第3話
王都を離れ、北の辺境にある小さな聖堂に身を寄せたリディアは、静かに日々を過ごしていた。
訪れるのは、怪我を負った兵士、病気の子供、あるいは村の老婆たち。
リディアの手に触れられた者たちは、皆、癒されていった。
それでも、彼女は決してその顔を晒さない。
長い黒髪を垂らし、紗のヴェールをかけ、微笑を浮かべている。
「呪い……か。たしかに、この姿を見れば、誰も聖女だとは思わないわね」
鏡に映る自分を見て、リディアはそっと目を伏せた。
蔦のような黒い紋様は、年月を経てさらに深く、しっかりと肌に根づいていた。
左目は紅く輝き、指先は不気味に黒ずんでいる。
そんなある日、聖堂をノックする音が響いた。
「リディア。開けてくれ。俺だ、カイルだ」
扉を開けた瞬間、懐かしい香りが風と共に流れ込んだ。
その香りに、リディアはふいに十年前の冬を思い出した。
──雪の日。王宮の裏庭で、雪うさぎを作って笑っていた三人。
「リディア、ほら! うさぎに見えるだろう?」
「ええ、ちゃんとお耳が立ってて、かわいいわ。ね、ユリウス様」
「カイル、耳が長すぎる……それじゃまるで魔獣だよ」
あの頃は、ただの子供だった。
王子も、公爵令息も、公爵令嬢も──何の違いもなく、ただの“友達”だった。
リディアはそっと目を閉じる。
「……カイル様。どうして、こんな場所へ?」
「君に会いに来た。婚約破棄のあと、君が姿を消したと聞いて、いてもたってもいられなくて」
カイルは昔と変わらず、まっすぐな眼差しで彼女を見つめていた。
リディアは慌ててヴェールを引き直し、顔を伏せる。
「……見ないでください。今の私の姿なんて、見苦しいでしょう?」
「違う」
その一言が、すべてを遮った。
「俺は、君がどんな姿でも──」
カイルはゆっくりと、彼女の前に膝をついた。
「君がどれほど醜いと言われようと、俺は一度だってそう思ったことはない」
リディアの息が止まる。
「……なぜ?」
「君が、美しかったからだ。優しさも、強さも、全部──ずっと、昔から見ていたから」
彼女の手に、彼の手がそっと重ねられる。
その手は、呪われた指先を恐れもせず、静かに包み込んでいた。
「俺と一緒に来てくれ、リディア。君を、一人にはしない」
リディアは震える声で答えた。
「……ありがとう。でも、私はまだ……忘れられない」
「……王太子か」
カイルの声に痛みはなかった。ただ、受け止めるように優しかった。
「なら、待つよ。君の心が自由になるまで、何年でも、何十年でも」
その夜、リディアは久しぶりに泣いた。
婚約破棄の日も泣かなかった彼女が、ただ一人、自分の“今”を見てくれる人の前で、静かに涙を零した。