第47話 聞いてない、知らない、どうしようもない
時が過ぎるのは早いもので、もう5月も残りわずかとなった春の終わり。
窓の外では木々の緑が濃さを増し、校庭に植えられた若葉が初夏の訪れを予感させていた。
気温も日に日に上がり続けており、制服のブレザーを着ているだけで汗ばむ季節になってきている。
帝との勝負が控えている試験までも、残すところあと数日となっていた。
「ふうあぁあーぁ……」
そんな中、俺はすっかり溜まり場として馴染んだ相談部室で、部長席に座ったまま盛大な欠伸をしていた。
部屋の中には、淹れてからしばらく経った紅茶の香りが漂っている。
本来ならみずきやあずきが持ってきてくれる和菓子が添えられているはずなのだが、今日のテーブルにはコンビニで買ったクッキーしかない。
「眠いなー……」
誰かに話しかけるように、独り言を言ってみる。
部室にいる唯一の相手――サクに向けて、だ。
「……」
しかし、反応は返ってこない。
サクは机に向かい、真剣な表情で参考書とノートを睨みつけている。
鉛筆を走らせる音だけが、静かな部室に響いていた。
「暑いなー……」
もう一度、独り言を言ってみる。
「……」
やはり無反応だ。
俺の声など聞こえていないのか、それとも聞こえていても無視しているのか。
おそらく後者だろうな、と思いながら、俺は諦めずに言葉を続ける。
「……暇だなー」
「うるっさいな!」
ようやく反応が返ってきた。
三度目の正直とはよく言ったものだと思う。
「だってー、しょうがないだろーサク。みずきたちがしばらく来てないせいで和菓子が無いし……やることないんだよー」
椅子の背もたれに身体を預けながら、不満を口にする。
ここ最近、みずきやあずき、それに何故か文音までもが試験のためと言って部活には来ず、自分たちの部屋で勉強していた。
かくゆうサクだって、部室には来てくれるがずっと無言で勉強している。
そのせいで、俺は非常に、ひじょーうに暇だった。
「だったら蓮も勉強したら? ……さすがに余裕出しすぎでしょ」
「え? するわけないじゃん」
「まったく蓮はいつもいつも……ていうか、本当に藍ちゃんと別れるためにわざと負けるつもりなの?」
「だから、そう言ってるだろ? 最初から」
サクには勝負が決まった次の日には、この機会に藍と別れるつもりだということをきちんと説明してある。
当然文音も俺が藍と別れたがっていることは知っているので話しておきたかったのだが、サクが今はやめておこうなんて変なことをいうもんだから話せていない。
まったくやめておく意味が分からなかったが、確かに元気がないような気もしたので話すのをやめたのだった。
「まぁ……蓮がそう決めたなら別に僕は止めないけどさ。でも、藍ちゃんの方は大丈夫なの?」
サクが心配そうに聞いてくる。
「大丈夫って?」
「いや、だから。あの場ではああするしかなかったとはいえ、勝手にペナルティに利用されたりしてるわけだし……何か言われたりしてないの?」
「あぁー……」
たしかに、言われてみればそうだ。
天才くん問題と藍問題という二つの大問題が同時に、そして確実に解決するという喜びからまったく気にしていなかったが、藍からしたらどういう心情なのだろうか。
俺は少し考え込む。
思い返してみれば、勝負が決まった次の日も普通にいつも通りの態度だったし、何も言ってこなかった気がする。
それに、つぼみんもあの日の話を一切してこない。
まぁ……気にしてないってことなんだろう。
「言われてないな、何も。だからまぁ、大丈夫なんじゃないか?」
何も変わっていないということは別に怒ってるわけでもないってことだろうし、そもそも最初から冷め切っていた俺たちの間に「別れたくない」なんて感情もないわけで。
むしろ、当初の藍の目的であったであろう男避けという意味では俺はもう十分に役目を果たしているので用済みのはずだ。
向こうもこの機会に別れられるのなら、その方が良いと内心で喜んでいるんじゃないだろうか。
「え……それって、大丈夫って言えるの……かな?」
サクが眉をひそめる。
「大丈夫だって。今日だって普通だったし……というか、いつもより元気だった気もするぞ」
サクが「本当に?」なんて心配しているが、そんなものを案じたところで無駄な事だ。
だって、何にせよ俺と藍の関係はすぐに解消されることになるんだから。
気にする必要が無い。
「……そうならいいんだけどさー」
完全に納得したわけではないのだろうが、いつまでも話を続けていては勉強が進まないのでサクは再び机へと顔を向けた。
さすがは、いつでも真面目なサクさんだ。
全くのノー勉な俺とは格が違う。
俺は教科書を開いていないどころか範囲すら確認していないし、いつからテストなのかもハッキリと知らないくらいにはノータッチである。
このままだと間違いなく赤点しかないだろうが、元々勉強したところで赤点ギリギリかギリ赤点くらいの点数しか取れない俺だ。
やるだけ無駄というものだろう。
それに、だ。
勝負が行われる今回のテストに限っては赤点の方が都合がいい。
だから俺は面倒くさがってるわけじゃなくて、戦略的に勉強していないだけなんだ。
……そう、戦略的に、ね。
窓の外を眺めながら、俺は心の中でそう言い訳する。
「あーでも、だからって蓮。いつもみたいに手は抜きすぎないでよ? まぁ蓮のことだから無いとは思うけど、万が一赤点でも取ったら人生終わりなんだしさ」
すると、勉強に戻ったサクが手を動かしながら何てことはない軽い口調でそう言ってきた。
「失礼な、俺はいつでも全力だぞ」
(――って、ん?)
しかし、そのテストのたびに繰り返されてきたような会話に何故だか少し引っ掛かりを覚える。
何か……何か引っかかる。
何だろう、この違和感は。
「またそんなこと言って……本当は出来るのに、勉強面倒くさいからっていつも赤点ギリギリを攻めてるくせに」
「これが俺の全力なんだよ」
ああ、本当に。
それが俺の全力だ。
「はいはい。でも本当に、ギリギリ攻めすぎて蓮が退学なんてことになったら目も当てられないからやめてよね」
「分かってるって。ギリギリなんて攻めないし、退学するつもりも――」
――ない、と言いかけて。
動きが止まる。
……ん?
……退学?
今、何て言った?
「どうしたの?」
サクが不思議そうに顔を上げる。
「え……いやいやいや、何でもないよ何でもない! ……えーと、で、何の話だっけ?」
俺は慌てて誤魔化す。
きっと気のせいだ。うん。
今はテストの話をしてたんだし、聞き間違いか何かだろう。
赤点と退学なんて、関係ないはずだ。
「だからー……赤点取ったら即退学なんだから、そんなへましないでよって話だよ。中学とは違ってここじゃ平均点も高いだろうし」
「…………」
――――き
(聞き間違いじゃ、無かったぁぁあーー!!?)
頭の中で、何かが崩壊する音がした。
……え、何!?
赤点取って退学って何!?
これ、ただのテストじゃなかったの!?
……ていうか、なんでそんなに平然と赤点取ったら退学とか受け入れちゃってるの!?
俺が知らなかった新たな特大情報に、手のひらがじっとりと汗ばんでくる。
(ま、待て待て……落ち着け……赤点取ったからって即退学なんてこと、あるはずがないじゃないか……)
脇の下も、背中も、額からも――全身から冷や汗が噴き出しそうになってくるのを何とか気持ちだけで抑え、心を落ち着かせていた。
(そ、そうだ……検索してみれば良いじゃないか!)
本当にそんな非道なことが行われていたのなら、少なからずネットに情報が載っているはず。
そう考えた俺は、すぐさま携帯をサクにバレないように取り出し、検索窓に「城才学園 定期試験」と打ち込んで検索をかける。
(よし、出てきた出てきた。……何だ、普通じゃないか)
出てきた画面をザっと見たところ、「難しすぎる」「天才でも苦労する」「問題が鬼畜」という情報で埋め尽くされているだけで、退学がどうのこうのという文言が見当たらない。
(ふぅー……よかった、本当によかった……まったく、焦らせんなよなサクの奴め――って、ん?)
さすがにこれは焦ったなーと、安堵の溜息を心の中でついていると……
ふと、検索のサジェストに「城才学園 定期試験 退学」といったものがあることに気が付く。
(い、いやいや、そんなまさか……)
まさかとは思うが、調べずにはいられない。
この胸騒ぎを無視することはできない。
恐る恐る、検索ボタンを押してみる。
画面が切り替わる。
すると、一番上にスレッド形式の掲示板サイトが出てきた。
タイトルは――「【悲報】城才学園、赤点で退学になったんだがwwwww」。
投稿日時を見ると、数年前のものだ。
その内容はこんな感じだった。
『1:俺この学校通ってたんだけど、赤点取っただけで退学になった。クソ高校wwwww』
という、スレッドを立てた本人のコメントがまず書いてあって――
『2:>>1 嘘乙』
『3:>>2 俺、城才通ってたけどこれはマジ。絶対に赤点は許されない』
『4:>>1 カリキュラムよく見てみ。ちっさく書いてあるぞ』
――という書き込みがあったり。
『5:書いてあるって、ま? じゃあ、イッチがただ自分の無能晒してるだけなの草』
『6:問題にしてやろうとしてんのか知らんけど、そもそも天才学園って呼ばれてるくらいだし、赤点絶対取っちゃダメなのも世間的には許容範囲』
『7:スレ主みたいなバカを強制排除できるのすごい合理的だな。俺の学校も見習ってほしい』
『8:まぁ天才学園だからな。赤点取るようなやつは最初から入学すべきじゃなかったってことだろ』
『9:厳しいけど、それがこの学校のポリシーなんだろうね』
といった、赤点即退学を肯定的に捉えている意見があったり……。
俺は画面をスクロールしながら、一つ一つのコメントを読んでいく。
指が、わずかに震えている。
『10:>>1 入学時に説明あったはずだけど、聞いてなかったの?』
『11:まぁでも実際問題、赤点取るやつなんてほとんどいないから問題になってないだけだよな』
『12:毎年数人は退学者出てるって聞いたけど』
『13:>>12 マジかよ……怖すぎだろこの学校……』
「……」
――そっと。
そこまで読んだ俺は携帯を閉じる。
(ふぅぅぅぅぅ…………)
そして目を閉じ、天を仰いだ。
――頭の中が真っ白になる。
いや、真っ白というより、真っ暗だ。
絶望という名の暗闇が、俺の思考を覆い尽くしていく。
「ん? ……蓮、大丈夫? 顔色悪いけど」
「……あ、ああ……ち、ちょっと、なんか……急に体調、悪いかも」
本当に、体調が悪い。
すこぶる、悪い。
吐き気がする。
目眩がする。
冷や汗が止まらない。
「え、真っ青じゃん、顔! もう帰って休んだら!?」
それを本当の体調不良だと思ったのだろう。
サクが慌てて帰宅を促してくる。
その優しい声が、今は遠くに聞こえる。
「そうだな……帰るしか……ない、のか……」
「うん、そうしたほうがいいって」
力なく立ち上がる。
寮に帰るだけでなく、実家に帰ることがほぼ確定したことを知らされたようで、勝手に絶望する。
赤点を取ったら、退学。
退学したら、実家に帰るしかない。
そして実家に帰ったら、きっと両親に散々説教――いや、妹に説教される。
とにかく、たくさん説教されるんだろう。
「ああ……じゃあ……その、サク……身体に気を付けて、元気でな……」
「え? ……うん、蓮がね? ほんと、お大事に」
嚙み合っていないのだが、奇跡的に絶妙に噛み合ってしまっていた奇妙な会話を背にして、俺はトボトボと帰路に就いた。
蓮「南無……」




