(以下、成績一覧省略)……
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――総合点数766点、順位52位。
文音にとってはかつてないほどに低い点数。
けれど、今回ばかりはそういうわけでもない。
(やった……!!)
心の中で、小さくガッツポーズをする。
何せ、初日以外全ての科目に大小様々な嫌がらせがあったのだ。
第一に赤点を回避するのが最優先で、高得点を狙うことなど出来ているわけもなかった。
それでも、この天才学園で52位。
退学にならずに済んだという安堵と共に、嫌がらせに屈しなかったという勝利感から身体の緊張が解ける。
「……はぁ?」
一方。
やや文音の前にいる彼女はすこぶる機嫌が悪くなっている。
先程までの愉快そうな表情はどこにも見当たらない。眉間に皺を寄せ、唇を噛みしめ、明らかに不機嫌な空気を発している。
「何でそんな点数取れてんの?」
淡々と、こちらへと冷酷な声を飛ばしてくる。
こういう……所謂"いじめ"を生きがいにしているような人たちは、声色が似てくるのだろうか。
アメリカや中学で文音をいびってきた者たちと同質で、聞きたくもないのに聞き覚えのある声だった。
「何でって……勉強したからだよ」
できるだけ平静に答える。
挑発するつもりは、まったくない。
「は? え、何? 勉強しても点数が取れなかったウチのこと、バカって言いたいわけ?」
「いや、そうじゃなくて……」
「そうじゃないなら、何?」
高圧的に、言うこと全てに突っかかってくる。
圧が強くて、猫に追い詰められた鼠のように身体が縮こまってしまう。背中に嫌な汗が流れる。
「た、ただ。私が勉強、得意、だから……」
言葉が、途切れ途切れになる。
「アハハ……ウザッ。やっぱ、ウチのことバカにしてんじゃん」
「……!!」
まったく挑発などしているわけではないのに、何を言ってもそっちの方向へと持っていかれる。
まるで、最初から結論が決まっていたかのように。
「ウチ、先行ってるわぁー。お前も早く来いよ? みんなでお喋りしたいしねー」
「……うん」
呼び方が、変わった。
「千条さん」から「お前」へ。
その意味が分からない文音ではない。
今までの軽い嫌がらせ程度だったものが、これから本格的なものへ変わるという予兆だ。本番の始まり。
(始まる、んだ……)
人混みの中を掻き分け去っていく彼女の姿を見送った文音は、結果一覧の上にある「1位 野内蓮」という名前を見て、小さく拳を握りしめる。
「天才くん……頑張ってみるよ、私」
もとより、サクちゃんと天才くんとは別のクラス。
1年1組で文音は一人なのだ。だから、文音が一人で対処するしかない。クラスの中に、天才くんたちのように頼れる友達はまだいない。
恐い。
正直に言えば、すごく恐い。
また、あの地獄が始まるのかと思うと、足が震える。
恐いけれど、立ち向かう勇気は天才くんとサクちゃんに既に貰っている。
二人が傍にいてくれたから、中学は楽しい学校生活を過ごすことが出来た。
二人の優しさが、文音を「虎」から「人」にしてくれた。
だから大丈夫。
たとえ教室に一人でも、学校には天才くんとサクちゃんがいる。
それだけで、十分強くなれる。
文音は深呼吸をして、教室へと向かった。
――降ってもいない雨音を背に、新しい一週間がこうして始まる。
文音「……よーし!」




