第239話 ユーリアの変化
ソフィアが真っ先に食いついたのは、禍々しいオーラを放つ黒曜石の小手――通称「猫パンチ(?)」
「ヒカリ様、これ試していいですか?」
「うん、いいよ。気をつけてね、それ結構な重さだよ」
ヒカリが注意を促すが、ソフィアは「わぁい!」と無邪気な声を上げながら、片方の小手をひょいっと持ち上げた。
(うおっ!? あんな軽々と持ち上げるなんて、獣人族の筋力やべー……!)
学園のダンジョン五十階層でドロップしたその装備は、並の戦士なら持ち上げるだけで一苦労するはずの重量級アイテム。しかし、ソフィアにとっては少し重めのおもちゃ程度の感覚のようだ。
「なんだか、ひんやりしてて気持ちいいです! それに……」
ソフィアは小手に自分の手を通す。すると、漆黒の黒曜石がソフィアの腕のサイズに合わせてスルスルと形を変え、ぴったりとフィットした。
「……すごいです、これ! なんだか力がどんどん湧いてきます!」
ソフィアが空中に向かって「シュシュッ!」と鋭いジャブを繰り出すと、一振りするたびに空気が爆ぜ、部屋のカーテンが激しく揺れます。
「ソフィア、あまり暴れないでね。部屋が壊れちゃうから」
ヒカリが苦笑いしながら制止すると、ソフィアは「あ、ごめんなさい!」と慌てて手を止めた。
「でもヒカリ様、これ本当にすごいです。この小手、私の魔力をすごく素直に受け入れてくれる気がします」
その様子を隣で見ていたユーリアが、目を細めて感心したように口を開く。
「それは、ソフィアの魔力が純粋だからでしょう。この装備に宿る深淵の魔力は、使う者の意志が弱ければ逆に呑み込まれてしまうわ。ですが、ソフィアにはその心配はなさそうですね」
「ソフィア、その武器(猫パンチ?)使いこなせそうだね」
「はいっ!」
「じゃあ、それはソフィアにあげるよ。有効活用してね」
「やったぁー! ザード様からのプレゼント、一生大事にします!」
大喜びするソフィアを見て、ヒカリは苦笑いした。
(『ザード』って言ったり『ヒカリ』って言ったり……まあ、ソフィアらしいか)
しかし、喜びのあまりソフィアが小手をはめたまま鋭いシャドーボクシングを始めると、空気が「ヒュンッ!」と鳴り、壁に亀裂が入りそうになります。
「ソフィア! ストップ! 部屋が壊れる!」
「あ、ごめんなさい……つい嬉しくて」
シュンとするソフィアを見ながら、ヒカリは内心冷や汗をかいていた。
(今のソフィアに本気で猫パンチされたら、俺の魔力体なんて一瞬で霧散して消えちゃいそうだな……。ソフィアは、自覚ないけど相当なパワーだぞ)
ヒカリとソフィアの賑やかなやり取りを、ユーリアは微笑ましく見守っていたが、その瞳の奥には依然として消えぬ影があった。
「ユーリア。杖はここに置いとくね。今はゆっくり休んで、元気になったら使ってみてよ」
「ええ……ありがとう、ヒカリ」
それから三人は、お茶を飲みながら他愛のない話を始めた。話題は、精霊たちの故郷である「世界樹」へと移る。
「世界樹の森って、すごく神秘的なんだ。そこで俺たち精霊は生まれるんだよ」
「じゃあ、そこにはヒカリ様のお友達がいっぱいいるんですね!」
ソフィアのキラキラした問いに、ヒカリは静かに首を振る。
「いや……基本、精霊は群れないんだ。生まれた頃は知性もなくて、ただ世界樹の森をフラフラ彷徨ってるだけ。ほとんどの精霊はそのまま知性を持たずに世界を漂って、属性が合う人間を見つけたら惹かれるままに契約する……そんな感じかな」
「えっ!? そうなんですか?」
「精霊に選択権はないんだ。ただの魔力の塊として、波長が合う者に引き寄せられるだけだからね」
その説明を聞いて、ソフィアが身を乗り出しました。
「じゃあ……! 私がヒカリ様と契約したいって強く願えば、いつかヒカリ様とも契約できるってことですか!?」
期待に満ちた、真っ直ぐな瞳。
しかし、ヒカリの答えは優しく、それでいて明確な拒絶でした。
「ごめん、それは無いかな。……俺には知性があるからね。それに、今のところ誰とも契約するつもりはないんだ」
「えぇーっ! 寂しいですぅ……」
残念そうに肩を落とすソフィアを見て、ヒカリは少しだけ遠くを見つめた。
知性を持った精霊にとって、契約とは魂の縛りだ。
ヒカリにとって、魂を預けてもいいと思える相手――彼が唯一「契約したい」と願った人物は、「あの人」だけ。しかし、この世界でその願いが叶うことは無かった。
「……ヒカリ様は、とても深い孤独を背負っていらっしゃるのね」
ずっと黙っていたユーリアが、ぽつりと呟く。400年を孤独の中で過ごした彼女だからこそ、ヒカリの言葉の裏にある「諦念」のようなものを感じ取ったのかもしれ無い。
「……そんなにかっこいいもんじゃないよ。ただの我儘さ」
「でも、今は色々な人と話したり世界を回ったりしてるからね。かなり充実してるよ」
ヒカリが明るくそう言う一方で、ユーリアの心には静かな波が立っていた。
(私の居場所は……どこにあるのかしら)
目覚めた世界は、400年前とはあまりに様変わりしていた。自分の名を知る者はいても、自分が知っている顔なじみはもう一人もいない。その圧倒的な「時の隔たり」が、彼女を深い孤独へと引きずり込もうとしていた。
そんな彼女の心の揺れを察したのか、ヒカリが言葉を続ける。
「ユーリアもさ、元気になったら色々な場所に行けるよ。色々な人と知り合ったり、友達になったりできる。……俺の知り合いが通ってる学園に行って、そこにいる人たちと仲良くなることだってできるしさ」
「ヒカリ様の知り合いがいる学園! 私も行きたいです! ユーリア様、一緒に行きましょうよ!」
ソフィアが目を輝かせてユーリアの手を取ります。
「……ええ、そうね」
ユーリアの口元に、微かな、けれど確かな希望の笑みが浮かぶ。
(ヒカリの言う通りかもしれない。私のことを知らない人たちと、私の知らない人たち……。でも、そこから新しくお互いを知っていくことはできるのね)
ヒカリの言葉は、暗闇にいた彼女にとって一筋の光となった。しかし、そこでヒカリがふと現実的な問題に気づく。
「……でも、ソフィアって学園に行けるのかな?」
「えぇーっ! 私、ダメなんですか!?」
ショックを受けるソフィアに、ヒカリは苦笑しながら釘を刺す。
「いや、ダメってわけじゃないけど……ナダルニア王国の学園に入るには、めちゃくちゃ勉強しないといけないんだよ。 筆記試験も相当難しいし」
「べ、勉強……」
ソフィアの動きがピタリと止まる。
さっきまで「猫パンチ(小手)」を振り回して喜んでいた彼女にとって、「机に向かって文字を書く」というのは、ドラゴンを倒すよりも難易度が高いミッションかもしれない。
「あそこの学生たちは、魔法理論から歴史、帝王学まで叩き込まれてるエリートばっかりだからね。ソフィア……方程式とか解ける?」
「ほ、ほーてーしき? なんですか、その呪文みたいな名前は……」
ソフィアの耳が力なく垂れ下がる。その様子を見て、ユーリアが思わずクスクスと声を上げて笑った。
「ふふっ。いいじゃない、ソフィア。私がお勉強を教えてあげるわ。400年前の知識で良ければ、いくらでも」
「本当ですか、ユーリア様! ……うぅ、ヒカリ様に会うためなら、私、頑張りますっ!」
かくしてソフィアの勉強という名の苦難の道が始まる。




