第6話
大広間の光が、リディアを中心に揺らめいていた。
12時の鐘が鳴った瞬間、彼女の身体を包んだ蒼白の光は、
まるで聖女としての祝福のように穏やかで、けれど抗いがたい神性を湛えていた。
王太子ユリウスは、その変化を息も止めて見つめていた。
黒く染まっていた肌は白磁のように清らかに戻り、
赤い魔眼は透き通る翡翠色へ。
顔の半分を覆っていた呪いの紋様は消え、美しい面差しが浮かび上がる。
その瞬間、ユリウスの胸の奥が、ふっと軽くなった。
何かが、音もなく──抜け落ちたような感覚。
(……あれ……?)
自分の中にあった何か、重く鈍い痛み。
長年まとわりついていた霧のような違和感が、突然消えたのだ。
理解できず戸惑う中で、気がつけばリディアの姿から目が離せなくなっていた。
その佇まい、微笑み、まなざし。
かつては傍にいて当たり前だったものが、いま遠くに感じられる──それがなぜか、苦しかった。
「……リディア……」
無意識のうちに、彼はその名を口にしていた。
隣に立つ婚約者、アリシアが驚きに目を見開く。
「……今、誰の名前を……?」
ユリウスはハッとして視線を逸らしたが、
アリシアはしっかりと彼の反応を見ていた。
その顔に、形の整った微笑がひび割れる。
彼が見ていたのは、ドレスの煌めきでも、聖女という肩書きでもない。
ただ、自分のすぐ近くにいた“誰か”の、失っていたはずの面影だった。
*
夜会の終盤、大広間の片隅。
カイルとリディアが寄り添って静かに話していた。
「……それでよかったの。王太子殿下には、何も言わずに」
「……本当に? 君があれだけの代償を──あの時の呪いを、全部自分で引き受けておいて……」
「言ったら、意味がないもの。誰かを救うのに、見返りを求めたら、それは“力”じゃなくて“取引”になってしまう」
「……変わらないな、リディアは」
──その会話を、偶然耳にしてしまったのは、ユリウスだった。
柱の陰に立ち尽くし、二人の声に、足も心も動かせずにいた。
(……呪いを……俺の……代わりに……?)
脳裏に、あの夜がよみがえる。
王族である自分にかけられた“誰にも明かされなかった呪い”。
息ができず、意識が遠のき、命が尽きようとしたその瞬間。
気づけば助かっていて、傍にいたリディアの顔には──
思い出した。
あの赤い魔眼、あの黒い紋様。
(まさか……本当に……)
全身に冷たい何かが流れ込んできた。
リディアは、婚約破棄されたあとも──呪いを背負い続けていた。
自分に一言の文句も言わず、ただ黙って、遠くに去っていった。
そんな彼女を、見下し、忘れ、アリシアを選んだ自分。
(……俺は……大切な人を失ったんだ……)
後悔は、ゆっくりと、だが確実に心を蝕んでいく。
*
アリシアが戻ってきたユリウスの表情を見て、問いかけた。
「どうかしたの? ……なんだか、顔色が……」
ユリウスは答えなかった。
だがアリシアにはわかった。
その目は、自分ではなく──まだ、あの女を見ているのだと。
彼女は口元をかすかに歪めた。
(なぜ……なぜ今さら……)
計算し尽くした笑顔も、王太子の隣に立つ自負も──
今、この瞬間、リディアの輝きの前には何の意味もなかった。
そして、ユリウスもまた──
かつて自分をまっすぐに好きでいてくれたリディアという存在を、
“打算も見返りもない愛”というものを──
取り返しのつかない形で、手放してしまったことを、知ったのだった。