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第32話 藍の困惑


 ――入学式から一か月ほどが経過し、新しい生活にも殆どの生徒が段々と馴染み始めてきた頃。


 城才学園高校1年生の教室棟では、至る所で部活の話題が口に出されていた。


 藍のいる10組も例外ではなく、あちこちがその話題で持ち切りだ。


 5月の穏やかな陽気に誘われるように、生徒たちの会話も自然と華やかになっている。


「ねえ、藍ちゃん。部活ってどうする?」


 斜め後ろの席からも、同じ内容の話が藍に向けられて飛んでくる。


 その声の主は、藍にとって現在……いや、今までで初めてともいえる唯一の友達である立花つぼみだった。


 入学してからこの一か月間で、藍は彼女との時間をかけがえのないものに感じるようになっていた。


「私はピアノで入学したようなものだから音楽部に入る予定よ」


 その声に藍は穏やかな心境、柔らかな口調で反応する。


 ほんの少しでも嫌な思いをしてほしくないために、細心の注意を払う。


 友達との会話というものがこんなにも気を遣うものなのかと、時々自分でも驚いてしまう。


 でも、それは決して負担ではなく、むしろ大切にしたいと思える相手だからこそ生まれる感情だった。


「へーピアノかー、テニス部誘おうと思ったんだけどなー」


 そんな藍の返答に残念がるつぼみ。


 その表情はそこまで落胆しているわけではなく、まだどこか諦めの悪そうな笑みも浮かんでいる。


 友人同士の何ともほのぼのとした会話。


 そこらじゅうでよく見るような普通の光景だ。


 しかし、こんなような何気ない時間をずっと求めていた藍にとっては、かけがえのない眩しすぎるものに思える。


 今までの人生で経験したことのない、温かで自然な人間関係。


 それがどれほど貴重なものなのかを、藍は痛いほど理解していた。


(こんな時間が永遠に続けばいいのに……)


 そんなふうに感じられるくらいには幸せを感じている。


 教室の中に漂う平和な空気、友達との他愛のない会話。


 これこそが自分が憧れ続けてきた「普通の学園生活」というやつなのだろう。


「テニスかー、いいね。俺、そこ入ろうかな」


 しかし――


 その幸福の時間は、割り込んできた声のせいですぐに影を差し始める。


「……へ?」


 突然現れた、空気も読めずに横槍を入れるかのような声。


 何の前触れもなく、急に二人の会話に参入してきたのは、藍の後ろの席に座る男――野内蓮だった。


 コミュニケーション能力に長けているつぼみでさえ、その突然の乱入者に驚きを見せている。


 つぼみの表情に一瞬戸惑いが走るのを見て、藍の心にも微かな苛立ちが湧き上がった。


「野内くんってテニス出来るの?……ていうか、運動までできる感じ?」


 藍は不快感からか、会話に割り込んできた蓮のことを睨むことしかできないが、さすがはつぼみと言うべきか。


 驚きこそすれど、気まずい沈黙を生むこともなく、難なく会話を繋げて見せた。


 つぼみのその社交性の高さには、今更ながら感心させられる。


 もし彼女がいなければ、この場の空気はもっと険悪なものになっていたに違いない。


「運動くらいしかできないってくらいには、運動が出来るよ(ドヤッ)」


 それに対して、蓮はつぼみの優しい行動が当たり前かのように自信満々に会話に参加してくる。


 こんなに急に会話に割り込んできたなら、もう少し申し訳なさそうにするとか、気を遣ってほしいものだ。


 少なくとも常識的な人間であれば、まずは話に入っていいのかくらい、断りを入れるものだろう。


 つぼみもその態度に若干嫌がっている気がする。


 しかし、藍とて会話が得意な方でもないのでつい出てしまいそうだった文句は抑えた。


 つぼみの前でいつものように険悪な雰囲気を作り出すわけにはいかない。


 それに、この男の行動パターンにはもう慣れてしまった部分も少しはある。


「……へ、へぇーそうなんだ。なら、一緒にテニス部の仮入部行く?」


 それでも、つぼみは持ち前の明るさを崩さずに会話のラリーを続けていく。


 しかし、その内容にはさすがに待ったをかけるしかない。


「つぼみ、男子と女子は基本別の部活動よ」


 この学校の部活動は多岐に渡っているため、入学当初にどんなものがあるのか確認したことがあるが、運動部の場合は基本男女別だった。


 文化部であっても、活動内容によっては男女で分かれているものもある。


 なので、つぼみの提案を蓮が受けることなどできない。


 この男が何でこんな急に会話に入って来たのか、その真意が分からないうちは極力つぼみを巻き込ませたくなかったので丁度良かった。


 もしかすると何らかの下心があるのかもしれないし、警戒しておくに越したことはない。


「あ、そうだったそうだった。ごめんね野内くん、うっかりしてたよ」


「あーそうだよね。大丈夫大丈夫……」


 それを聞いた蓮は明らかに少し残念そうだ。


(え?……何?)


 どこか違和感がある。


 一体どういうことだろうか。


 運動部が男女別な事なんて一般常識レベルだろうに、露骨に落胆しているのが気になった。


 まるで、本当につぼみと一緒にテニス部へ参加できることを期待していたかのような反応だ。


 しかし、それが本心なのか、それとも何らかの演技なのかが判断できない。


「でも、じゃあ何入ろうかなー俺」


 なんて、わざとらしく呟いている。


 その声の方向は藍たち二人というわけではなく、つぼみ一人にターゲットを絞っている。


 声のトーンも、明らかに藍向きのものではなく、つぼみだけに向けられたものだ。


 この微妙な違いに、藍は敏感に気づいていた。


(まさか……つぼみを何かに巻き込むつもり?)


 考えてみれば、最初から藍に向かって話している様子が一切ない。


 視線も大体はつぼみに向けられているし、質問も彼女に対してのものだ。


 これは何らかの目的でつぼみに近づこうとしているのかもしれない。


 その考えに至った藍は、蓮の思惑通りつぼみが何か反応してしまう前に先手を打つことにした。


「……貴方、運動ができるって言ってたけど、実際はどのくらいできるの?」


 つぼみの前なのでいつも蓮に接する態度を少し和らげてそう尋ねる。


 実はそれに関しては、全く興味がないわけでもなかったことなので、すんなりと疑問が口に出せた。


「そら、もう……こう……すごく、ですよ……」


 しかし、そんな藍の質問に対して蓮はたじたじになりながら言葉を返してくる。


 先ほどまでの自信満々な態度はどこへやら、急に歯切れが悪くなった。


「…………」


 一体、どう解釈したらいいのだろうかと、藍は頭を悩ませる。


 つぼみが返答してくると思っていたら、突然藍が質問をしたから言葉に詰まったのか。

 はたまた、ただ単に運動が出来ずそれを胡麻化そうと見栄を張ったのか。

 あるいは、それ以外の考えを持ってわざとそんな態度を見せたのか。


 まったく思考が読めない。


「……あの、何か言ってくれてもいいんですよ?」


 すると、蓮がこの沈黙に耐えられず藍たちに話を振ってきた。


「……ファイトだよ!野内くん!」


 それに反応したのは、藍ではなくつぼみだ。


 元の性格の違いもあるが、蓮に対しての印象の差が明確に違うからだろう。


 先程の蓮の発言を、額面通り見栄っ張りだと受け取ったらしい。


「いやいや、カッコつけてるとかじゃなくてね!? こう……ほんとにできるんだってば!」


 それを好機と見たのだろうか。


 蓮は明らかにつぼみの反応を見て、水を得た魚とでも言わんばかりに声を大きくする。


「いやー……まー、説得力が、ねぇー?」


 つぼみもその会話に乗って来たようだ。


 彼女の表情にはどこか楽しそうな笑みが浮かんでいる。


 藍はこの流れはまずいと判断し、すぐに会話の流れを断ち切ることにする。


 このまま蓮のペースに巻き込まれては、つぼみが何らかのトラブルに巻き込まれる可能性があるからだ。


「まぁ、何でもいいわ。せいぜい頑張りなさい。本当に運動が出来るなら、ね。結果を出せたら少しは見直すかもね」


 これまでずっとつぼみに向けられていた蓮の意識を、自らの方へと変えさせるよう挑発的な言葉を選ぶ。


 正直に言えば、こんな発言だけで意識を変えられるとも思っていない、ダメもとの作戦ではあった。


 ――だった、のだが。


「……ふん、そういう藍……様こそどうなんですかね?ピアノが出来るって度々口にしてますけど、ほんとのところは大したことないんじゃ? まあほんとうに?できるなら?俺も拍手喝采を送ってあげたいんですけどね」


 予想外にも、蓮は相当な苛立ちを見せてくる。


 つぼみをターゲットにしているので、こちらの発言は流されるのかと思えば、あっさりとこちらに反論してきたのだ。


 しかしその、藍のことを貶すための発言は全くもって心に響くものはなく、この男は何を言っているんだろうかという呆れしか出てこない。


 というよりも、得意だと言い張る運動を貶されたことに腹を立て、同じように藍の得意分野を揶揄しようという単純な思考が何ともバカっぽく、何て言ったらいいのかが分からない。


(なんだか……少し考えすぎだったかもしれないわね……)


 それにより、藍の頭も少し冷静になる。


 思い返してみれば、蓮はあの入学式の日以来、聡明な姿など一度も見せていない。


 たしかに学年では「天才くん」などと呼ばれているが、実際の言動を見る限りでは、とてもそうは思えない。


 第一、藍のピアノの腕など、ネットで名前を検索すれば一発で分かるものだろうに、どうやら一度たりとも調べていない様子だ。


 当然、ただの女除けに使うために告白をしてきたこの男からしたら、いくら言葉でピアノが凄いなんて言われても実感も沸かないために舐めているのだろうし、そもそも興味もないのだろう。


 しかし、ピアノで生きてきたといっても過言ではない藍からすれば面白くない話ではある。


(……まぁいいわ。私の音を聞いたときのこの男の反応が楽しみね)


 鍵盤の天才とも呼ばれる藍は、その魂まで当然のように生粋のピアニストだ。


 その発言に苛立ちこそしていないが、ことピアノの腕を疑われたとあれば、燃え滾るものもある。


 これまで数々のコンクールで優勝し、プロの演奏家からも絶賛されてきた実力を、この男は一体どう評価するのだろうか。


 そんな密かな闘志を燃やしている藍に代わって、蓮の反論に対しつぼみが会話を繋げていく。


「そんなこと言ってると嫌われちゃうよー。っていうか、つぼみずっと気になってたんだけどさ、二人ってホントに付き合ってるの? なんで敬語?」


 つぼみのその疑問も当然だろう。

 恋人ならばもう少し親しそうな話し方をするものだ。


 しかし、それを説明するのは複雑すぎる。

 蓮に出した嫌がらせのつもりの条件を、未だに律儀に守っているだなんてとても上手く説明できる自信が無い。


 なので、ここはそれとなく誤魔化し話を流すべきだろうと藍は思ったのだが――


「あー、それには深い深いわけがあってだな……実はこいつが……っつ!」


 ここで蓮が余計なことを話そうとしたので、冷静にそれを食い止める。


 しつこく幼稚な嫌がらせともとれる態度をとってきていることには、藍も当然気が付いている。


 この後何を言おうとしているかも何となく分かっているため、直前で当然のように足を踏み抜き話を止めて見せた。


「実はこいつが?」


「い、いや……なんでもない、です」


 ここ数週間でこんな感じのやりとりもたまにあり、藍は余計に目の前の男のことが分からなくなってきていた。


(この男……天才なんて呼ばれてるけど、普段の様子からはバカにしか見えないのよね)


 今だって、つぼみを何らかの目的で巻きこもうとしていたかと思えばあっさりとこちらに意識を切り替えたりする。


 それに、この男は自分と付き合ったままがいいのか、早く別れたいと考えているのかが全く分からない。


 確かに藍が条件で付けた敬語だったりのことは嫌がっているのだろうが、見ている限りそれだけなのだ。


 やっていることは藍が嫌がらせで言ったことを忠実に守ったり、それを暴露しようとしてくるだけ。


 それ以上の自発的な嫌がらせはしてこないし、気に食わない行動は止めれば大人しくなる。


 それらすべての行動が、言ってしまえば稚拙なもので、とても賢い人のするものとは思えなかった。


 しかしだからと言ってバカだと断ずるには、あのゲームでのことが頭を過ってしまうために難しく、それ故に藍は困惑していた。


 あの時の蓮の行動があったから、10組はこの教室を手にすることが出来たのだ。


 それだけは、揺るがない事実として残っている。


「やっぱり仲良しだー」


 そんな藍の考えなど知る由もなく、つぼみはニコニコとしている。


 彼女の屈託のない笑顔を見ていると、複雑な事情を抱える自分のことが申し訳なくなってくる。


(はぁ、考えるだけ時間の無駄ね。……それにやることも変わらないわけだし)


 分からないことにうじうじと頭を働かせても意味がないと思考を切り替える。


 どちらにせよ、藍の方針は変わらない。


 早く別れるために、蓮に嫌われる努力を続けるだけだ。


「つぼみ。そろそろ帰りましょ」


 つぼみの方だけを見ながらそう呟くと、颯爽と立ち上がる。


「そだねー、じゃあね野内くん、また明日ー」


 後ろからは、つぼみの挨拶が聞こえてきた。


 彼女はそうやって挨拶を済ませると、廊下に出ていた藍の背中をすたこらと追いかけてくる。


「もうー、恥ずかしがらなくていいのにー。もっと教室で野内くんと話しても良いと思うけどなー、つぼみは」


 二人きりになったかと思えば、恋バナが大好きなつぼみが藍を茶化し始める。


 彼女の表情には、純粋な好意と少しの茶目っ気が混じっている。


「だから……そんなんじゃないって言ってるでしょ」


 度々彼女はおせっかいを焼いてくるが、そのたびに藍は適当にひらりとそれを躱していた。


 本当の事情を話すのも気が引けるし、話したことでつぼみを心配させるわけにもいかないからだ。


「あ、それより――私これから音楽室行くつもりなんだけど、つぼみはどうする?」


 話題を変えるように、藍は音楽室への誘いを口にする。


 実は前々から、つぼみに自分のピアノを聞いてもらいたいと思っていた。


 友達に自分の演奏を聞いてもらうという、これまでの人生では経験したことのない体験をしてみたかった。


「え、そうなの? うーん……じゃあ私も行ってみようかな? 藍ちゃんのピアノ聞いてみたいし。あ、良かったらだけど!」


 あわよくば聞きに来て欲しい。


 そんな藍の気持ちが通じたのだろうか。


 つぼみは藍の期待以上の回答を返してきた。


 その反応の速さと積極性に、藍の心は躍った。


「ええ、もちろん大丈夫よ。というか、私もつぼみに聞いてみてほしかったし……だから、良かったら一緒に来てくれると……嬉しい、かも……」


 その飾らない言葉に対して、藍も一切の考えもなく心からの言葉をひねり出してみる。


 もう入学してから一か月にもなるが、今まで友達との会話など殆ど無かった藍からしてみれば、こういう素直な発言はすごく恥ずかしいものだった。


 その感情を隠せず、顔を赤くして照れてしまう。


「か………」


 それを聞いたつぼみがどんな答えをくれるのか全く考えられていなかったが、見てみれば立ち止まって固まっているだけだ。


 しかし、何かを言いかけていたので聞き返してみる。


「……か?」


 ――瞬間。


 堰を切ったようにつぼみのテンションが上昇する。


「……かわいいーーー!!さいっこうに可愛いよ藍ちゃん!!反則級だよそれはーー!!」


 そう叫びながら、つぼみが抱き着いてくる。


 その勢いに、思わずよろけそうになる。


「ちょっと!……ま、また? もう、ほんとにつぼみは……」


 急な事で驚きはしたが、珍しいことでもなかったため落ち着いて対処する。


 このようにつぼみは度々藍のことをほめてくるため、もう慣れたものだった。


 しかし、慣れたとはいえ、毎回心の奥底では嬉しさがこみ上げてくる。


 こんな風に心から褒めてくれる人がいるということは、とても幸せな事なんだろう。


「ほら、はやく行きましょ」


「ま、待ってよー、藍ちゃーん」


 こうして、二人は音楽室へと向かっていく。


 つぼみが自分のピアノをどう評価してくれるか、どんな反応を見せてくれるかを想像すると、自然と足取りも軽やかになる。


 しかし――


 その日、音楽部は活動をしていなかった。


 音楽室の前まで来て、中の様子を確認した藍とつぼみは、予想外の静寂に包まれた空間を発見することになる。


「あれ?……誰もいないね」


 つぼみの声が、静かな廊下に響く。


「そうね……まだ部活動が本格的に始まっていないからかしら」


 藍も少し拍子抜けした様子で答える。


 せっかくつぼみを誘ったのに、肝心の音楽室が使えないとは思わなかった。


「あ、でも、鍵は開いてるよ?……ちょっとだけなら入ってもいいんじゃない?」


「そうね……」


 つぼみの提案に一瞬迷ったが、藍の心は依然踊ったままだ。


 常識として、授業や部活動などで使用している時間内でなければ、個人でピアノや空き教室を使用することは珍しいことではないし、悪いことでもない。


「……ちょっとだけ、弾かせてもらいましょうか」


 実際、鍵もかけられていなかったことだし、多少ピアノを演奏するくらいでは誰にも怒られないだろうと藍は考えたため、つぼみの提案に乗ることにする。


 こうして――藍は音楽室のドアに手をかけた。


つぼみ(わくわくっ)



作者「9/19 コメディージャンルにて、


[日間]連載中:6、4位、すべて:34、30、25位

[週間]連載中:33位

[月間]連載中:43位

[四半期]連載中:73位


と、たくさんランクインしていました。感謝です、ありがとうございます!

素直に、ジャンル別とはいえ日間一桁はかなり嬉しいですヾ(≧∇≦*)/ ヤッタ~!!!」

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