第4話
北の果て、風の強い高地に建つ古びた聖堂──
そこにリディア・ヴァレンティアは身を寄せ、静かに生きていた。
王都を離れて、ちょうど一年が経つ。
貴族の華やかさも、噂も、誰かの視線も届かないこの場所で、彼女はただ、癒しの力を行使しながら、静かに日々を積み重ねていた。
そして──その一年間、彼女のもとに通い続けた男がいる。
カイル・レイフォード。
彼は最初の訪問から、何度も聖堂を訪ね、季節が変わっても去らず、
今では村の人々と同じように薪を割り、井戸を修繕し、聖堂の離れに寝起きしていた。
「リディア、これ干し終わった薬草。次はこの分量で合ってるか?」
「……いつの間に裏庭へ? カイル様、服が泥だらけですよ……」
「気にするな。俺の特技は“汚れる貴族”だ。君の薬の精度には敵わないから、肉体労働は任せてくれ」
軽口と共に、彼は“当然のように”彼女の隣にいた。
優しさでも同情でもない。ただそこにいてくれるという事実が、リディアには何よりも重たく、ありがたかった。
それでも、心の奥底には常に恐れがあった。
この醜い姿を、どこまで受け入れてくれるのだろう。
彼の言葉を信じてしまって、また失ってしまったら──そう考えて、踏み出せないでいた。
ある夜、薪の炎がゆれる聖堂で、リディアは意を決して口を開いた。
「……どうして、そんなふうに自然でいられるのですか?」
カイルが振り返る。
「私のこの姿を見ても、昔と同じように……どうして、そんな目で見てくれるんですか」
顔の左半分を覆う、黒い蔦のような呪いの紋様。
真紅に染まった左目、冷たく青白い肌、黒ずんだ指先──
この“異形”を、彼は一度たりとも、目を逸らさなかった。
カイルは立ち上がり、ためらいもなく彼女の隣に座ると、そっと答えた。
「君が、何も変わってないからだよ」
「……変わりました。顔も、声も、人からの目線も──全部、変わってしまった」
「それでも、俺にとってはずっとリディアだ。俺が好きだった、優しくて、賢くて、でも誰よりも自分に厳しい、あのリディアのままだ」
その言葉に、リディアの心がわずかに震える。
「でも……私は、王太子殿下のことが、ずっと……」
「知ってるよ。それでも俺は、君の傍にいたいと思った」
リディアは思わず問い返した。
「なぜ……? なぜ、そんなふうに……。私が、王太子殿下の呪いを肩代わりしたことすら、話してないのに……」
カイルは少し驚いたように目を見開き、そして静かに微笑んだ。
「……覚えてないかもしれないけど、あの夜、俺はすぐ近くにいたんだ」
「……え?」
「君が倒れるのを見た。王太子が息を吹き返し、君の顔にあの紋様が浮かぶのを。全部、見てたんだ」
リディアの胸に、強い鼓動が走る。
あの夜、誰にも知られなかったと思っていた。
誰にも届かないと思っていた祈りと覚悟が、実は誰かに届いていた──
「どうして、話してくれなかったの……?」
「君が黙っていたから。俺が勝手に喋るわけにはいかないと思った。でも……ずっと昔から、君のことが好きだった。」
リディアの目に、熱いものがにじむ。
誰にも肯定されなかった“今の私”を、
誰にも知られなかった“過去の私”を、彼はずっと見つめ続けてくれていた。
「……それでも、私を……」
声が震える。
「こんな私でも、あなたの隣に立っても、いいのなら……」
その瞬間、カイルは迷いなく彼女を抱きしめた。
冷たい肩を、震える背を、そっと両腕で包み込む。
「ありがとう。俺は、君がどんな姿でも好きだ。ずっと……ずっと。初めて出会った時から。」
涙が静かに、リディアの頬を伝った。
それは呪いでも悲しみでもない、初めての“救い”だった。
その夜、彼女は初めて、“呪われたままの姿”で、誰かに心から抱きしめられた。
──そして明日。
リディア・ヴァレンティアは、二十歳の誕生日を迎える。
すべてが変わる奇跡が、彼女のもとを訪れようとしていた。