手段
――――いやぁ、天野シズカのことで電話をかけたら、ちょうど今日ね、すごい不機嫌で笑っちゃった。寝ていたところだったっていうけどさぁ。あ、天丼?食べる?僕のぶん、残してある?
──え? さんは、腰の検査断ったの。
そう……違う違う、今してるのは、別の人の検査
「なんか……気持ち悪いな」
遠くから聞こえる誰かの噂話を横目に、コトは診察室の椅子に座っていた。
診察なんて、何年ぶりだろう。落ち着かない。
先程当然のように小学校で習う程度の計算問題を出されたのを解いて、それでも時間が空いたので、待っている。
「……………」
上に吊り下げてある謎のモービルだとか、その辺に飾ってある水晶だとか、薬草の類いを見渡す。
なんだか、理科室みたいだ。
心を忘れていく――――心が消えるよ。
「心、あるじゃないか」
小さな声で言ってはみたが、今は、あるだけで、まったくの心当たりが無いわけではない。
いつだったか急に襲ってきたあの感覚。
心が溶けて、お湯の中の角砂糖のように何処か奥深くに吸い込まれていき、それがやがて弾けて血液の中に溶け込む――――特有の感覚だった。
同時にそのとき、心の塊が溶け込んだ血液に促されるかのように、身体だけが勝手に動いている。
前から、考えては居た。「そうすべきだったと感じて居たこと」を、普段の理性に止められることなく実行している自分が居るのかもしれない、と。
俺は確かにあの禿げた男が、苦手だ。事実、死んでくれても構わないと何処かで思っているのだろう。
(でも――――あの声は何? あの、誰かが、すぐそばについていて、俺に話しかけている、知らない人が居る。
無から妄想が生れるとでもいうのか?)
俺はあの人を知らない。アイスは俺を知っている。土の中に居たときも、あの人は俺の知らない事を知っていた。常に視界に存在する生体文字のように、聴覚も何かが関係するのか。
……まぁなんでもいい。別に悪いことは起こらないだろう。
とにかく、俺は正常で、だから、ただの定期健診で、これから、ええと、此処を出て、合流して――――
考えて居ると、先生が戻って来て席に着いた。そして、何か紙を見ながら言う。
「はい。一応ね、精神的には問題は見られ無さそうです」
「そうですか」
これで帰れる、と思うと背筋が伸びた。
「あとは外部の刺激に耐える手段。何か持ってる? 心には目蓋がないからね。周囲に抉じ開けられた分の光を外部から吸収してしまう。
否応なしに身体に変化が現れる。無意識のうちに起こるフラッシュバックなどが顕著な例だね。
そのときに何か、気を反らしたり別の優先情報を持っておくんだよ」
「耐えるって、べつに……」
首を傾げていると、『心の眼』が開き切った場合の話などをされた。
酷くなりすぎると徐々に光や音、あるいは何かの記憶などの刺激に対して、より強く惹きつけられる現象が起きるらしい。
それらを受け入れようとして頭が痛くなったり、目が回ったり、フラッシュバックは勿論のこと、情報圧で命令系統がパニックを起こして、
意味不明な行動――――(被害妄想系ではなく、思考は正常なまま何かに引きずられるような行動)に走ったり、
視界が前後で安定せず、(新たに道が出来ていることが認識できないなど)同じ場所をぐるぐる回ったりするようだった。
と、聞いたところで正直あまり想像がつかないけれど。
報告があるということは前例が居るということで……それはそれで怖い。
「つまり普通よりも外部刺激に過敏になっている、か」
「そ。視力や聴力って、脳とか他の部分も関わっているんだよね。視力がいくつだろうと。
まぁ、具体的に説明も出来ないし、何か、変なこと聞かれたら、HSPですとでも言っておくといい」
それは、嫌だなぁと思った。
「抑制出来ないんですか?」
「今のところ、心を遮断する以外に無いなぁ……でも、心を遮断すると、脳に命令が行かないから危ない」
「……ですか」
「じゃ、会社に報告書いとくから、また、何かあったら此処に来てね」
「ありがとうございました」
雑に追い出されて、廊下に出た。
特筆すること等もない、普通の廊下だ。
奥にいくつか、診察室とかの札がぶら下がっている。
なんか、変な話だったなと思った。
――――そもそも、何で、そんなものが俺にあるんだろう、とかいろいろと不思議に思ってしまったけれど、医者が知るわけもない。
(心は開き続ける。俺は通常の人間に比べて大分開いてしまっている、か。しかも、会社に報告されるのか)
ナナカマドは、きっと俺の視力について聞いたときから、既に予想していた。
たぶん前に此処に来たあの日――――「やれ」と言われた時から、彼は俺に何かを、賭け、あるいは期待しているのか……?
(そんな、まさか……)
「叱られたか?」
待合室、の方に戻って来ると、リル、が声をかけて来た。
此処に座って待っていたらしい。なんだか楽しそうに生き生きとしている。
コトはいつもと変わらない態度で、彼女に微笑んだ。
「いえ、ただちょっと検査を受けただけです。特に問題ありませんでした」
「そっかー、でもちょっと見たかったな、怒ってるおっさんとか」
心を忘れても生きていける。
けれど、周りはどう思うだろうと、ふと思う。
昔みたいに戻れとか、どうして冷たくなるんだとか、責められたら……きっとすごくきついだろう。
知らない人から昔の友人みたいに、馴れ馴れしくされるのもすごく辛いだろう。
その頃には俺はもう、そのときの心を持っていない。一時受容器官を切り離すだけだというのに、周りに人が居るだけでなんて面倒で大袈裟なことか。
「俺もです。……えーと皆さんは何をしていたんですか?」
「ん? 今は、お前待ちだよ、あいつらは一応検査受けてたけど、今はタワーに居るんじゃないか?」
席から立ち上がりながら、リル、はコトを真っ直ぐ見据えている。
「そうですか」
……そういえば。
改めて真近で見ると、なんだか若干髪が短くなっているように思う。
そう、2センチとか、そのくらい、毛先が一部だけ。
「あぁ」
コトの視線に気づいたのか、彼女は薄っすら笑いながら話した。
「昨日、あいつの魔法を受けたときにな。でも掠っただけで済んで、坊主にならなくて良かった」
そう言ってケラケラと陽気に笑っていた。
だから、コトも深くは聞けなかった。
せっかくの髪になんてことを、とちょっとイラっとしたけれど、彼女が笑っているのであればここで荒立てても仕方が無い。
「無事でなによりです」
診療所の窓の向こうには、清々しい快晴が広がって居た。
早朝がそのうち朝に変わる前の、ひとときだけの、静かな時間。
何故か他の人は来ておらず、この場に二人きり。
聞きたいことがあった。
言いたいこともある。
今なら、誰にも見つからずに聞き出せる――そう思う気持ちと、やめておこうと言う気持ちが交錯する。
なぜこの町に来たのか、協会では何をしていたのか。力の事。
あの金髪の青年とはビルで会ったときも最近も親しそうだったけど、どんな風に思っているのか。彼には猫耳を生やしていた。
それに、昔の恋人のこと。俺をどう思って居るか。
どれも、聞けそうになかった。それに聞いてどうするんだろう。聞いたってきっと、全部俺から無くなってしまう。
「この後タワーで改めて話があるんだってさ。昨日、緊急で入ったらしい」
彼女は良いことでもあったのか、あるいは、早朝の空気で気が緩んでいるのか、愉快そうにそう続ける。
「まだ、話あるんですね……俺二度寝したいなぁ」
「どんだけ寝る気だよ」
受付を通り過ぎ、外に向かって歩く。
今は少し、魔女が羨ましいと思う。
――――人間でいることを手放せたら、きっとこんな気持ちで悩まないのに。
外で、キャンディの偉そうな声が聞こえた。
2023年1月23日21時34分




