第18話 トイレの賢者
――――時間は少し遡る。
入学式が終わり、生徒会長からゲームの説明がされている頃。
そんな中で、俺――野内蓮は講堂の外にあるトイレに籠っていた。
その頃説明されているルールは当然、ゲームのことすらも知らないままに。
「はぁ………早速目立ってしまった……」
個室の中で、俺は便座に座ったまま天井を見上げる。
別に用を足しているわけじゃない。
ただの現実逃避、雲隠れというやつだ。
天井の板は豪華な校舎などとはちぐはぐに安っぽい合板で、継ぎ目から微かに隙間風が入ってくる。
それに、講堂の外に設置されたトイレだから空調なんて当然ない。
それでも、今の俺にとってはここが一番落ち着ける場所だった。
入学早々、それも初日の午前中には俺が目指していた普通の学園生活からかけ離れている気がしてならない。
朝の告白から始まって自己紹介での騒動まで、何もかもが予想の斜め上を行く展開の連続だった。
思い通りにいかない展開に、ストレスからか胃がキリキリと痛んでいる。
「それにしても、ここはいいなー……落ち着く……」
なんて独り言を呟きながら、俺は――このトイレにたどり着いた経緯を思い返す。
俺は入学式が始まる直前ギリギリで講堂の前へと到着していた。
講堂の中へは入学式が始まってしまったら入れないと事前に先生から聞いていたので、全力で間に合わせた。
つまり、式が始まる前に到着していた俺は中に入り出席することが可能だったのだ。
そう――恐らく誰も間に合わないであろう10組のうち……俺だけ。
(……よし、何とか間に合ったー。さ、早く中に入ろう………いやいやいや、ちょっと待てよ)
そこで俺の中の賢い俺が異を唱えた。
(一人だけ入学式に出るって……わざわざ目立ちに行くようなもんじゃないか?)
それはつまり、今はまだ10組だけで済んでいるのに、全校生徒に「俺だけ浮いてます!」って看板を背負いに行くようなものだ。
いやもう、そんな悪くなる未来しか見えない。
(――――ここは退くが吉、だ!)
俺の素晴らしい判断力がそう告げている気がしていた。
そんなこんなで、逃避行を敢行することにした俺は意味もなく講堂周りをブラブラと散策していたのだが、その時に偶然見つけたのがこの人気のなさそうなトイレだったというわけだ。
ここは良い。
最高だ。
講堂の中にはもちろん綺麗で整備されたトイレがいくつかあるだろうし、空調も効かないような外に設置されているトイレになんて誰も来るはずがないだろうと思えることが、すごく良い。
場所自体は講堂から目に入るところにあるのだが、わざわざトイレに行くためだけに足を運ぶことはないだろう場所。
周りの建物と比べると明らかに古い建物で、おそらく講堂建設前から存在していた名残なのだろう。
壁は薄汚れたコンクリートで、床のタイルも所々欠けている。
お世辞にも快適とは言えない環境だが、だからこそ人は来ないだろう。
俺にとっては理想的な隠れ家だった。
「ふう……入学式もそろそろ終わるころかなー。なら俺も目立たないように出て行かないと」
そう呟いて座っていた便器から腰を上げる。
さすがにいつまでもここにいるわけにはいかない。
必ず俺がいないことが問題になる時間がやってきてしまうからだ。
だからさっさと出て行こうとしたのだが、ここで一つ、俺の中で疑問が浮かぶ。
「…………どこに行けば?」
そう――
今の俺は全校で目立たないよう一人で入学式をサボタージュをかましてしまったが、10組が今教室にいるのか分からないのだ。
「うーん、教室か?……いや、講堂?……ていうか、そもそも俺が今から行くとなると……」
こういう自分の保身なんかに走るときに、俺の貧弱な脳みそは一番フル回転する。
遅れたら中に入れてもらえないとは聞いていたが、それは単に厳しい言葉ってだけで実際は入れてもらえてる可能性がここにきて捨てきれなくなってきた。
――とりあえず教室に行って、皆がいなかったら講堂に戻ってくる?
……いやいや、それだともし教室に皆がいなかったら、帰ってくる他クラスに逆走中の俺が鉢合わせそうだしダメだ。
他のクラスの生徒たちに「なんであいつだけ逆方向に?」なんて思われるのは避けたい。
――じゃあ講堂に行こうか?
……いやいや、もう入学式終わるだろうし中には入れないでしょ絶対。しかも中にいなかったら余計注目集めそうだし。
第一、講堂の前で一人ウロウロしている姿を誰かに見られでもしたら、それこそ不審すぎる。
「…………もう少しここにいようか」
結局、今外に出ていくのは俺の中でリスクが高いと判断する。
だって仕方ないじゃん……
どっちに行っても地獄なんだもん……
こうして俺は、サボタージュを継続することを決め込んだ。
◇
しばらくすると、トイレの外、講堂の方から人の声が聞こえてきた。
入学式直後とは思えないほどに騒がしい。
足音も尋常じゃない。
まるで何かに追われているかのような、慌ただしい足音が連続して響いてくる。
何やら、トイレ横にある講堂から教室棟へと続いている通路を大勢が走り抜けて行っているようだ。
……普通、入学式が終わった後って、もう少しゆったりとした雰囲気になるものなんじゃないの?
(え?何?ほんとなんで皆そんな急いでるの?…………まあ、俺には関係ないことか、どうせ)
それに、これはこちらからすれば非常に好都合。
出るなら間違いなくここがチャンスだ。
渡りに船?だっけ。
まさにそんな言葉が合いそうな気がする状況だった。
大勢の足音に紛れて移動すれば、俺一人が合流したところで目立たない。
この混乱に乗じて自然に教室まで向かえるだろう。
そう思い、便座から腰を上げ扉を開けようとしたのだが――
「ふう、こんなところにトイレがあって助かった」
誰かが足早にトイレに駆け込んできた。
「――――って誰か入ってる!?」
俺が既に個室に入っていることに驚いている。
こんなところにあるトイレが使用されているとは思わなかったのだろう。
それも大の方が。
声の主は相当切羽詰まっているようで、息が荒い。
きっと講堂から全力で駆け込んできたに違いない。
「た、たのむ!!代わってくれ!」
「…………」
その必死な問いかけに、俺は無言で応答する。
(危なかった……)
俺はしれっと人ごみに紛れて10組の教室へと帰るつもりだ。
誰にも注目されてはならないし、こいつにここで会ったという事実さえ残したくない。
そのためにも、目の前の人物が立ち去るのをただひたすらに待つことにする。
もちろん若干申し訳ない気持ちもあるよ、うん。若干ね。
「お、おい!!誰かいるんだろ!?聞いてるのか!?た、たのむ、おおおお……やばいやばい、ほんとたのむ……よ……あ。」
相当やばかったのだろう。
その途端、激烈に嫌な臭いと音がしてきた。
(うわぁ……こりゃキツイ……)
随分と他人事な感想を抱く。
鼻をつまみたい衝動に駆られるが、ここで音を立てるわけにはいかないため何とか堪える。
「ああ……またやっちまった……今日だけで2回……」
とぼとぼと、出口の方へと歩いていく足音が聞こえてくる。
そして、ジャージャーと水道で何かを洗っている音がしてきた。
(え、ちょっと待て。お前まさか今朝の……)
登校直後に聞こえてきた残念な声に似ている気がして、脳裏に同一人物疑惑が浮かんでくる。
……まぁ、どうでもいいか。
俺には俺の事情がある。今はとにかく、この場から静かに立ち去ることだけを考えよう。
しばらくすると、その足音がトイレから遠ざかっていくのが分かった。
「……ふう。あぶなかった」
安堵の溜息をつく。
危機を逃れた(あいつは逃れてない)ついでに、ここも臭くなってしまったことだし、
奴が十分離れたタイミングを見計らって出ることにしよう。
それにしても、こんな辺鄙な場所のトイレに人が来るなんて、よほど切羽詰まっていたのだろう。
講堂内のトイレは満員だったのかもしれない。
入学式なんて大人数が集まるイベントだから、そういうこともあるか……
そうして1分ほど経った頃――
「そろそろかな……」
扉を開けようと手を掛けたときだった。
「ふー!駆け込みセーフ!しょんべん漏らしちまうとこだったよ俺」
「でっけえ声でしょんべんしょんべんうるせぇんだよさっきから!とっとと済ませろ!」
またもや誰かがトイレに駆け込んできた。
そのせいで、再び俺の動きが止まってしまう。
しかも、今度は二人らしい。
(いや……もういいか…堂々と出てけばいいだけじゃん俺)
そうだよ、その通りだよ。
実を言うと、注目云々というよりも、単にトイレの大の方から出ていくのを誰かに見られるのが普通に恥ずかしかった。
そんな思いからさっきは出れなかったんだ。
俺ももう高校生なんだし、何も恥ずかしがることは無いじゃないか。
だって、生理現象だよ?
いや、ていうかそもそも俺してないし……
知らない奴らに少しだけ見られるだけで済むならそれでいいじゃないか。
よし、3秒数えたら出よう。
……よーし、行くぞ。
(3……2……)
……1というタイミングで、トイレに入ってきた二人が小さい声で話始める。
「……(おい、はやくしろよな、ここやたらくせえんだよ)」
「(ばかお前、ガキじゃねえんだから静かにしろよ)」
(――――――恥ずかしくて出れねええぇぇぇ………)
やっぱり無理だった。
だって、臭いって言われてるし。
……いや、だから俺じゃないんだってば。
さっきの奴のせいなんだってば。
でも、そんなこと説明できるわけもなく、俺は臭いの犯人として認定されてしまう。
こんな第一印象で誰かに覚えられるなんて、絶対に避けたい事態だ。
こうして俺は再び、ここに籠城することになるのだった。
◇
俺が恥ずかしさからトイレに縛り付けられてしまっているうちに、あの二人は出て行ったのだが、その気配が消えるのを待っているとまた別の誰かがやってくる。
そして、またその誰かがいなくなるのを待っているとまたまた別の者がやってくる。
――そんなことを繰り返していた。
「なんで……こんな辺鄙なトイレにみんなして来るんだよ……」
もう俺は完全に便器と同化していた。
例え話しかけられようとも沈黙を貫き、絶対に声が聞かれないようにする。
次に学校で会ったときに、心の中でだったとしても俺がトイレにずっと籠っていたやつだと思われたくないからだ。
杞憂かもしれないが、そんなことが心配になってしまうのが俺なのだ。
それに、ここまで来るとトイレから出るタイミングを完全に見失ってしまっている。
最初はほんの軽い気持ちで隠れていただけなのに、今や本格的な引きこもり状態になってしまった。
人が来るたびに息を殺し、足音が遠ざかるのを待つ。
段々と時間の感覚がおかしくなってきた。
もう何時間ここにいるような気さえする。
そしてそんなことを繰り返しているうちに、外が急に静かになったり、また騒がしくなったり、またまた静かになり騒がしくなったりした。
一体外で何が起こっているのだろうか。
トイレに来る人たちの会話から、急いでいることだけは確かなようだが、それ以外の情報は何も得られなかった。
今は警戒心から、容易に外に出られなくなっている。
大体、学校でトイレ(大)から出るタイミングって難しいんだよ……
外がザワザワしている時は恥ずかしくて出ていけなかったし、いざ静かになったから出ようと思うとすぐにまた騒がしくなる。
それに、ここは講堂近くのトイレだから、教室まで行くのにそこそこかかってしまうため、10組のうち俺だけが入学式どころかその後のHRすら遅刻状態、サボタージュ状態という現実に気づいてしまっていた。
(あれ……これって……)
……結構詰んでるんじゃ?
嫌な現実から逃げ出した先にあったのは、またもや注目を集めてしまう嫌な現実だった。
ただ10組で浮くだけなら俺もここまで嫌がっていない。
だってそれはもう目立ってしまってるんだから今更なことだ。
それだけならもう割り切れるのだが、今から10組まで行くには絶対に1~9組の視線に晒されることになってしまうため、それがどうしても嫌でずるずる引っ張ってしまっていた部分がある。
しかも、時間が経てば経つほど状況は悪化する。
他のクラスは既にHRに入っているかもしれない。
そんな中を一人で歩いていく姿を想像するだけで胃が痛くなる。
……ああ、もう今日はこのまま皆が帰るのを待って明日しれっと登校すればいいかな。
なんて自分の中で新たな現実逃避方法を画策しているうちに、気が付けば外はすっかり静まり返っていた。
「流石にもう、皆教室に帰ったのかな?」
……あとどのくらい待てば寮に帰ってくれるのかな?
とか考えていると、突然校内放送の音が耳に入ってくる。
『3年生全生徒が揃いましたので――』
そんな放送が遠耳に聞こえてくる。
「お、なんか発表してる」
耳を澄まし、出来るだけ放送の内容を聞き取れるよう細心の注意を払う。
外の情報がない今の俺にとって、全校放送は大事すぎる情報源だ。
……しかし思いの外、放送自体は短く、すぐに終わってしまう。
内容は全く理解できなかったのだが、その文言は、外の状況が自分にとって更に嫌な状態になっていることを予感させるものだった。
「……………え、もしかして……なんかやってる?」
なんか……もしかして……
いや、もしかしなくても……
「………全生徒が揃わないといけないゲーム的なの、やっちゃってる……?」
なにそれ……知らないんですけど。
聞いてないんですけど。
え、これって俺いなかったらやばいのか?
俺は現実逃避を遮る想像もしていなかった事態にあくせくしていた。
(いやいや待て待て……落ち着け俺)
……いや、さすがに、体調不良だったとか適当な言い訳すれば、俺一人くらいいなくても大丈夫なんじゃないの?
そうだよ。
ゲーム的なものだとしたら全員強制参加なんておかしいし、いくらなんでも体調不良者を待ち続けるなんて馬鹿なことしないだろう。
大丈夫大丈夫。
このままやり過ごせば大丈夫。
すぐに2年生と1年生も発表されるはずだ。
――そうやって無理矢理自分を説得し、引きこもりを継続しようとする。
しかし、10分ほど経過しても放送がかかることは無い。
10分などまだまだ放送を待っていても問題ないような時間だったのだが、ここで俺はふと別の考えに至ることになる。
この10分は俺にとって、体感にして1時間にも及ぶほど濃縮された長い長い時間だった。
その間を利用し、俺は今の自分が最も目立たない作戦などを改めて考てみることにしていた。
最初は真面目に考えていたのだが、特にこれといった名案も浮かんでこないので、そのまま滔々と思考は巡り、寮生活が始まる初日である今日のご飯はどうしようかな、なんてどうでもいいことを考えていると、
そこで思考が現状についての考えに戻ってくる。
このまま来るかも分からない放送を待ち続け姿をくらまし、明日になったらしれっと登校をする。
さっきまではその方針で思考は固まっていて、だから今もこうしてトイレに籠っている。
が、しかし、もうそこそこな時間が経っているというのに放送がかかる様子が全く無い。
――ここで、考えたくなかった、目を背けていた当初の疑問に立ち返った。
……もし、もしだ。
俺が戻らないという理由だけで、今、1年生全員が待機している状態なのだとしたら。
……もし、今行われているゲーム的なやつが、俺を含めた全員強制参加のものだったとしたら。
という可能性。
「…………っ」
落ち着きを取り戻しかけていた胃の痛みが再発し始める。
(やばい……これは、本当にやばい!)
そうだとすると、今の状態は俺にとって非常にまずい。
全員の時間を奪った戦犯として、学年中から悪すぎる注目を集めてしまうからだ。
最初はそんなわけないだろうと目を背けていた可能性が、ここにきて俺の中でもはやそうとしか思えないほどに膨れ上がっている。
「……えじゃあ、これから俺はあの遠い教室に絶対向かわなくちゃいけないってこと?」
何?……俺が注目を集めるのは、絶対ってことなの?
どうやら、わざわざ避けてきたというのに、同じ道に再び出くわしてしまったらしい。
――俺という奴は、人生の方向音痴すぎるんじゃないだろうか。
こうなってしまっては、恥ずかしい思いをしてでもなるべく早く教室に帰るのが最も軽傷で済む選択肢だ。
今すぐに行動を起こすしかない。
「うっ……胃が……胃が痛い……」
自分の意識は覚悟を決めようとしているというのに、それでも身体は言うことを聞かない。
あと少し……
もう少しだけトイレにこもっていよう……
そうやって、「あと少しくらいなら大丈夫」と小声で呟きながら、
ただの逃避行だったものが、雪隠詰め状態になっていることに気付き、男は吐き気を覚えていた。
蓮「ほんと、やんなっちゃうよね人生……」
蓮「みんな……応援してね……俺の人生」