第54話 その虎は雨と鳴き雨に泣く
「つ~よい~、つ~よい~、は~んし~んタイガ~ス~♪」
お父さんが見ている日本の野球中継から聞こえてくる応援歌。
球場全体が一つの楽器になったかのように……いや、そんな綺麗なものではないけれど、とにかくその場にいる全員が本気で叫び歌っているのがよく分かる、その力強い歌のことが、意味は分からずとも昔から文音は好きだった。
テレビの画面には、黄色と黒の縦縞のユニフォームを着た選手たちが映っている。
お父さんは週末になるとよくこの試合を観ていて、文音はその隣で宿題をしながら、あの独特な応援歌だけはいつも耳を傾けていた。日本語の意味は分からない。でも、あの熱量だけは、言葉を超えて文音の心に響いてきた。
「Tiger!」
虎。
アメリカにいたころの文音のあだ名。
発端は文音の持っていた球団グッズに虎の絵が描かれていたこと。
それを見た同級生たちが、文音のことを「Tiger」と呼び始めた。
最初は――最初のほんの数日は、それはただの愛称のようなものだった。
「Hey, Tiger!」
そう呼ばれて、文音は嬉しかった。自分にもアメリカでのあだ名ができたのだと思った。
けれど、それは違った。
その呼び名は次第に、別の意味を帯び始める。
「Stop! It hurts!(痛い! やめて!)」
虎と言って、周りは物を投げつけてくる。
消しゴムが、小石が、時には教科書が飛んでくる。
「Tiger! Tiger!」
虎。
相手が猛獣ならばこれは暴力でも何でもないと言わんばかりの攻撃。
それはきっと、文音が学校で唯一の日本人だったからという理由で始まったものだったと思う。
アジア人。見た目が違う。髪の色も、目の色も、肌の色も、違う。
――それだけで、文音は「虎」になったのだ。
人間ではなく、獣として扱われるようになった。
教室では誰も隣に座ってくれなくなり、休み時間になると文音は一人で本を読むしかなかった。
昼食の時間も一人。体育の授業でチームを組むときも、文音は最後まで余る存在だった。
そしてポツリと一人で帰る、いつもの帰り道。
頻繁に、灰色の空からは冷たい雨が降る。
傘を持ってくるのをよく忘れる文音は、ずぶ濡れになりながら歩くことが多い。
誰も助けてくれないし、自分でどうすることもできない。
先生はいつも気だるげで、注意はしてもそれしかない。
そんな自分の状況が、心境が、やけにその雨風景と同化してしまっていて――。
「School……I don’t wanna go anymore……I just wanna die……(学校……もう、行きたくないなぁ……死にたい、なぁ)」
雨に濡れた虎はいつもいつも――そうやって静かに鳴いて、鳴いて……泣いていた。
◇
そして文音は中学からは日本の学校へと通うことになる。
お父さんとお母さんが異常に気付いていたからだ。
「ごめんね、文音。もう無理はしなくていいんだ」
お父さんの目には涙が浮かんでいた。お母さんは文音を抱きしめながら、何度も何度も謝っていた。
無理をするなと言った父は、きっと相当な無理を言って日本の支部へと戻してもらったのだと思う。
すべては文音を、平穏な日本の学校へと通わせるために。
文音は嬉しかった。
やっと、やっとだ。
やっとこの苦しみから解放される。
お父さんとお母さんの出身国であり、自らのルーツが存在するその国に。
大好きな野球の応援歌が流れるあの国に。
虎ではなく、人間として扱ってもらえるはずの国に。
やっと、行けるのだから。
中学入学の前日、文音は新しい制服を着て鏡の前に立った。
真新しい紺色のセーラー服。
アメリカの学校とは違う、日本独特の制服。
これを着れば、文音もみんなと同じになれる。
そう信じていた。
――だけど、そんな目論見は、あっさりと外れることになる。
「えー? 千条さん靴はぁー? 靴下じゃん、バッチー」
「…………」
中学入学後、およそ3日でソレは再び訪れる。
意味はまったく分からないが、アメリカで受けていたものと同質の、人間の嫌な部分だということはハッキリ分かった。
三人の女子生徒が、文音の目の前に立っている。靴はきっと、彼女たちが隠したのだろう。
「は? え、何その顔。まさか、うちらが隠したって言いたいわけ?」
リーダー格の女子が、腕を組みながら見下ろしてくる。
「…………」
「おい、何とか言えよ、ブス!」
文音を責め立ててくる彼女らは、人目に付かない廊下の突き当りで壁を思い切り蹴りだした。
ああ、また始まったのだ。
アメリカと同じように。
日本に来たというのに。
日本人なのに。
それなのに、また――。
「……ゴメンナサイ」
「ぷっ! ……アハハハハハ! ねぇ、聞いた皆? ゴメンナサイ……だってぇ!」
彼女たちの笑い声が耳に刺さる。何を言っているのか分からない。
文音の両親は日本人だったのだが、アメリカで生活が難なくできるようにと日々英語での生活が徹底されていた。
そのせいもあり、文音は全く日本語が喋れない。
「ありがとう」「こんにちは」「さようなら」「ごめんなさい」。
それくらいしか、文音の語彙にはない。
「謝って済むなら警察は要らないんだよぉ? 千条さん?」
彼女は、明らかに何かを楽しんでいた。
文音の反応を見て、面白がっているのだ。
「……ゴメンナサイ」
だから、謝る。
それしかできない。
そして、廊下の奥の方を盗み見る。
いくらここが人目に付きにくいとはいえ、何人か人は通っている。制服を着た生徒たちが、チラチラとこちらを見ながら通り過ぎていく。
だけど、ここでもまた、誰も助けてくれない。見て見ぬふりをしていくだけだ。
何処に行っても変わらない。アメリカでも、日本でも。結局、文音は一人なのだ。
そんな諦観を、文音は中学一年生にして覚えてしまいそうになった――そんな時だ。
「あっ! ……やっと見つけた。おーい、千条ー」
向こうから、走ってこちらへ駆け寄ってくる男子生徒が一人。
彼は短く切り揃えられた黒髪で、息を切らしながらもどこか余裕のある表情をしていた。
「チッ……誰だよ……って、あれ。あいつって確か……」
邪魔が入ったことにより、文音に対して行われようとしていた陰湿な行為が一旦止まる。
皆がその男子の方を見ていた。
「もかちゃん……あれ、野内くんだよ。ほら、昨日学級代表になってた」
取り巻きの一人が、小声でリーダー格の女子に耳打ちする。
「あー、そうだ野内だ。道理で見たことあると思ったわ」
「かっこいいし、運動もできるから小学校で人気だったんだって」
「ふーん……ま、たしかに顔はいいかもね」
近づいてくる男子生徒について小さな声で感想を言い合う彼女たち。
まもなくして、野内と呼ばれた男子がこちらへと到着した。
「まったく、先生め、俺が学級代表だからって早速面倒なことを……」
ぶつぶつと独り言をしている。
「何? ウチら今、千条さんと仲良くお話してる最中なんだけど」
もかちゃんと呼ばれたリーダー的女子が、強気に前へと出る。
「忘れ物、千条に届けに来たんだよ。……はい、これ」
そう言って、野内くんは文音に何かを手渡してきた。
見覚えのある巾着袋だ。
見ればやっぱり、文音の上履きが入っている袋だった。
朝、下駄箱から消えていたあの袋。
探しても探しても見つからなくて、仕方なく靴下のまま教室に行くしかなかった、文音の袋である。
「……あ、お前それ! 何勝手な事してんだよ!」
当然、隠した本人であろう彼女も見覚えがあったのだろう。
すぐにそれが何なのかを理解すると、野内くんに突っかかる。
「え、勝手な事って……?」
野内くんは、不思議そうな顔で首を傾げる。その表情からは一切の悪意が感じられない。
「ッ!! お前が今やってることを言ってるに決まってんだろうが!」
飄々としている野内くんに、彼女は激昂を飛ばす。
後ろの取り巻きの女子たちはそこまで怒っているわけではないが、彼女だけは男子相手でも怒りを隠そうとはしなかった。
その剣幕に、文音は少し身を縮める。
しかし、それを聞いた野内くんは何を思ったのか、突然何かに納得し始めた。
「……あー、なるほど!」
パンと手を打ち、野内くんは大きく頷く。
「?」
その突拍子のない頷きに、この場の全員が頭に疑問を浮かべる。
「俺、余計なことしちゃったかな? お前、千条と仲良くなるために一緒にこれ探してあげてたんだろ?」
「はぁ!? んなわけないでしょ!! あんた、バッカじゃないの!?」
「ははは、照れなくていいって!」
バシバシと、彼女の背中を野内くんが叩く。
「確か千条って帰国……女子とかだったもんな、うんうん。いやー分かるわー、俺も興味あるもん、外国とか」
その笑顔には一片の曇りもない。
「ちょっ、ウザッ!! やめなさいよ!!」
そして彼女の怒りが野内くんに向いたのか、勢いよく手を振り払うと二人は面と向き合う。
文音から野内くんの方へと、矛先が変わった瞬間だった。
言葉は分からずとも、何となく空気感で彼女のターゲットが増えてしまったのだと分かる。
「お前まさか、こいつのこと助けてるつもり!?」
「? まぁ助けた、かな? 先生に頼まれたから仕方なくだけど」
「ははっ、先生に言われたから助けた? ふーん、学級代表様は随分ご立派なんだねー? ……ねぇ、みんなもそう思うよねぇ?」
明らかに侮蔑的な声色。
後ろにいる取り巻きの女子たちに何らかの同意を求める。
「う、うん、ホント、ウチらじゃとてもできないよー」
「マジ、野内くん最高ー」
ケタケタと。
嫌な笑い声で一気に空気が澱んでいく。
今は標的ではないというのに、文音の額には冷や汗が浮かんできている。
それなのに――だ。
「……そ、そう? まぁ、確かにそうかも? いやー最高かー……ははは、照れるなー!」
快活に、照れくさそうに。
心からの喜びのようなものを表に出しながら野内くんは笑った。
(!?)
文音は、その光景に思わず目を見開く。
言葉が分からない文音でも分かるような明らかな嘲笑を、本当の賞賛として受け取っている。
いや――もしかしたら、分かっていて、それでも笑っているのかもしれない。
どちらにせよ、文音はこんな人を初めて見た。
「……は? ウザッ」
対する彼女は、思惑通りの空気になりきらなかったことが気に入らなかったのだろう。
敵意をむき出しにしながら、小声で嫌みと思われることを呟く。
「……いくわよ」
そして、流れが悪くなったと判断したのか、取り巻きを連れてたちまちこの場を去って行ってしまう。
「あれ、行っちゃった。あんなに照れなくてもいいのにな。なぁ千条?」
「……」
「あ、あれ? おーい、千条さん?」
「……」
残された文音に野内くんが話しかけてくるが、救ってくれた彼に何と言ったらいいのか分からない。
英語で話をするべきだろうか。
でも、ここは日本だ。
日本語で話さなければいけない。
けれど、文音にはその言葉がない。
「……ノ、ウチ、くん。……アリガトウ」
とりあえず、精一杯の感謝を込めて、日本語でお礼を伝える。
「え? あーいいっていいって。そんなことよりごめんなー、何か邪魔しちゃったみたいで」
「……?」
「ほら、せっかくの友達作るチャンスだったのに俺が間入っちゃったからさ」
「…………?」
「え……だから俺が邪魔を……って、聞いてる? さすがに無視はへこむんだけど……」
「……ワカラナイ……ゴメンナサイ」
話しかけてくれるのだが、言っていることの雰囲気くらいしか掴めない。
必死にそのことを伝える。
「え……まさか、日本語ワカラナイのか!? え、ええっと……ユードントスピークジャパン?」
全く文法なんてあったものではない英語。
けれど、何を理解し伝えようとしてきているのかは分かった。
コクリと、文音は頷く。
「ま、まじかー……えーどうしよう……」
野内くんは頭を掻きながら、目を泳がせる。
さきほどの状況に対してはあっけらかんと対応していたというのに、こんなよくありそうな単純な状況には困っている様子だ。
その姿が何だか可笑しくて面白い。
おかげで少しだけ笑顔になる。
「まぁ……何とかなるか! じゃあもう今日は帰ろうぜ、千条……じゃなくて、えーと……ゴーホーム、ユーアンドアイ!」
まるで犬に指示を出しているかのような出鱈目な英語だが、帰ろうという意味なのはしっかりと伝わってくる。
その不器用な英語が、文音にはとても温かく感じられた。
なので、喜んでオッケーを伝える。
「OK!」
そうして、出会ったばかりの二人は一緒に下駄箱を目指す。
道中、野内くんがやたらめったら話しかけてきたのだが、その殆どが分からなかった。
それでも野内くんは、文音が理解できなくてもひたすら話し続けてきた。
時々ジェスチャーを交えながら、何かを一生懸命伝えようとしてくる。
その姿を見て、文音は思う。
ああ、申し訳ないな、と。
この人ともっと話したい。
この人の言葉を、ちゃんと理解したい。
この人に、自分の気持ちを伝えたい、と。
その日から文音は、必死に日本語の勉強を始めることになる。
それが、文音が野内蓮という少年と出会った日――。
千条文音の、本当の人生が始まった日だった。
今日から第三章投稿開始です。
今回は修行も兼ねて貯金が無い状態で始めるので、更新ペースを週2~3に落とさせていただきます。
執筆が順調なら(火曜日、木曜日、土曜日の20時頃更新)の週3回更新、間に合いそうになかったら木曜と土曜だけ、みたいな感じで、臨機応変に更新していくつもりです。
もちろん、全部書き終えたりしたら途中から更新ペース上げたりなんてこともあるかもしれませんが、ひとまずは週2~3回で頑張らせてください!では、よろしくお願いいたします。
※「面白い!」「続きが気になる!」と少しでも思って頂けましたら、ブクマ・☆評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。作者のモチベーションに直結してきますので、どうかよろしくお願いいたします。




