第35話 蛙にとって海は絶望
「――――うそ……」
「~~~♪~~♪……~~~♪」
その演奏は、決してただのそれなりな演奏などではなく、研鑽された確かな技術と豊富な経験を感じさせるような、そんな熟練の音色をしている。
藍からしても、全国コンクールで聴けるような、才人たちのそれと何ら違いがない。
いや、それ以上かもしれない。
ただ単調に弾いているのではなく、抑揚、強弱、テンポの微妙な変化まで完璧にコントロールされている。
まるで楽譜に書かれた音符が生命を宿したかのような、そんな演奏だった。
「すご……会長ってピアノ弾けるんだね……」
つぼみは完全に圧倒されている。
先ほどの藍の演奏にも感動していたが、今度のマリーの演奏にはまた違った種類の驚きを感じているようだった。
「……え、えぇ」
藍は不思議でたまらない。
何故にこの才能が今まで一度も出てこなかったのか。
それに――
つぼみのような相性を見る目だけでなく、藍に並びうるほどのピアノの腕前を持っていること。
それが何よりも恐ろしくてたまらない。
そしてしばらく聞きほれていると、演奏も終わり、会長は藍たちの方へと向き直る。
「パチパチパチパチ――――」
つぼみが唖然としながらも大きく拍手をしていた。
その拍手には、純粋な感動と驚嘆が込められているのが分かる。
一方の藍は、自分自身とも言える得意分野ですら目の前の人物に並ばれている事実からか、上手く言葉が出せず、苦い気持ちになって沈黙してしまっている。
「――――どうだろう。中々良かったんじゃないか?」
そんな私の気持ちをまたも推し量って言葉を投げかけてくる。
マリーの表情には、挑発的な要素はない。
ただ純粋に、藍の感想を聞きたがっているようだった。
悔しさから無言のままでいたかったが、そういうわけにもいかない。
ここは素直に、自分が感じたことを伝えるしかない。
「……いえ中々どころか、私より、上手かった、かも……しれません」
これはお世辞でもなんでもない。
藍から、正真正銘、正直に出た感想。
悔しいが、それが藍の耳が感じた事実だった。
少なくとも、事前準備無しの演奏では負けたと、そう認めてしまっていた。
技術的な完成度もさることながら、何よりその音楽に対する理解の深さ、表現力の豊かさに圧倒された。
同じ曲を弾いているはずなのに、マリーの演奏からは藍が表現しきれなかった感情や色彩が溢れ出していた。
「それは……世辞ではない、か。そうか。そう感じたのならそれでもいいが、私はお前の音にはまだ達していないと感じているとだけ伝えておこう」
マリーの言葉も、これもまた世辞などでは無い。
どちらも心から相手の音色に負けたと感じている。
そのことを分かっているからこそ、藍は悔しいのだ。
自分からも相手からも、誰が聞いても一番と思えるような演奏。
それこそが演奏者の目指す音。
お世辞の応酬ではなく、本気で音楽を評価し合っているからこそ、この敗北感は重い。
まず一番に肝心の自分が負けたと感じた時点で、それはもう負けなのだ。
「会長は……今までコンクールのご経験は?」
「ないな」
それはさっきも思ったが、分かっていたことだ。
藍もその名前を見たことがない。
しかし、もう一つ、そこには藍にとって嫌な事実があるような気がして、質問が止められない。
心のどこかで、まさかそんなことはないだろうと思いながらも、確認せずにはいられなかった。
「では……今までで……人前で演奏をされたご経験は?」
本当は聞くべきではない。
そんなことは分かっている。
でも聞かずにはいられなかったのだ。
「……ないな」
「そう……なんですね」
単にコンクールに出ていなかっただけならば。
それだけならばまだ自分を納得させられた。
しかし――
その答えは、藍の才能、努力があまりにもみじめに思えるほどの回答だった。
つまり、マリーにとってピアノを弾くことは人生を賭けるほどのものでもなければ、特別なものでもないということだ。
藍が血のにじむような努力を重ね、数え切れないほどの練習時間を積み重ねて築き上げてきた技術を、この人は趣味程度で身につけているということになる。
何のためにあんなに頑張ってきたのだろう。
何のために毎日何時間もピアノに向かい続けてきたのだろう。
そんな虚しさが、藍の胸を支配していく。
「……さて、なんで私も立花のように他人の相性が分かるのか、だったな」
黙ってしまった藍に向けて、マリーは淡々と話を続ける。
先ほどの質問への回答を、ようやく始めるつもりらしい。
「その答えとして、こうしてピアノを弾いて見せたわけだが……」
「…………」
「私としたことが、どうやらやり方を間違えたかもしれないな」
マリーは無言の藍の様子を窺いながらも、最初に現れたときからその堂々とした態度は一切崩れていない。
相手を気遣うことはすれど、自分を下げるようなことだけは絶対にしないという一貫した姿勢が見て取れた。
それがマリーという人間の本質なのかもしれない。
どんな状況でも、決して自分を卑下することなく、常に堂々と振る舞う。
それは生まれながらに持ち合わせた生来の自信なのか、それとも育った環境がそうさせるのか。
それは分からない。
「そうだな……あえて言葉で回答するなら……私は器用なんだ。見ての通り、大抵のことは満足に出来る。それだけのこと」
その自信満々な発言とは裏腹に、マリーは全く自慢げではない。
まるで「空は青い」とか「水は透明だ」といった自明の理を述べているかのような、淡々とした口調だった。
「どうだ? これで納得できたか?」
「……あ、藍ちゃん。すごすぎるって、この人……」
つぼみが震え声で呟く。
彼女も同じことを感じているのだろう。
人間離れした才能を目の当たりにした時の、言葉にできない圧迫感を。
「……えぇ。そうね……」
完全に。
もう完全に、藍はあきらめてしまいそうになる。
この人こそ、まさに”天才”と呼ばれるに相応しい。
何が、天才ピアニストだ。
どこかそこにだけは自信が溢れていた自分に嫌気がさしてくる。
今までに出会ったどんな才能とも違う、圧倒的なまでの天才。
こんな人間が実在していることすら信じられないほどのカリスマ性。
少なくとも、藍は自分の腕と同等以上の演奏を淡々として見せた目の前の人物を、もう同じ土俵にいる人間だとは思えない。
別次元の存在――そんな言葉が脳裏をよぎる。
「……では、次は私の番だな」
藍がもう、何を自信にして生きて行けばいいのか、その才能を前にして虚無に陥りかけていたその時、ハキハキとしたその声が脳内に響き渡る。
どうやらマリーからも何かあるらしい。
「なんでしょうか……」
悔しさから、心ここにあらずという状態で返事を返す。
自分の存在意義すら揺らぐような体験をした後だ。
正直、話がまともに頭に入ってくる気がしない。
「野内藍……それから、立花つぼみ」
「は、はい!」
藍だけでなくつぼみにも用があるらしく、マリーが彼女の名前を呼ぶ。
つぼみは勢いよく返事をして姿勢を正した。
「お前たち、生徒会に入らないか?」
「「…………へ?」」
――唐突に、そんな勧誘を受けた二人は完全に思考が止まってしまった。
生徒会――この学校で最も権威のある組織。
そのトップに立つマリーから直々の勧誘。
普通なら光栄なことのはずなのに、あまりにも突然なことすぎて、二人とも状況を理解するのに時間がかかった。
蓮「勧誘の仕方が『お前も鬼にならないか?』みたいだよね、なんか」
藍「この話に出てきてないんだから、くだらないこと言うためだけにわざわざ出てこないでくれる?……目障りよ」
蓮「す、すみません……つい……」




