第3話 フラれたい恋の始まり
春の空。
何とも気持ちのいい天候で、肌をくすぐる暖かい風が、艶やかな黒髪を靡く。
校門を潜ると、たくさんの新入生の姿が見えた。
多くの人間が、新しい生活への期待から緊張しているのがよく分かる。
中には、中学からの友人と談笑し緊張を解し終えている人たちも所々に垣間見えた。
――――しかし、そんなことは野内藍には関係のないことだ。
新しい生活への期待など今や殆ど無く、談笑する仲間もいないため独りで、けども決して卑屈というわけではなく、ただその姿を優雅に見せながら係員のもとへ向かっていく。
そんな藍の姿を男も女も、多くの人間が興味深そうに見ているのがよく分かった。
「ここに通えば何か変わるかもしれないっておばあちゃんに言われたけど……どうやらそんな甘いことは無かったみたいね」
新生活への期待など今は抱いていないが、実は今日ここへ来るまではほんの少しだけ期待していた。
日本有数の高偏差値を誇り、天才奇才の類が集まる名門・私立城才学園高校。
この天才学園なら、藍の容姿や卓越したピアノの腕を見ても誰も驚かないだろうし、むしろ“普通”として扱ってくれるかもしれない。
……なんて甘いことを藍は考えていた。
しかし、そんな淡い希望は、校門をくぐった瞬間、視線の重みで空しくも霧散していくことになったのだった。
「あの子、やばくね?」
「ちょーきれー......何組なんだろ」
「嫉妬されまくりでしょ」
「うわ、俺彼氏に立候補しちゃおうかな」
「あんたなんか相手にされないってば」
最初はその容姿に惹かれ、男女関わらず大体の人間が興味を持つ。
次に起こるのは、男子間での猛烈なアプローチ合戦。
そして、それに伴って女子からの嫉妬による陰湿な嫌がらせの数々が藍の身に襲い掛かってくる。
それは……これまで幾度となく、毎年のように経験してきた通過儀礼のようなものだった。
(今年だけは違う――そう思っていたのに……)
残念な気持ちを抱きながらも、当たり前のようにそれを受け入れている自分がいることに嫌気が差してくる。
(ここでも、何も変わらないのね……)
そんな諦めにも似た気持ちを抱えたまま、列の中で静かに順番を待っていると、
ふと、後ろから三人組の談笑が聞こえてくる。
彼らも藍のことを気にしてはいるが、その他周囲の反応とは明確に違っているものに感じられた。
一体どんな人たちなのだろうと少し気になり、藍は後ろを盗み見る。
そこにいたのは、誰が見ても思わず目を引くほど端正な顔立ちの黒髪の男の子と、金髪にピアスをした、愛らしい雰囲気の男の子。
それともう一人、ぱっと見は小柄で整った顔をした男の子……かと思いきや、よく見ると小さな胸のふくらみがある、ショートカットのブラウンヘアが印象的な、綺麗で可愛らしい女の子がいた。
「ねえねえ天才くんってば、約束破ったらちゃんと肉まん買うんだよ」
「はいはい、分かってますよ。買わないように動きゃいいんすよね、はいはい」
「……なんか僕、財布が寂しくなる未来が色濃く見えてきちゃったよ……やっぱり文音と同じ方に賭けちゃだめかな、かな?」
「急にヒステリックでデンジャラスになりそうなその語尾をやめろ」
耳に届いてくる会話は、そのテンションからもとても楽しそうで、お互いのことを信頼しあっているのが他人の藍にもよく伝わってくるものだった。
(……私もこういう、なんてことのない普通の青春が送ってみたかった)
――――そんな会話を聞いていたからだろうか。
頭の中に、おばあちゃんの言葉がふいに蘇る。
◇
忘れもしない、あれは中学3年生のときだ。
藍が進路の話をしていた時、唐突におばあちゃんはこんな言葉をかけてきた。
――――「藍?……大丈夫?」
きっと、ずっと"嫌がらせ"を受けていることに、気付いていたのだろう。
でも心配させたくなくて……嘘をついた。
自分のためじゃなく、おばあちゃんのために。
「……何のこと?私は全然平気よ、おばあちゃん」
そう答えながらも、藍は自分の声が少し震えているのを感じていた。
「そうね、貴方は強い子だものね……でもね藍、強い人には一際弱い部分があるものなのよ。だから弱さを見せることは恥でも何でもない。むしろ強さの裏返しなの………だから………だから、いいのよ」
だから、いいのよ――――弱音を吐いても。
きっと、そういう意味だったのだろう。
いつでも優しくて、穏やかな時間をくれる大好きなおばあちゃん。
そんなおばあちゃんの言葉に藍は弱かった。
「うん、ありがとう……」
昔から、おばあちゃんにはすごく懐いていた。
そのおかげか、普段はきつめの口調も柔らかくなったのを覚えている。
藍は一度深呼吸をして、ずっと胸に秘めていた本音を紡ぎ始めた。
「あのね、おばあちゃん……私ね、高校では……普通の……うん。……普通の学校生活がいいの。普通に友達と話して、放課後に友達と遊びに行って…………普通に、男の子とお話がしたい……それだけなの」
おばあちゃんの前で、自分でも驚くほどの本音が溢れ出る。
お父さんやお母さんも嫌いじゃない。
藍のピアノの才能を見つけ出し、それを磨くため教室に通わせ、教育もしっかりしながら仕事にも手を抜かない。
教育面で完璧な両親ではあった。
ただその分、仕事で面倒が見切れないことも多く、藍の面倒はおばあちゃんにお世話になる日が多かったのだ。
そういった事情もあり、藍が本音を一番素直に話せるのは、このおばあちゃんだけだった。
「ふふ、藍は男の子と仲良くしたいのね?」
からかっている訳では無い、温かな表情でおばあちゃんが言う。
「………もう、恥ずかしいからやめてよ、おばあちゃん」
それでも、やっぱり恥ずかしかった。
自分の内をさらけだすのは。
「そうねっ、ごめんなさい。嬉しくなっちゃって。……でも、そうねぇ……」
おばあちゃんは何やら真剣に考えたかと思うと、立ち上がって部屋の奥へと向かった。
「あのね、もし藍が良ければなんだけど……おばあちゃんが通っていた高校へ行ってみない?」
「おばあちゃんが行ってた高校?……ってもしかして東京?」
おばあちゃんの出身ということはつまり、藍の父の出身地でもある。
こんな都会とも言えず田舎とも言えない地方都市よりは幾分かマシなのかもしれない―――そう期待が膨らんだ。
「いいえ……東京にはおじいちゃんの仕事の関係で住んでただけ。おばあちゃんとおじいちゃんの行ってた高校はもっとずっと離れたところにあるの」
「そ、そうなんだ……知らなかった……でも、どうしてそこに私が?」
当然の疑問だった。
今住んでいる街近辺で、最もピアノの腕が磨ける高校へと進むことになるんだと思っていたから。
「そうね……ちょっと待っててね」
そう言ったおばあちゃんは、少しして手に新しめのパンフレットを持ってきた。
どうやら卒業生宛てに毎年会報のようなものが届いているらしい。
「――――ここがおばあちゃんの母校?」
「ええ。そうよ。ここでおばあちゃんとおじいちゃんは出会ったの」
私立城才学園高校。
その名前は藍でも聞いたことがある、国内でも有名な学校だった。
確か、成績や能力が高い人は多いが、変人もそれ以上に多いと言われている有名な高校だ。
天才学園なんて呼び方もされていたと思う。
何度かテレビなどで城才出身者の特集などを見たことがあるのを覚えていた。
しかし、どういうことだろうか。
そのパンフレットに書かれた内容はとても普通の高校とは思えないほどに厳しい、どこかの軍隊かと思ってしまうほどのカリキュラムが載せられている。
「ここって……あの有名な城才学園、だよね?……でもなんか……なんていうか……」
イメージと全く違う。
藍がそう言いたかったのを汲み取ったおばあちゃんが話を続けた。
「ふふふ、大丈夫。今もちゃんと噂通りの学校よ。それだけはおばあちゃんが保証できる」
本当だろうか――藍は半信半疑だったが、おばあちゃんが言うならきっとそうなのだろうと信じることにする。
しかし、そうだとしてもおすすめされる理由がまだ藍には分からない。
「…………それで、何でここなの?」
質問の続きをする。
「藍は、普通の……いいえ。今とは違う学校生活が良いのよね?」
「……うん」
藍は小さく頷いた。
「ここはね。……この学校はね。本当に色んな人がいて、色んな才能が集まってくるところでね。そのせいで、世間では変人だらけだって言われてしまってるけど、すごく素敵な環境だったとおばあちゃんは今でも思ってるわ。それにやっぱり、おじいちゃんに会えた学校だから……もしかしたら、藍の言う普通とは違うのかもしれないけど、きっと、藍の生活を変えてくれる場所であることには違いないって思ったの」
「………」
おばあちゃんの含蓄のある言葉を受け止めた藍はパンフレットを眺め黙りこくっている。
その厳格なカリキュラムとは裏腹に、写真に写る生徒たちの表情からは、確かに今まで見てきた学校とは違う何かを感じられた気がした。
「………おばあちゃん」
「なあに、藍」
「………何か、変わるのかな」
藍の声は小さく、切実な思いが込められている。
「ええ……きっと、ね」
「………本当に、ここに行けば、何か変わるのかな」
「ええ、きっと。おばあちゃんを信じてみなさい」
――――こうしておばあちゃんに後押しされた藍は、
何かが変わるのかもしれないという希望を胸に、
城才学園に入学することになったのだった。
◇
――――――「次の人どうぞ」
そんな思い出に耽る時間もそこそこに、気づけば案内は既に藍の順番になっていた。
慌てて前へと進むと慣れない靴で躓きそうになったが、何とか堪え足を進める。
「野内藍です」
「野内藍さんですね、はい、これ、10組です。下駄箱は左端の棚を自由に使ってください」
係員から書類を受け取り、指示された下駄箱の方へ向かう。
(はぁ…今さら嘆くなんて馬鹿みたい……嫌でも通うしかないんだから頑張らないと)
そう気持ちを立て直し、足早に前へと進む。
今でも変わらず嫌な視線が降り注いでいるからだ。
しかしそこで、履き慣れない新品のローファーが段差に引っかかり、バッグから書類がばらばらと落ちてしまった。
「はぁ……」
何をやっているのやら、と藍が溜息をつく。
周囲の視線が一層強くなったのを感じながら、屈んで書類を拾い始めた。
――――その時だった。
「藍、大丈夫?」
「……へ?」
初対面のはずの男子に、いきなり名前を呼ばれ、
藍は思わず間抜けな声を出してしまう。
「あ、ごめんごめん。さっき並んでる時に名前聞こえちゃったからさ」
「え?あ、ああ、後ろに並んでた……」
思い出した。
後ろに並んでいた3人組の黒髪の男の子だ。
見た目はかっこいいけれど、いきなり呼び捨ては正直ちょっと変わっているなと藍は思う。
「そうそう、野内蓮っていうんだ。ほら、苗字同じだから何か苗字で呼ぶの変な感じがしてさ、ははは」
常識的には“さん付け”だろうにと藍は思う。
でも、なぜか嫌な感じはしない。
下心も感じない。
不思議な人だなと思った。
「……そ、そう。それはそうと手伝ってくれてありがとう、もう平気よ、野内くん」
藍は苗字とくん付けで自然と距離を調整して見せる。
遠回しに馴れ馴れしいぞと伝えているのだ。
「え?うんいいよ全然。あ、そうだ。あのさ、藍」
どうやらあくまで呼び捨てはやめないつもりらしい。
全く気にした素振りもない。
本当に変わってる人だ。
「ん?なに?」
一体初対面同士で何の用があるのか、と藍は少し気になってしまったため、気軽に問い返していた。
――――まさかこんなことを言ってくるとは予想だにしていなかったから。
「俺と付き合ってくれない?」
「――――――――――!?」
(──────はい?…………え?なに?今なんて?…………なんて言ったの!?付き合って??)
お互いに恐らく初対面、名前だって今知ったばかり。
少なくとも藍は彼のことをこれっぽっちも知らない。
そんな、開幕1ページ目での告白など、斬新にもほどがある。
(…………落ち着け。落ち着け。落ち着くんだ私)
今まで散々、見え見えの下心やおためごかしをぶつけられてきたじゃないか。
それらと何ら変わりない。
いつも通り、きっぱり断ればいい。
告白なんて、もう慣れっこだ。
告白されそうな雰囲気を感じた時は、あからさまに冷たくしたり、男子を寄せ付けないようにしたりと、努力だって重ねてきた。
今回も同じ、それだけのはず。
なのに――
自分の目の前にいる野内蓮という男。
この男の顔には、あの手の下心も期待も見当たらないように思えて仕方なかった。
むしろ"フラれて当然"みたいな、悟りきったような爽やかささえある。
そんな、フラれる気満々の相手を前にして、何故かイラッとしている自分がいるのも嫌な感じだ。
今までの経験から藍は、
誰かに見られるたびに”この人は何を考えてるのか”、
”どこに下心があるのか”と、頭の隅で警戒する癖がついている。
最初はこの男も、ただ顔が良いだけで、その内面は汚い下心で満載なんだろうと考えていた。
しかし、目の前の蓮には、そういう雑味が微塵も感じられない。
あまりにも無防備で、むしろ困惑するほどだ。
(…………まさか、本当に最初から“フラれるつもり”で告白してきてるの?)
藍は思考の末に、そう結論付けるしかなかった。
この男は”野内藍と付き合っている”ということよりも、
”野内藍に告白したけどフラれた”という事実が欲しいのだという結論を。
この無謀な告白に対し、当然のように藍が断れば、“恋に破れてもまだ未練を引きづっている男”として女避けの正当性をゲットできる。
見てくれは良いだけに、相当にモテてきたことだろう。
それと同時に色々苦労してきたのであろうことが、その顔からは十分に読み取れた。
この男は、もしかしたらOKされるかもという可能性なんて、最初から眼中にないのだ。
自分の計画通りの未来が来ることを信じている。
きっと――――
『野内藍に告白→フラれる→自由の身!』
なんてお気楽なシナリオを描いているに違いない。
(ふざけてる……)
そんな思考に至った藍の頭の奥で、小さなスイッチが入る。
(私にフラれることで、自由の身になる?……そんなの、都合が良すぎるでしょ)
本当は藍だって普通の学園生活がしたかった。
しかし、きっとそれは叶うことがないだろうと既にどこかで察してしまっている。
なのに、また誰かに便利な役を押し付けられて、気が付けば悪者扱い、孤立まっしぐら――そんな地獄、もう二度と御免だった。
………だったら、どうすればいいのかと、藍はその脳みそを全力で回転させる。
――――何か。
――――何か手はないか。
――――この男の思惑を打ち砕く方法は。
――――そして、自分が得をする方法は。
(――――――あ、そうか)
その瞬間、頭の中に、一筋の光が走った。
(私が付き合ってしまえばいいんだ)
蓮の“フラれるための告白”を、真逆にひっくり返す。
そうすれば藍も男避けができるし、お互い様だ。
一瞬の閃きだったが、藍にはこれが最良の選択に思えた。
ただし、これにも一つ問題がある。
藍は当然、これっぽっちもこの男と付き合いたいなんて思っていないので、別れる方法についてのことだ。
(私からサクッと振っちゃえばいいんじゃ?…………いや、それはダメね)
藍が振る側になった瞬間、また周囲からは謂れのない"あの女が悪い"という構図が完成してしまう可能性がある。
それだけはどうしても避けたい。
それに加えて、藍から振ってしまえば、蓮は未練がある風を装って、女避けに藍のことを使い続けるとも思った。
それも絶対に許せない。
――――ならば、どうするべきか。
藍の出せる答えは一つだけしかなかった。
(――――彼に私を嫌わせて、必ず彼の方から別れを切り出させる)
これしか、ない。
藍が別れを言い出した形には絶対にしない。
それでいて、女避け・男避けのメリットだけはしっかり享受させてもらう。
無傷での勝利を狙うなら、これが最善の策で間違いなかった。
――――完璧な計画だ、と藍は内心で確信する。
「…………えっと、返事はいかほどで?」
のほほんとした催促が飛んでくる。
フラれ待ちとは本当にいけ好かない男だ。
見てくれは良いだけに、その魂胆に余計に腹が立ってくる。
(……まぁ良いわ)
この返事を聞いたとき、その余裕顔がどう変化するのか。
藍はそれだけが非常に楽しみで仕方が無い。
無自覚だが、この状況がさっきまでの後ろ向きな思考など完全に一掃しており、久しぶりに藍の中で勝負心に火が付いていた。
「ええ、ごめんなさい。ちょっとだけ………いや大分驚いてしまって……」
「ははは、そりゃそうだよね」
「えっと……その……返事なんだけどね」
藍はまるで、これから当然振るような、じれったく、申し訳なさそうな振る舞いをこれでもかと見せつける。
もちろんこれは、彼を天国から地獄へ突き落とすようにするための演出だ。
「よし、どんとこいだぜ」
そんなことなど与り知らない蓮は、
その言葉どおり、軽くお辞儀みたいに身を屈めて、手まで差し出してくる。
(………本当に、フラれる気満々なのね)
藍は内心で呆れながらも、最後の演技を始めた。
「うん………その……じゃあ…………」
蓮はビクともしない。
やはり緊張なんてしていないようだ。
(……もう少し…………もう少しよ………)
藍は焦らすように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…………えっ…と、……………よろしくお願いします……」
「……え?いいの?」
……それは計算通りの反応だったけれど、思っていたより動揺が少なく、心の中で静かに肩透かしをくらった気分だった。
少し拍子抜けした気持ちはあったが、それでも藍はこの決断に後悔を感じることはなかった。
――――――しかし、この決断により藍は、
”自分からは絶対にフラない嫌な彼女”を入学早々から演じなければいけなくなってしまったのだった。
藍「応援よろしくお願いします……」




