第1話
王都にあるアルバレスト王宮の大広間。
夜会の真っただ中、五百を超える招待客が息を呑み、静まり返った。
シャンデリアの燦然たる光が、赤絨毯の中心に立つ二人の男女を照らす。
「リディア・ヴァレンティア。君との婚約を、ここに破棄する」
王太子ユリウス・アルバレストの声は、冷ややかで一分の揺らぎもなかった。
その宣言は、鋭く空気を裂いた。
ざわつく声、驚きに満ちた嘆息、そして──安堵にも似た微笑。
けれど、言葉を投げかけられた少女は、静かだった。
白銀のドレスを纏ったその姿は、誰よりも格式に則り、淑女としての誇りを湛えている。
しかし、その顔に宿るのは、この国のどんな令嬢にも見られない異質な美しさだった。
否──それは、“醜さ”と呼ばれるものだ。
リディア・ヴァレンティアの顔の左半分には、漆黒の蔦のような紋様が絡みついていた。
まるで血管のように脈動し、かすかに光を放つその紋様は、魔力の残滓を感じさせる。
美しかったはずの白肌は青白く染まり、頬には冷たい影が落ちている。
瞳は左右で色が異なっていた。
右は翡翠のような柔らかな緑──かつてユリウスが「湖畔の風の色」と称した色。
だが左は、燃え立つような深紅。まるで他者の心を見透かす“魔眼”のような異能を感じさせた。
そして、細く伸びた指先の爪は黒ずみ、まるで夜の霧のように霞がかった輝きを放っていた。
誰もがそれを「呪い」と呼んだ。
誰もが、それを「不吉」として避けた。
「……ご判断、承知いたしました」
リディアは一歩前に出て、スカートの裾を持ち上げ、静かに膝を折る。
その仕草には、一分の乱れもない。
完璧な貴族令嬢の礼法、王太子妃としての格式──すべてが、そこにあった。
にもかかわらず、誰も彼女を擁護しない。
「当然だわ。あんな異形の令嬢が王妃になるなんて、前代未聞よ」
「ロズベルグ伯爵家のアリシア様のほうが、よほどお似合いだわ。お美しいし、聡明で──ねえ?」
「呪われた令嬢なんて、縁起が悪すぎる」
ひそひそと、毒を含んだ声が飛び交う。
笑い声さえ交じる中、王太子は一度も振り返らなかった。
リディアは、誰の目も見ずにゆっくりと立ち上がり──
そしてただ、微笑んだ。
冷たい。
それでいて、どこか寂しさを含んだ、凍えるような微笑。
「ご機嫌よう、皆さま。どうか、幸せな夜をお過ごしくださいませ」
誰も見送らない中、リディアは踵を返す。
ドレスの裾が赤い絨毯を滑るように揺れ、長い黒髪が魔力を帯びてわずかに靡いた。
──その背中に、唯一視線を注ぎ続けていた者がいる。
カイル・レイフォード。王家に匹敵する地位を持つレイフォード公爵家の嫡男。
彼は、会場の隅からずっとリディアを見ていた。
他の誰とも違う目で──彼女の“美しさ”を、ずっと見続けていた。
唇を引き結びながら、彼は胸の奥でひとつ、静かに祈った。
(……どうか、あの人がこれ以上傷つくことのないように)