第7話
春の陽が傾きかけた午後、聖堂は静かだった。
白い壁に干された薬草が乾いた香りを放ち、
窓際にはリディアとカイルが並んで立っていた。
「このタイム、香りがいいわ。昨年よりずっと豊か……」
「乾燥させたら調合に使える。咳止めの新しい処方に加えようか」
淡々と交わす声は、穏やかな日常そのものだった。
あの夜から数日──リディアは変わらずここで、
病人を癒やし、薬を作り、聖女としての役目を果たしていた。
けれどその静寂を、重たい靴音が破った。
聖堂の扉が、きぃ……と古い音を立てて開かれる。
「リディア……!」
呼び慣れた声。
けれども今は、どこか違って聞こえた。
リディアが振り向くと、
そこには王太子ユリウスがいた。
夜会での華やかな衣装ではなく、
簡素な外套と礼装にもならない騎士のような服に身を包んでいた。
その姿が、彼の心の乱れを語っていた。
「……どうしてここに」
リディアの声は、静かだった。
驚きも、怒りも、嘲りもなかった。
ただ、過去を思い出さないようにするような、
傷を押さえるような穏やかさで──
「話がしたくて……どうしても……リディア、俺は──」
言葉が続かない。
こんなふうに言葉を詰まらせたのは、何年ぶりだろうか。
「知ってしまったんだ。……あの夜、君が俺の呪いを引き受けていたこと。
そして、婚約を破棄されてもなお、黙ってそれを背負い続けてくれていたこと……」
リディアの手が止まる。
カイルがそっと立ち上がり、離れようとしたのを、リディアが目だけで制した。
「……知ってしまったのですね。」
「あの、それで……あの夜……君が聖女として覚醒して、美しくなったとき……
どうしてだかわからないけど、俺の中の何かがふっと消えた気がした。
……まるで、ずっとまとわりついていた何かが、解放されたみたいで──」
ユリウスの声は震えていた。
それは、十年前に王子としての立場を背負ってから、
一度も見せたことのない表情だった。
「そして……気づいた。
俺は君のことを誤解していた。
アリシアの言葉も笑顔も、全部うわべだけだった。
本当に俺を救ってくれていたのは、君だった……」
リディアはゆっくりと口を開いた。
「それでも、私は何も言うつもりはなかったわ。
助けたことも、呪いを引き受けたことも。
それは、私が“あなたを好きだった”という、ただそれだけの理由からしたことだったから」
その言葉に、ユリウスの肩が揺れる。
彼女の“好きだった”は、もう過去形。
「どうか俺の元に戻ってきてほしい。……もう、遅いのか?」
「……ええ」
リディアは微笑んだ。
それは、あの夜、聖女として微笑んだときと同じ、優しくて凛とした笑顔だった。
「私はもう、戻らない。
カイル様だけが、呪われた姿の私を見ても、好きだと言ってくれた。本当の私を見ていてくれた。
カイル様が私の醜さも弱さもそのままの私を愛してくれたから──私は“今の私”として生きていけるの」
ユリウスの足元が崩れるような感覚に襲われた。
なぜ、なぜそれを自分にはできなかったのか。
リディアをよく知っていたはずの自分が、なぜリディアの苦しみを支えなかったのか。
「……ごめん」
そう呟く彼の声は、まるで風のように弱く。
けれど──その言葉に、リディアは首を振った。
「“ごめん”は、謝罪ではなく後悔を慰める言葉。
私には、もう必要のないものよ。……私は、もう大丈夫だから」
そう言ってリディアは背を向けた。
聖堂の扉の先に立つカイルが、彼女を迎えるように手を伸ばしていた。
リディアは振り返らなかった。
その背中を見つめながら、ユリウスはようやく理解した。
リディアはもう、自分を愛していないことを。
──そして、自分は、もうリディアの隣には立てないのだと。