最終話
時は春、光は温かく、レイフォード公爵領の庭は青と緑に満ちていた。
香しいハーブと花々の香りが風とともに漂い、鳥のさえずりが優しく包み込む。
その中心で、リディア・レイフォード公爵夫人は銀の籠を手に、手際よく乾燥ハーブを選別していた。
――かつて“呪われた公爵令嬢”と呼ばれた彼女が、レイフォード公爵家に嫁ぎ、この春で6年が経った。
彼女は今や、多くの領民に深く信頼される聖女であり、公爵夫人であり、母である。
庭の奥から明るい声が聞こえた。
「ママー、見て!」
振り返ると、息子の小さな姿。ルカ・レイフォード、4歳。
彼は春の陽射しを浴びながら、花壇の間を駆け抜け、手にした蝶を嬉しそうに見せつけてきた。
「まあ、きれい……ルカもお花も、どちらも素敵」
リディアはゆっくりと膝を折り、息子の目線に合わせて手を伸ばす。
「お花が好きなルカに、生まれてきてくれてありがとう」
ルカは笑って蝶を彼女にそっと差し出した。
その瞬間、背後からレイフォード公爵・カイルが静かに近づき、そっと並ぶ。
「公爵夫人としての顔も、母としての顔も……どちらも美しいな、リディア」
彼の言葉に、彼女は柔らかく微笑み返した。
「カイル、ありがとう。けれど、どちらの顔も“私そのもの”よ」
そこにあるのは、飾らない自分。過去の呪いも苦しみも、すべてを受け止めたうえでの今だった。
するとカイルは、そっと彼女の手を取り、庭のベンチへと促した。
季節の花々が風に揺れ、川のせせらぎが遠くで聞こえる。
ふたりはただ寄り添い、互いの温かさを確かめ合うように静かに時間を共有した。
──そのしばらく後。
レイフォード城では、緊急の知らせが届いていた。
南の領域で地震が起き、古い村の教会が損壊し、負傷者が出ているという。
官吏たちは公爵夫人に支援を要請した。
召集された村人たちの前に、リディアは白い聖女の衣をまとって立った。
小さな杖を取り出し、ゆっくりと結界を張る――その色は、春の陽光を映すように柔らかいブルーだった。
細い声が空へと染み入り、倒れた屋根や壁に魔法の力が触れる。
教会の壁はひび割れがゆっくりと修復され、負傷者たちの痛みは和らいでいった。
これは「聖女リディアによる、自らの意志からの奉仕」であり、
王太子の命令や指示ではない。
村人たちは涙を流し、彼女の足元に跪く者もいた。
リディアはそっと杖を下ろし、そのままゆっくり深く一礼した。
村長の男が涙ながらに呼びかけた。
「本当に……ありがとうございます、レイフォード公爵夫人様――聖女様!」
その言葉を聞きながら、リディアは胸に、満ち足りた幸福をそっと抱いた。
──レイフォード公爵領へ戻る道。
カイルが肩からケープをかけ、彼女の手を取り歩いた。
「リディア、聖女としての姿もとても美しいよ」
彼の声には確かな誇りがあった。
「カイル……私、あなたがいてくれて、本当に良かった」
リディアの瞳は澄んでいた。
その心には――「私は私でいい」と感じられる光が灯っていた。
公爵夫人として、妻として、母として、聖女として生きる日々。
そのすべてをこなしながらも、心の奥底ではしっかりと「自分自身」を愛せている。
リディアは今日も穏やかで幸せだ。
深呼吸をし、リディアは空を見上げた。
春の風はこれからも続く。
花咲く季節とともに、彼女の物語もまた、新たに続いていく。
──終。