林檎と浮気相手
――――また来たのね。懲りない人
――――だが、母親の通院先もわかった。これで……
笑い声。
おかしくてたまらないと言った様子で、辺りに響き渡る。
――――知らなかったの?
彼女の母親は、薬なんて飲まないし、検査も出てないわ!
腰が痛いと嘆きはするけれど、市販の胃薬を飲んでるだけなの。
お医者さんの処置が、信用できないみたい。
あまり効いてないのかしらね。
紹介状とかってわりと嫌がるし……
――――だが……
「リンゴ、リンゴ~♪」
キャノは歌いながら道を歩いていた。
先ほど、ホテルの部屋にリンゴを置いてきたところである。
タワーに戻るべく横断歩道を渡っていると、ふいに「シルフィードだ!」と子どもに指を指されてぎょっとした。
目眩まし対策はしているが、まれに、見えてしまうのだろうか……
コトの例もある。
おかしいな、という気持ちと、でも変にビビったりして相手に余計な隙を与えてはいけないだろうと極力平静を保って道を歩く。
「……」
目深にフードを被った子どもが、いつの間にか目の前に居た。
「ね? シルフィードじゃん」
彼?は、キャノを覗き込んで来る。思わず目を逸らしながら彼女も答えた。
「シルフィードは、此処には来てないわ」
(この雰囲気、どこかで、会ったような……?)
でもどこだろう。
思い出せない。
「わかってるって、そういう演技だろ?」
「あら。演技と思うなら早い。いーい? シルフィードはシルフィードよ。
でも私は私。ずっとシルフィードで居たら元の自分に戻れなくなる。それってすごく、危険な事なの。だから、こうやって私の日が必要。演技とかじゃなく、必要なの」
「よく、わからない」
「そう……一日中、犬とかお母さんの物真似で過ごして見ると分かるんじゃない。皆からもそう呼んでもらっていると、やがて本当に催眠にかかってしまう。
でもそれは危ない事……鏡に向かって自分を歪めるのが癖になると、心が壊れてしまうから。私以外に会ったとしても、外で試そうとしないであげて。お金だけじゃ取り返しがつかなくなる」
クスクス、とフードの子どもは笑った。
「心が、壊れたら、なにか、問題?」
クスクス、クスクス────
嬉しそうに笑いながら、
キャノが挑発されるか試している。
「────問題、か……問題……ね」
彼女は彼女で、なんだか含みのある独り言を呟いた。
「あれ、キャノさん?」
ふと、コトの声がした。
途端にフードの子が消える。どこかに帰ったのだろう。
せっかくなら物理的にあの子を弾くような陣を張れば良かったかもしれないと、今になって思った。
「コトちゃん……」
「あ。みんなと、先に行ったのかと思ってた」
今、彼がなんだか複雑そうな表情をしているのが気がかりだったが、キャノはいつも通りの笑顔で答える。
「ううん林檎だけ、先に置きに戻ってたの」
「そうですか」
「お母さんはどうだった?」
コトはなんだか歯切れが悪そうに視線を逸らした。
「入院はしてなかったですが」
「ですが?」
「『戦争って、永遠に終わらないよね!』って」
「は?」
「……その、なんていうか。俺にもわからない。何も」
「えっと、どういう事?」
なんて纏めようか、彼自身戸惑っているようだった。
困惑しているのだろう。
そしてどこか、絶望しているのだと思う。
何に対して悲しめばいいのかも、探しているところなのだろう。
「家に、母が居て──」
彼の視線が揺れている。
「コルセット生活になって……食べてもあまり消化出来ていなくて、でも検査はしないみたいで――腰が、海老みたいに曲がってて。
骨粗鬆症の疑いもあるみたいだけど……やっぱり、俺のせいなのかな」
実はコトがこのとき考えているのは、母親への感情そのものではなかった。
自分の事。
幼いときから実際「地震起こさないでくれる?」「生き神様~」と冗談半分にからかわれた。「水が溢れて怖かった」と怒鳴られ、祖母に「お前がてるてる坊主を作るから雨が降らなかった」と言われ――
ずっと、日常的に、些細な言葉の棘が気になっていた。
冗談で済ませるにはあまりにも陰湿な重みをもった棘で、
彼の人格形成に大きく影響して居る。
そのすべての事実の集約を今見ているのではないか、という実感だったのだが……
そのまま言葉にすることはなかった。
「どうだろうね。私には、わからない」
キャノはそこまで想像したわけではなかったが、仲間や自分の引き起こした例を知っている。曖昧にそう答えるくらいしか浮かばない。
コトは考え込んだまま唸る。
大体無表情で淡々としているけど、いつもに増して元気が無さそうだ。
「うーん、お金が掛かるからなのかな。入院したら、その間俺が何も自立してできないと、思っているから?」
『何処かの誰か』と違って、若い時から自立心があるのは結構な事だ、とキャノは思ったが、なんだか口に出せなかった。
なんとなく、バイトのことを思い出す。
慣れていない人間には、あの手の噂になるのは今の自分以上にきつかっただろう。それを恐らく彼自身もよく知っている。
たぶん、普通の、人間社会の経験だけでは駄目だ。
自分がわざわざアイドル活動をしているように、
彼に合った着ぐるみが――――社会への隠れ蓑が必要。
(でも、それは彼自身が見つけるしかない)
「それで、実は今日も此処に来るかも迷って……」
ちょうどあなたを見かけたんです、と、彼は苦笑する。
「え?」
ちょっとだけ意外だった。
何かあっても無くても、よくタワーに集まって居たのに。
「いや、皆が嫌になったとかじゃないんです。
いつも、こんなふうに、ただ、外で動き回ってるだけで……何も、してなくて、いいのかって」
彼は彼で、日々進めばその分奪われる繰り返しの理不尽を認識している。
それでも、どうにかしたいと考えて居る旨を口にした。
そういえば何もしてない、というのは彼から頻繁に聞く言葉だ。
「そんな、何も、してないわけじゃないわよ。無意味なんかじゃない。
この前だってお陰で火事が収まったし。
それにそれを言ったら私だって普段から歌ってるか遊んでるだけになるから、説得力ないかもだけど」
いえ……と、彼は視線を逸らした。
「大人だから、良いじゃないですか」
「コトちゃんも、もう大人でしょう?」
コトは、やはり視線を逸らすだけだった。
「俺は……本来は、学生でした。親も、それが望みだったと思う」
「そういえば、なんで、先に卒業したの?」
なんとなく、口をついて出た質問。
彼はまだ、社会への馴染み方を知っているわけではない。しばらく準備期間として学生をしている事も出来たはずだ。
一瞬、彼の目が固まった。
「みんなと同じ時間で授業を受けることも出来たのに。子どもとして見て貰えたのに……」
ぱちくりと瞬きする。意外な質問だったのかもしれない。
「そ、そうですね、学校の授業よりも、この世界の事が知りたいって―――ずっと、何かに見られている気がして……ずっとあのままで居たら、なんだか自分が、居なくなってしまうような気がしたから」
「そっか」
なんとなく。
少し、わかるような気がする。
彼が大事にしたいものは、他の人と違ったのだろう、と。
何か、言いそうになった。
自分を否定する必要は無い、とか。
雨だって、海が乱れても、水が溢れても、あまり自分を怖がらないで。
魔法はいつもそこにある。
私だってそうだよ。とか。
「ねぇ」
もし――――あなたが、
「はい?」
コトの目と、一瞬、合った。
ただの笑顔なのになんだか酷く悲痛な気がした。
「……ううん、なんでも、ない」
――――力があるのはいけない事なのか。
人間にとって、そんなに面白がる事?
私たちは、私達で、どんな力があっても無くても、いいじゃない。
人間は、人間という枠を決め過ぎている。
様々な人が居て、様々な力を持っていて、それを人間と呼んで、何が悪いのだろう。
そう、言って良いのかわからなかった。
「ちなみに、『戦争は終わらないね!』 って話はいったいどこから?」
「家を出たいっていったときです。『お金もないくせに!』から始まって、『車も無いのに!』と続いて、次に母さんたちの時代には、北に大国があって、そこの周囲の国が戦争をしていた。その話を始めて……」
「ふむふむ」
「 『また戦争が起きてもきっと永遠に終わらないし、決着なんか着かないから。勝利まで遠いよ!!』って――――
まるで俺自身に向けるみたいに。どういう意味だろう、なんで今言うんだろうって」
「お母さんが、誰なのか、わからなくなったのね」
「それもあるけど、俺が誰なのか、わからなくなりそうで。何を知って居たのか、何も知らないのか」
「そう。北の大国の……」
戦争の話を突然持ち出してくるなんて。
この国ではほとんどの国民は、それに関する際立った発言をしない。
かつてあった世界規模の大戦のせいらしい。
戦争に関わる言葉自体に過敏になっており、表立って『戦争』や『国の為』という趣旨の多くの言葉を公で使う事は躊躇っているという。
それ故、この国では、表立って熱心に国の事を語って騒いでいる人達は大体が、政治関係、左右どちらかの活動家、あるいは軍事関係者の印象が強かった。
「どのみちいつかは、母も居なくなる。お金だっていつかなくなる。それこそ、そのときになるまで、家に居る事しか出来ずに独りきりなんて、嫌なんです。それなのに……」
「ねぇ。他に、言って居なかった?」
「さぁ? 何の話かは知りませんが『ポイントがもらえるときにマイナンバーを登録しなかった事を根に持ってる』とかでしょうか。
『あんたの食事や生活の費用は誰が出してやってるんだ!』『それなのにマイナンバーの登録もさせてくれないのか!』ってすごい激高して」
「どうして、そこまで。マイナンバーと、生活費が関係が?」
なんとなく、コトの母が、ぶつかる前のことを思い出してみた。
――これが上手く行ったら、私の物にしていいんですよね?
――私が駄目だったのになんであの子が選ばれるのかって。
でも、思いだしたとして、何と声をかければ良いのか見当もつかない。
自分が何処に居るかわからない、周りが何をやり取りしているかわからない社会で、突然様々な事を言われている上に、畳みかけるようにそのような言葉を浴びせられているというのは戸惑っても仕方が無いだろう。
「貴方は以前、俺には家族が居るって言ってくれたけど……ずっと、馴染めなくて。心配も、するべきなのか、俺が居ない方が良いのかって複雑な気持ちで、素直に悲しむことも出来ない」
「そうねぇ」
キャノは、なんとなく妹のことを思い出した。それからなるべく穏やかな口調で続けて聞いた。
「もし、彼女が誰かに指示を受けているとしたら、貴方は誰だと思う?」
本当は、彼の母親がただなんとなく指示を受け取っている風には思えないけれど。
「気が強い母さんがあんなに必死になる相手なんて、そう居ない……リカちゃんを迎えに行くって言ってた東さんか、赤い車の友達だっていう山崎さんか、
職場の、あるいは、あのビルの何処かに居る人――――、母さんの親戚かきょうだいの誰か、それか」
そこまで言って、コトは一瞬黙った。
「それか?」
キャノが代わりに聞くと、大きく深呼吸してから、彼は呟く。
「父さんの……、浮気相手」
3月17日10:34‐2023年3月19日1時16分




