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綺羅星の魔法

作者: 宇美百子


「はい、できたよ」


 渡された銀色の手鏡で、自分の顔を恐る恐る見てみる。鏡に映っていたのは、わたしだけどわたしみたいじゃない、きらきらした女の子だった。


「わあ、すごい、ありがとうございます」

「なかなか上手にできた、と、思う」

「自分じゃないみたいです」

「はは、そこまで大改造したわけじゃないよ」


 とても、ずるいことをしている自覚はあった。わたしは先輩に大きな嘘を吐いている。

 七月六日土曜日、午前八時四十二分。わたしは先輩の家にお邪魔して、顔と髪を整えてもらっていた。

 ――さっきから、自己嫌悪が止まらない。わたし、なんでこんなこと言い出しちゃったんだろう。

 先輩と出会ったのは、一年と三ヶ月ほど前、わたしが入学したばかりの頃だ。


 極度の方向音痴で、委員会活動が行われる放送室までの道がわからず、迷子になって泣きかけていたわたしを案内してくれたのが先輩だった。じゃんけんに負けて保健委員になったのに、そのうえ学校で迷子になるなんてこんな不運もあるのかとそのときは思ったが、そこで先輩に出会えたのは間違いなく幸運だった。

 先輩も同じく保健委員だったようで、委員会で集まるたびによく話をした。保健委員は一クラス一人ずつなので最初のうちは知り合いもおらず、話せる人が先輩しかいなかったのだ。

 話をしているうちにだんだんと仲良くなって、いつからなのかはっきりとは覚えていないけれど、わたしは彼のことが好きになっていた。


 はじめは、しっかりしていて頭もよくて、頼りになる先輩だなあという認識だった。けれど仲良くなっていくと、彼の少し抜けているところや意外と照れ屋な部分も見えて、そこがかわいいな、と思ってしまったらもうだめだった。


 先輩のことが好きなんだ、と自覚してからは、学校で先輩のことを見つけるのが上手くなった。図書室で勉強を教えてもらったり、廊下で立ち話をしたりした。先輩は帰宅部だから、後輩と関わる機会があんまりなかったらしい。「一番仲のいい後輩」くらいにはなれている、とは思う。


 だけどそれだけでは満足できない、とわたしのどこかが言っていた。


 先輩と同じ歳ならよかったのに。修学旅行や卒業式を一緒に経験したかった。同じ教室で授業を受けて、ずっと一番近くで彼を見ていたかった。そんなことも叶わない、一歳差の壁は大きい。もっと、先輩に近づくにはどうしたらいいんだろう。

 と、考えていたときに、あることを聞いた。

 先輩のご両親は、お父さまがメイクアップアーティスト、お母さまが美容師を生業としていて、先輩も人の髪をいじったり、メイクを施したりすることができるらしい。「姉が不器用な人で、よくやらされてたから」「自分の髪や顔をいじりたいとは思わないけど、米原みたいに髪が長い人を見ると、編みたくなる」と言っていたのだ。わたしの髪は背中のなかばまで伸びており、硬くも柔らかくもないので扱いやすそう、なんだそうだ。


 そこでわたしはひらめいた。私の髪や顔をいじってもらう機会を作れば、先輩にお近づきになれるんじゃないか。


 少し不自然なことは自分でもわかっている。仕方ないじゃないか。もうすぐ先輩は本格的に受験勉強に向かうようになって、そうなると、より接点は減る。近づくなら、今がチャンスなのだ。

 でも、一体どういう口実で? 突然「先輩! 私の髪、編んでみます?」と言ってみる? そんなのただのへんな後輩だ、絶対に受け入れてもらえない。


 強引なお近づき作戦を思いついたのは、桜が緑に変わる頃だった。そこから二ヶ月ほど言い訳を考えて、わたしは実行してみることにした。


 *


 放課後、委員会の時間になると、わたしは急いで教室を飛び出した。ようやく先輩に会える……! その気持ちでいっぱいだった。

 階段を少し急いで降りる。わたしの教室は四階、先輩の教室は三階にあるから、運が良ければここで会えるかもしれない、と少し期待してしまう。


「あ、米原だ」

「せんぱい! こんにちは!」

「こんにちは」


 うれしい、今日はここで会えた。二人で並んで、放送室に向かう。

 先輩とわたしは、二年連続で保健委員を担っている。学年が上がる直前に「また米原と委員やりたいな」と言われたので、四月のわたしは小さな祈りとともに自分から手を挙げたのだった。今年度初めての委員会活動で先輩と再会できたときの感動は忘れられない。


 わたしが思い出に浸っていると、いつもは右に曲がる道を、先輩は突然左に曲がった。


「せんぱい? 教室はこっちですよ?」

「この前、次の委員会活動の時は資料室に集まってくれ、って委員長が言ってなかった?」

「ほんとうですか?」


 委員会活動の時は先輩にバレないように見つめることに必死で、何も聞いていなかった、とは言えないので黙っておく。


「うん、たしかそうだったと思う。一度行ってみよう」


 資料室に着くと、保健委員のメンバーが大体集まっていた。先輩の言う通りで、まじめに聞いていなかったわたしは少し恥ずかしい気持ちになる。委員長、すみません。これからはちゃんと話を聞きます。


「これから行事なんかもないし、多分今日はここの整頓だろうね」

「ほえー……」


 すぐに委員長と担当の先生が来て、それぞれに仕事を割り振られる。たまたま隣に並んで立っていたので、わたしは先輩とごみ捨て係を命じられた。ラッキー。

 しばらくは部屋の中の整理をする人たちと一緒に分別をして、捨てるものがだんだん溜まってきたところで離脱する。

 資料室の前に、ドンと大きなごみ袋が二つ置いてあった。もうぱんぱんだ。この部屋はどれだけ整理されていなかったんだ、と先生たちを恨みそうになる。


「他に捨てるものありませんかー?」

「ごめん米原、俺も一緒に行くよ」


 中の人たちに声をかけていたら、資料室の奥のほうから先輩が出てきた。一緒に!? どんなボーナスなんだ! 幸運の神様がわたしに振り向いているとしか思えない。先輩はさわやかに駆け寄ると、わたしの持っていたごみ袋をさらっと一つ奪っていった。


「じゃあ、行こうか」


 先輩はさっさと歩き始める。いつもゆったりとしたペースだから、置いていかれるなんてことはない。


「そっち重くないですか? わたしがそっち持ちますよ、後輩なので」

「そんな細っこい腕にこれ持たせるわけにはいかないよ」

「ええ? むきむきですよ、触ってください」


 ごみ袋を持っていない方、右手で力こぶを作ると、先輩に鼻で笑われた。


「俺のほうが力持ちだと思うよ、ほら」


 先輩が左腕にくっと力を込める。軽く触ってみると、わたしのものとは比べ物にならないほど、かちかちに硬かった。


「……ま、負けました」

「よろしい」


 先輩は肌の色が薄く、帰宅部なので筋肉質な感じもない。それに、話し方も同じ歳の男の子たちと比べると、幾分柔らかい。なんとなく中性的というか、いい意味で男の子っぽさを感じさせないのだ。

 先輩って、かっこういいだけじゃないし、かわいいだけでもないからずるい。


鷲見(すみ)くん!」


 先輩が振り返る。名前を呼んだのは、わたしのひとつ上、先輩とは同級生の人らしかった。

 知らない先輩だし、あんまり近くにいるのもよくないだろう。わたしは二メートルくらい離れて、廊下の端に立ち尽くした。ごみ捨て場はすぐそこなのに一人で行こうとしない自分に、ばからしく思う。

 先輩たちは和やかに談笑している。漏れ聞こえるところによると、少し前に行われた模試の結果についての話らしい。鷲見先輩は頭が良い、もう一人の先輩もきっとそうなんだろう。

 二人の距離感はだいぶ近く、わたしには立ち入ることができない。ここで割り込んで行ったら変に思われる。


 しばらくして、「じゃあ」という声が聞こえた。ようやく解散らしい。それほど長い時間じゃなかったはずなのに、わたしには永遠に感じられた。乱れてもいない前髪を直すふりをして、平気な顔を作る。


 当然のことだけれど、ひとつ年下のわたしが知らない、先輩の顔がある。同級生の〝鷲見くん〟。先輩の一個下であることを、こういうときに歯痒く思う。わたしも先輩と模試の話やテストの話、さっき勉強した単元の話をしたいのに、学年がちがうとこんなにも遠く感じる。


 わたしは、ただの後輩じゃなくて、先輩の一番近くに居る女子になりたい。

 だから先輩、いまからすごく大きな嘘をつくけど、どうか許してください。


「す、鷲見先輩」

「うん?」

「先輩って、髪の毛をいじったり、お顔にお化粧したりするのが得意だって前に言ってましたよね」

「うん、それがどうした?」

「あの……わたしの髪とメイク、やってくれませんか」

「え?」


 少し強引だけれど、言ってみるしかない。断られたら引き下がればいいだけだ。

 歩きながら、右手で前髪を整える。


「わ、わたし、好きな人がいて、今度、その人と遊ぶことになったんです。でもわたし、不器用だから髪の毛やメイクを上手にできなくて、せんぱいは前に得意だって言ってたから、やってもらえないかなあと思いまして」


 もちろんだけど、本当はそんな人いない。わたしの好きな人は先輩ただ一人だ。けれど先輩はわたしをただの後輩としか思っていない。

 脈がなさそうな想い人に「好きな人がいる」と嘘をつく滑稽さに、自分でおかしくなった。


「もちろん、先輩がお勉強とかで忙しいって、分かってます。一度だけでいいので講習会みたいなかたちで、こういうふうにしたらいいよっていうのをやっていただけないかなあ、と。……無理ならぜんぜん、断っていただいても」


 言い訳っぽさが本当に滲み出ていて、言いながら情けなくなってきた。理由も無理矢理すぎる。先輩をちらりと見上げてみたが、わたしの嘘に違和感を覚えている様子はなかった。


「兄しかいないから教わる人もいないし、仲良しの子もあんまり上手じゃないって言ってて、先輩を当たってみたんですけど、」

「……いいよ」

「えっ?」

「メイクの基本とか、簡単なヘアアレンジを教えたらいいんだよね? いいよ、俺が教える」


 これ以上ないくらい、心臓がばくばく鳴っている。額にじわりと汗をかいている。断られると思って言ってみたのに、先輩はすごく優しい人だ。困っている後輩を見捨てられないのだ。

 先輩の厚意につけこんで、こんなことを頼んでるわたしはなんて最低なんだろう。


「ええと、あの、いいんですか」

「米原がもっとかわいくなって、その……好きな人に会いたいなら、先輩として? 応援したいし」


 激しく脈打っていた心臓が、一気に冷えたみたいだった。先輩はわたしのことをただの仲の良い後輩としか思ってないことはわかっているつもりだった。でも、こんなふうにちゃんと眼前に突きつけられると、やっぱり胸が痛い。


 先輩として応援したい。わたしにとってはすごく残酷な言葉だ。


「あ、……ありがとう、ございます」

「それで、いつなの? 化粧道具はある?」

「来週の、土曜のお昼頃に集合の予定です。お化粧品は、一通りは持ってると思います」

「じゃあ、土曜の朝でいい? 俺の家に来てもらってもいいかな。姉の道具も借りられるように交渉しておくから」


 ごみ捨て場は小屋のようになっていて、ごみはその中に置いておけばいいみたいだ。奥の方に置いて、疲れた腕をぷらぷらと振る。

 資料室に戻りながら、罪悪感がむくむくと育ってきた。こんなのだめだ。話がまとまりそうになっているけれど、今なら引き返せるはず。


「ごめんなさい、あの、やっぱり大丈夫です。ひとりでどうにかします」

「うん? なんのこと?」

「お化粧のことです。ご迷惑じゃないですか? 休日ですし、先輩は息抜きもしたいでしょうし」

「ぜんぜん。姉の準備に手伝わされるのは休日の恒例行事みたいなものだし、そんなに長い髪を好きなようにできるのは素直にたのしみだから、気にしないで」


 どうしようどうしようどうしよう。先輩は本当にやってしまうつもりだ。わたしの嘘に付き合わせてしまう。みんみんとうるさく鳴く蝉の声も、今はどこか遠い。


「俺がやりたいんだ。やらせてよ。先輩命令」

「でも……」

「お礼はそうだなあ、学食一回を米原におごってもらって、一緒に食べる、でいいよ」

「そんなことでいいんですか」


 むしろ、わたしにとってのご褒美にしかなっていないような気がするけれど、という言葉は飲み込んだ。脈のなさそうな人に対して突撃するようなばかじゃない。


「うん。たのしみにしてるね」


 申し訳ない気持ちが胸のなかでどんどん積もる。先輩はどんな顔をしているのだろう。


 *


 先輩のおうちは二階建ての一軒家で、ご両親とお姉さんはお仕事と遊びに出かけていると言われた。先輩のおうち、しかも先輩の部屋でふたりきり、とどきどきする暇もなく、先輩はてきぱきした動きでわたしの顔と髪を整えはじめた。


 目瞑って、開けて、上向いて、下向いて、顔ごと斜めのほうに向けられる? と先輩からの指示は大忙しだった。


 先輩の細い指先で顔を触られることに最初こそ緊張したが、だんだん気にならなくなった。先輩が真剣な瞳でわたしを輝かせようとしてくれているのに、それに邪な気持ちを持つのはよくないように思えてきたのだ。


 顔は全体的にピンクっぽく、今日の服装の色と合わせてくれているらしい。わたしの化粧品だけでなく、お姉さんから借りられたアイシャドウとチークを使っていたので、普段より大人っぽく、つややかに仕上がっている。

 髪はゆるいミックス巻き、というやつだ。わたしでは絶対に再現できないくらい複雑な巻きかたで、でもゆるやかなので華やかすぎない、派手すぎないのが好みだと思った。


「せんぱい、美容室開けますよ! すごすぎます! こんなになるなんて!」

「素材がいいからね。俺のやったことなんて、きれいな線の引いてある絵に色を塗っただけだよ」

「……煽ててもなにも出ませんよ」

「はは、お世辞なんか言わないって」


 先輩がやわらかく笑う。わたしはその表情が好きだった。たぶん、去年の四月からずっと。


 はじめて会ったとき、ひとりで校内で迷子になって半泣きになっていたわたしに「大丈夫だよ」「俺も保健委員だから連れていってあげる」「道を教えるから覚えるんだよ」と微笑んでくれたときから、きっとこの人のことが好きだったのだ。


 それまで恋のことなんてひとつも知らなくて、好きですと言われてもぴんとこなくて断ってばかりだったし、友だちの恋愛の話もよくわからなくて、ふうんと相づちを打つだけだった。

 それなのに、先輩は春とともにわたしの前に現れて、あっさりとこころを奪っていった。


 先輩が笑っていればうれしいし、先輩がちがう人と話していると気になってしかたがない。先輩がやさしく笑いかけるのはわたしだけであってほしい。先輩が「手の焼ける後輩だ」と思うのは、わたしだけであってほしい。わたしにだけかまってほしい。

 いちばんとは言わないから、二番目か三番目か四番目には、仲良い人としてわたしの名前を挙げてほしい。わたしが先輩のことを考えている百分の一、千分の一の時間でいいから、先輩もわたしのいないところでわたしのことを考えていてほしい。


「好きな人とのデート、うまくいくといいね」


 ぱきん、とこころの中でなにかが割れる音がした。せっかくきれいにしてもらったのに、先輩の努力が無駄になる――そう考えても、目の奥の熱は引いてくれない。

 あ、と小さな声が漏れたと同時に、目頭から涙が一粒落ちる。


「ご、ごめんなさ……ごめんなさい」

「米原? どうしたの?」

「ごめんなさい、かえ、帰ります。すみません」


 どうやっても先輩の視界に映ることはできないということ、それなのに自分の気持ちのために先輩を無理やり付き合わせてしまったことで、頭がぐちゃぐちゃになっている。とても心苦しくて、先輩になんと弁解をしたらいいのかもわからなくて、涙が止まらない。


 こんなこと、やめておくべきだった。架空の「好きな人」など作らず、まっすぐに気持ちをぶつければよかった。これまでの関係は壊れるかもしれないけれど、わたしは勝負の舞台に立つことすらせず、先輩に近づこうとした卑怯者だ。先輩にも自分の気持ちにも不誠実なことをしている。


 先輩がせっかく施してくれたお化粧が落ちてしまう。きっと顔はどろどろのぐちゃぐちゃだろう。頭のどこかは冷静にそう言うのに、涙腺は必死に仕事をしつづけた。

 鞄を持って先輩の部屋から出ようとすると、何も持っていないほうの腕をぱしりと掴まれた。


「いやいや、そんな状態で外には出せないから。どうしたの? 俺でよければ――いや、俺に話さないと、ずっと掴んだままでいる」


 ぱっと振り返って先輩の顔を見上げると、彼は困ったような、それでいて真剣にわたしの様子を窺っていた。心配してくれているのだろう。化粧をしてあげたら急に泣き出した、おかしな後輩のことを。

 先輩の部屋の入り口付近で、二人で立ち尽くす。右腕はしっかりと掴まれている。


 もう、言ってしまえよ。どうにでもなっちゃえばいいじゃん。勇気を出すなら、きっと今しかないんじゃない? そう、頭のなかで天使がささやく。

 今なら、ほんとうのことが言えるだろうか。先輩にきれいにしてもらったわたしなら、思いを告げられるかもしれない。鼻を啜り、すっと細く息を吸う。口から心臓が出そうだけれど、もし出たら、先輩に拾ってもらおう。


「……ほんとうは、好きな人なんて、いないんです。で、デートも、うそです。わたしは、せんぱいのことがすきで、ずっと好きで、それで、ちょっとでも近づけないかなって、だからうそついて、」

「は、え?」

「ごめんなさい。わたし、最低なんです。自分のことばっかり考えて、先輩にうそついたんです。ごめんなさい。せんぱいに告白する勇気もないし、わたしのことなんて好きになるわけないし、だったらちょっとでも近づける方法を、って。朝から付き合わせちゃってごめんなさい」


 わたしの勇気は尽き果てた。斜め上にある先輩の顔は見られない。かえります、と小さな声で言えば、目の前の先輩が、すっとしゃがみ込んだ。


「せ、んぱい? わっ」


 掴まれたままだった腕を引っ張られて、わたしも先輩の前に同じようにしゃがむ。先輩はそばにあった箱ティッシュから数枚引き抜いて、わたしの目元や頬を拭いてくれた。お化粧が落ちないよう丁寧に拭ってくれる指先に、また胸がくるしくなる。

 先輩があぐらに切り替えたので、わたしは正座をした。


「……よねはら」

「お叱りは、受けます。でも、できればきらいにならないでください」

「嫌いになる? 俺も米原のことが好きだって言ったらどうするの」


 ぴたりと、時が止まる。


「な、なんて」

「俺もそんなに人がよくないから、どうやったら俺の知らない好きな奴とのデートに向かわせずに済むかなってずっと考えてたんだ。そしたら泣き出すから、俺の苛立ちがどっかから漏れてたかなって焦った」

「せんぱいが?」

「うん、俺が。米原のこと、好きだったんだ」


 うそ、と言うかわりに息を吸うと、視界が滲んだ。涙がこぼれる前に先輩にティッシュをもらい、目元に押し当てる。


「ねえ、すきだよ。ほかの奴とデートしようとかしないで。俺のことだけ見ててよ。米原は俺の後輩でしょ」

「デート、しようとして、ません」

「してた。知らない奴のためにかわいくしてくださいって言われたときの俺の気持ちわかる? へんてこに仕上げるのはいやだから、めちゃくちゃかわいい米原をいちばんに見られるって無理やりこころに折り合いをつけたときの俺の気持ち」

「……ごめんなさい」

「いいよ。うそで安心した。じゃあ、米原のほんとうの好きな奴はだれ?」


 先輩がいたずらっぽく笑いながら、わたしを見やる。いつものやさしくて照れ屋の彼はどこにいったのだろう。今の先輩はちょっといじわるで、でもこれまでのどの場面よりもうれしそうだ。


「――せんぱいだけです。ずっと先輩のことが好きでした」

「うん、じゃあ、付き合おっか」


 こくこくと数回頷けば、先輩はまた満足そうに笑った。その笑顔を見て、ほっと息を吐く。

 そうして、正座にしていた足をようやく崩そうとしたとき――足の感覚がしないと思ったら、痺れていたらしい。そのまま前につんのめって、先輩を巻き込みながら床に倒れる。わ、と二人の声が重なった。


「ごめんなさい! 頭打ってないですか!?」


 先輩が咄嗟に守ってくれたので、わたしはどこも痛くないけれど、先輩は大丈夫だろうか。自分の体勢も気にせずに問いかけると、先輩はさきほどのいじわるそうな笑みを浮かべた。


「ねえ」


 肩からこぼれ落ちた髪を、先輩の手によって耳にかけられる。梳かす手つきがなんだか色っぽく感じて、顔にかっと熱が集まった。


「米原?」


 退かなきゃ、と思うのに、まだ足が痺れているので頭で考えるように動くことができない。先輩の上に四つん這いの状態でぎゅっと目を瞑っていると、下から先輩の笑い声が聞こえた。


「にいな。目、開けて」


 おそるおそる目を開ければ、そこには微笑む先輩がいた。


「名前呼んで」

「すみせんぱい」

「ちがうでしょ」

「ち、……千隼(ちはや)くん」

「新菜、キスしてもよかったら目ぇ瞑って」


 しばらく迷って、ゆっくりと目蓋を下ろす。心臓がうるさいくらいに鳴っていて、目の前の人に聞こえていないだろうかと心配になった。


 頬に手が添えられ、ふんわりと唇どうしが重なった。ファーストキスはレモンの味がする、なんて文句を聞いたことがあるが、どきどきしていて味のことなんて考えられるはずもない。

 離れたと思ったらもう一度くっついて、ぱちりと目を開けると先輩はさっと顔を離した。やっぱりいたずらっぽく笑っている。


「にいなはかわいいなあ」

「からかわないでください。わたしは慣れてないんですよ」

「俺だってはじめてだけど」

「うそ」

「高二からずっと好きな女の子がいるのに、どうやって他の奴とあれこれするの。無理でしょ」

「……からかわないでください!」


 足の痺れが落ち着いたので、先輩の上から身体を退ける。付き合う、ということはつまり、恋人どうしになるということだ。先輩とわたしが、恋人。先輩はわたしの彼氏で、わたしは先輩の彼女で、それはたぶん、「いちばん仲良し」を意味する。


「新菜がここでほんとうのことを言ってくれてよかった。俺も意気地なしだからさ、告白しようなんて思わなかった」

「わたしも、言えてよかったです。心臓飛び出そうでしたけど」

「うん、ありがとう」

「先輩はいつからわたしのこと……す、すきになったんですか」

「んー、内緒。でもたぶん、気づいたのは新菜より先だと思うよ」


 ぜったいそんなわけない、と思うのに、その言葉のあまさに頬と耳朶が熱くなる。先輩は三角座りをするわたしにずい、とにじり寄り、わたしの赤くなった頬を指先でするりと撫ぜると、横から唇を奪っていった。


「なにするの!」

「かわいいなあと思って。ね、これからデートしようよ。化粧も髪もやり直してあげるから」

「いいんですか!? でも、お勉強とか……」

「大丈夫。もし無理そうならこんなこと言わないよ」


 こっちきて、とさっきまで座っていた場所に案内されて、先輩――千隼くんから化粧落としを浸したコットンを手渡される。一度しっかり洗って落として、もう一度やり直すらしい。手がかかるけれど、そこは譲れないのだろう。


「今年は俺で、来年は新菜が受験になるけど、お互い勉強したくなったり会いたくなったりしたら素直にそう言おうね。俺は五分でもいいから顔見たいし」

「会いたいって言ってもいいの? 困らない?」

「新菜が会いたいなあと思ったら、俺はその三倍強くそう思ってると思ってて」


 震えてるかも、と千隼くんがくすくす笑った。そこでようやく、わたしが彼を好きなくらいには千隼くんもわたしのことを好いてくれているのかもしれない、と思い至って、耳が熱くなる。

 彼はそんなわたしを見て「急に泣いたり赤くなったりへんなの」と困ったように微笑んだ。


「アイシャドウのせるから目閉じて」

「はあい。千隼くん、すきだよ」


 顔が見えないのをいいことに口遊めば、「俺も」と返されたあと、瞼にキスが落ちた。


 恋は、先に好きになったほうが負けだと言う。だとするとわたしは、この手ごわい恋人に一生勝てないのかもしれなかった。


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― 新着の感想 ―
[一言] めっちゃ甘い♡ 好き!
2024/03/03 19:53 退会済み
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