第33話 茜色の来訪者
「――――♪~~♪~~」
夕暮れの特別教室棟を、透明で美しいピアノの音色が包み込んでいた。
春の陽射しが日に日に暖かさを増しているとはいえ、夕方のこの時間帯はまだどこか肌寒い。
放課後の学校は部活をしている生徒以外の人影はまばらで、普段の賑やかさが嘘のように静まり返っている。
そんな空間に響く華麗なピアノの旋律は、まるで建物全体を一つの楽器へと変貌させているかのようだった。
音楽室の重い扉の向こうでは、たった二人だけがその贅沢な音色を独占している。
「♪~~♪~~♪~~…………」
演奏が一段落ついたところで、ようやく静寂が戻ってくる。
「す、すご………」
その音の出所である音楽室では、ただ一人の演奏者とたった一人の観客がいた。
演奏を聞いていたつぼみは、まだ余韻に浸りながらも感動のあまり、ありきたりな感想しか口にできずにいる。
「藍ちゃん、すごすぎ……」
本当はもっと的確な美しい言葉で感想を伝えたかったのに、いざ演奏を前にしたら語彙が追いつかなかったという感じだろうか。
心の底から溢れる感動を素直に伝えようとしていたことだけは、ハッキリと分かる。
「ふふ、ありがとうつぼみ。そんなに感動してくれるなんて、これまでで一番嬉しいかもしれないわね」
藍の口調には、いつもの少し取り澄ました雰囲気はない。
つぼみの前では自然体の自分でいられることを、自分自身も実感している。
何より、つぼみの純粋で素直な反応が、どんな審査員の評価よりも心に響いたのだ。
思わず笑みがこぼれる。
「なんか……ずっと鳥肌やばかったし……なんかこう……ホントに音が踊ってる感じっていうか、生きてるっていうか……」
つぼみは演奏の余韻から何とかしっかりとした感想を口にしようと、一生懸命に言葉を探している。
彼女なりに、藍の演奏に対する敬意と感動を表現したかったのだろう。
その健気な姿が、ひどく可愛らしく思えて、藍はまた笑ってしまう。
「分かってる分かってる。大丈夫、伝わってるから」
藍にとって、つぼみのような純粋な聴き手に演奏を届けられることは、何にも代えがたい喜びだ。
コンクールの審査員や同じ音楽をやる人たちは、どうしても技術的な評価に偏りがちになる。
でも、つぼみは一般の聴衆とも少し違う。
音楽そのものを、感情そのものを受け取って、それを率直に表現してくれる、初めての友人という名の聴衆だ。
「いやー、それにしてもこんなに弾く人によって音って違ってくるものなんだね。正直つぼみ舐めてたかもしれないですごめんなさいー」
つぼみは大げさにふざけたように頭を垂れて見せる。
「ははー」という効果音が聞こえてきそうな、いかにも彼女らしい愛らしい仕草だった。
「そう感じてくれたなら良かったわ……今はつぼみに聞いてほしくて、つぼみのためだけに弾いてたから」
演奏後で、ほっと一息をついていたからだろうか、何気なくそんな一言が漏れる。
藍にしては珍しく、心の奥にある本音がそのまま言葉になってしまった。
いつもなら、もう少し格好をつけて話すところなのに、やはりつぼみの前では素直になってしまう自分がいる。
「いや、かわいすぎるってば!」
それにすかさずつぼみが反応してきた。
無意識に言ってしまったこともあり、いつにもまして照れくさい気持ちが藍の胸に広がる。
「そ、そういうのやめてって言ってるでしょ!」
照れて顔が熱くなっているのが自分でも分かる。
しかし、夕焼けのおかげで赤くなった頬はつぼみには見られていない。
きっとつぼみは、赤くなった顔を見たらまた同じように騒ぎ出しそうだったので、そのことには一安心する。
「……かー、こんなすごい彼女持てて野内くんも幸せだろうなー。こんなの聞いたら感動しすぎて腑抜けになっちゃうだろうねー、野内くんも」
そこで、つぼみが何気なくそんなことを呟いた。
「…………それは――」
その一言が、藍の胸に小さな棘のように突き刺さる。
(――あまり喜ばしくないことね)
冷静になって蓮のことを考えると、演奏を聞かせる事に躊躇いを覚える。
ピアノに無関心なばかりか、藍のピアノの腕を疑ってきた蓮に自分の演奏を聞かせてやりたいという気持ちがないわけではない。
でも同時に、蓮が藍の演奏に惚れてしまえば、それはつまり今の交際関係の継続に繋がってしまう恐れがある。
(それだけは勘弁してほしいわね……)
そんなことを思ったその瞬間。
「――――パチ、パチ、パチ、パチ」
音楽室の入り口から唐突な拍手と共に誰かが姿を現した。
夕焼けの逆光により、その人物は鮮明にはまだ見えない。
しかし、その堂々とした立ち姿と、どこか威圧感すら漂わせる雰囲気から、ただ者ではないことは一目瞭然だった。
(誰……?)
藍は眉を寄せて入り口を見つめる。
しかし、どこかで見たことのある雰囲気だと藍は思う。
「見事な腕前だ。やはり何事も、噂などではなく、自分の目で見て耳で聞いてみなければ実際の程は分からないものだな」
その声は艶やかで、どこか威厳に満ちている。
年齢の割には大人びた話し方で、まるで大人が話しているかのような錯覚すら覚える。
そして――
藍とつぼみしかいない音楽室に、その綺麗な女子生徒が堂々と姿を現す。
夕日を背負って現れたその人物の正体が明らかになった瞬間、藍もつぼみも息を呑んだ。
夕焼けに晒されていて栗色に見えたが、よく見れば青みがかっている髪の色。
切れ長で吸い込まれそうな美しさを持つ深い瞳。
モデルのような均整の取れたスタイル。
そして何より……
その圧倒的な存在感とオーラ。
この学校の誰もが知っている、あの人だった。
「あれ、藍ちゃん、あの人って確か……」
つぼみが震え声で呟く。
「え、ええ……」
その突然の思わぬ登場人物に、つぼみだけでなく藍も出すべき言葉を見失ってしまっていた。
「おっと、すまない。あまりに綺麗な音色だったので失念していた。自己紹介を先にしなければな――」
堂々と、高らかに。
傲慢さえ美しく着飾って、すべてを虜にするような自然な立ち振る舞い。
その一挙手一投足が、藍たちの視線を勝手に惹きつけ空気を掌握する。
まるでこの場所が、彼女のためのステージであるかのように。
「――私の名前は、桜崎茉莉伊。この学校の生徒会長をやっている者だ」
彼女は――マリーは、これまでモニター越しでしか見たことのない藍たちにとって、想像以上に圧倒的なオーラを纏っていた。
近くで見ると、その美しさも存在感も比較にならないほどに迫力がある。
藍とつぼみもそのオーラに当てられ、完全に気圧されそうになっている。
つぼみは完全に飲まれてしまっていて、何も言うことができない様子だ。
藍も同様で、普段なら冷静に対処できるはずなのに、今は上手く思考がまとまらない。
ゲームの時はしっかりと注目をしていなかったため詳しくは知らなかったのだが、あとから生徒会長があの桜崎財閥のご令嬢だということを知り、ひどく驚いたことがあった。
調べてみれば、マリーがこの学校にいる事は公開されていたのだが、調べなければそんなことを知ることも無い。
だから藍は、桜崎財閥――日本有数の大財閥の跡取り娘が、まさか同じ学校にいるなんて思いもしなかったのだ。
そのことを知ったあと、叶うことなら、在学中に一度はその肥えているであろう耳に演奏を届けてみたいと考えたものだ。
つくづく、自分は根っからのピアニストということだろう。
しかし、まさかこんな不意打ちのような形でそれが叶うとは思ってもみなかった。
それに対する動揺から藍とて上手く口が動かせないのだが、そういうわけにもいかないので、たじたじになりながら言葉を返す。
「せ、生徒会長。……褒めていただけて光栄に思います。初めまして、私は――――」
自己紹介には自己紹介を。
当然の流れに沿おうと藍は名乗りをあげようとしたのだが――
「野内藍と、立花つぼみ――だろう?」
「――――!?」
そんな藍の自己紹介は、マリーによって断ち切られてしまった。
つぼみ(ななな、なんで名前知ってるのーー!?)
作者「9/20 ジャンル日間3位いきました。応援ありがとうございます!」




