キケルの話
□
普通の、人になりたかった。
周りは妬んだり蔑んだりしていたけど、俺は普通がよかったのにと、コトは思う。普通がよかったのに、苦しくてもどかしくて、耐えられなかった。普通、の中に自分の居場所はなかった。お前は異常だと言われるみたいだ。高校は意地で卒業した。
居場所なんてなかったけど、それだけは、それすらレールから外れたら、逃げ出したら本当に何処にいても誰とも接点がなくなる気が、なにかの説得力が無くなる気がしたから。
せめて、通って卒業したという上で、自分を、最後に肯定した。
救いは無いけれどそれだけは、未だに、自分を支えている。そこから先は、だから。もう、同じ道を、行くつもりはなかった。
「……ん」
涙で濡れた瞳を擦る。
どうやら泣いていたらしい。なんだか変な気分だ。あと――胸が熱い。
なんとなく、熱い。よくわからない。例えじゃなくて、熱を持っている……ような。
しゅわしゅわと、炭酸水みたいに、内側から何かが沸き立つ、みたいな、違和感。
シャツの内側から、手を入れてみる。
「……うそ」
嘘に決まっている。キャノの言っていた話では、力が強い魔族は――
「女性になる、ことが……」
いやいやいや。
コトは必死に否定した。まさか。そんなの、ありえないだろ。
女体化?嫌だ。嫌すぎる。
「エネルギーバランスが崩れているのかな、ほら、いろいろ安定すれば、きっと」
コトは我ながらよくわからないことを口走りながら、シャツを脱ぐ。
視界に入るのは、やや丸みを帯びた胸部。
……つらい。というか、恥ずかしい。自分の裸なのに。泣きそうだった。
「にしても、記憶ないな」
いつの間に寝たのか、目が覚めたら夕方の4時。しかも、窓を開けっぱなしだったようで、風が入ってきたので、急いで閉める。
なんだか、混乱してしまっているらしい。
「はあ……」
コトは飛び級で高校を卒業したものの、その後は長い春休みみたいなもので、何もしていないため、常に暇だった。
高校側も、飛び級は自己責任って感じで、先生もそのあとの進路とか知りませんって感じだったし、そういえば、クラスのみんなが一生懸命悩んでいた希望調査も、一人だけ書いていなかった そう考えたら確かに、敵だったの、かもしれない。
頑張ってる人の、敵。
……足が速い人と、頭の回転が速い人は、どう違うというのだろう。
結局、どちらも体力、なのに。あっちの格差だけはなぜか認められているのに。
……よくわからない。暇な授業に出る方が、暇なのに。
「こうしてると、ニートみたいなもんだよな……」
とりあえず起き上がり、昼食を作ることにした。いや、もう夕食か。
キャベツを大きく、たまねぎを微塵に切り、ひき肉をレンジで解凍。
肉を入れたボウルに卵を入れ、玉ねぎ、牛乳に浸したパン粉を投入し、塩コショウを振り、こねる。
それから、キャベツだけを茹で、柔らかくなったら、肉を巻いて、巻いた部分は浮いてきてばらけないために、下にして茹でて、味をつけて――
と、やっていたら、部屋に、ピンポン、と来客を告げるチャイムが鳴った。玄関に行き、鍵を開けると、そこに居たのはキャンディだった。
「よっ!」
「な、なにしにきたんですか」
「んー、確認とか、いろいろ」
「はい?」
キャンディが、キラキラの美顔を近づけてきて、目眩がする。
「だから、聞いてねぇのか?」
聞く?
コトは意味がわからず首をかしげた。
「エネルギーの乱れで、中途半端にホルモンが異変を起こすことがある」
キャンディは、まるでコトの不安を読み取るように、そう言うと、シャツの上から勝手に胸部を触って言う。
「な……!」
「だとしても俺には関係無いって? いや、そうなんだがな。上から直々の命令だ。まさか体がこうなったからって、いきなり、リルたんたちに混ざろうなんてメンタル、お前には無いだろ」
「普通、ないでしょう! 漫画のキャラクターくらいですよ」
思わず、声が大きくなる。キャンディは肩を竦めた。
「怒鳴るなよ……ま、んなわけで、気を付けろよ?」
「なに、が……」
やわやわとさわられるが、こいつ、殴り飛ばしたいとしか、思えない。
「魔女、は、力が強いから狩りの対象にされやすくなるからな……」
「……はあ」
これまでに増して現実味の、ない話だった。
取り締まられたとはいえ、まだ、レジスタンスは居るらしいけど。
「しばらく俺が住んでやる」
「はあ!?」
わけのわからない話だった。ピンポン、とまた音がして、宅配便が届く。キャンディがサインを書いてお兄さんを見送り、またコトに笑いかける。
「よ、ろ、し、く!」
いやいやいや。
待て。おかしい。
「いいだろ、男女じゃないんだしー」
耳元で囁かれ、「ん……」と変な吐息が出て混乱する。
「大丈夫、今のお前は一時的に若干感度があがっているだけで、性別は変わってない」
「なんか、それは、それで」
「下はあるだろ」
「な――! あ、ありますが……」
何が悲しいかわからないが、無性に切なくなってしまう。
「お前、案外かわいいよな」
「ひええ……」
怖っ。
やだ、なにこいつ。
キャンディに抱きつかれて、コトはなんだか、よくわからないが、寒気がした。
□
ぼろけた廃墟の、真っ赤な絨毯の上。
「どうするの、ナナカマド」
掠れた、甘い、女性の声。長い黒い髪。
艶やかな肌。なんだか視界に入れてはいけない気がして、男は表情を出さないようにしながら、彼女の正面に立った。
「……リミッター破壊の件は、彼の方にも、伝わってるでしょ?」
「ええ」
男はうなずく。
「あいつがまとめているデータでは、だんだん、良い数値が集まっていますね……」
「人間を魔術士にする計画かぁ……人間っておろかねぇ」
魔術師、または魔導師。魔女を嫌う人間たちがそれでも力だけは渇望し、どうにか中身だけ利用してやろうと考え出したのがその名を冠する計画で、今も進行中だった。
魔、は魔物の魔でもある。魔女狩り、という伝記で持って忌み嫌う魔女にも使われる字。
だからか、人間こそが神聖というアピールで聖女、という名を全面的にアピールする案もあるらしい。
「狩られるのは本来は『悪魔と契約した黒魔術系』の魔女だという話すらも今や混同されてはいるけど、差し置いたにしても本来は聖女というのなら聖法と呼ぶべきよね」
なぜか魔女の名は貶すわりにその部分には拘ろうとしないのが人間のやり方だったりする。
「だからこそ、こんなことができる」
彼は、感情を込めないように彼女に応えた。
しかし『彼女』はさらに絡み付くような声で、彼に囁く。
「ねー、アイスは見つかった?」
「ええ。見つかりましたよ」
「それで?」
「魂の半分が、少年に。もう半分は、世界の闇の中に」
『彼女』は愉快そうに笑った。
「そーぉ。へぇ。面白いじゃなぁい……」
男には、それが面白いかはわからないが、黙って、彼女を見つめた。
少年、は人間だ。
そして、あれは人間に宿るには、あまりに強大な呪いだ。
少年がもしそれを、飼い慣らすことができる身体の持ち主だとすれば――
「少し急いでみようかしら。ニカやマクロスが狙ってきていることも、あるしね。
わたしはただ、世界に余計な影響を与えず、静かに過ごしたいだけなのに……」
.
「いや、それもですが、まず、少年の引き出す力が思っていた以上の強さでして、一度暴走も起こっております、この、タワー内で……」
「あぁ──なるほどぉ、その為の顔合わせだったんだ。
わざわざ召集なんて話、変だと思った」
「……まぁ、その」
「ウフフフ。貴方も人が悪いわね、しかしまさかそんなに成長が速いとは……いつ、何が起きるかわからないわぁ」
「そう思い、人を付けておきます」
「ウフフフ。わざわざ実験台にされるような相手ではなさそうね」
彼女は目を細めて笑う。それから愉快そうに手を叩いて、何気ない世間話のように別の話を始める。
「ね、ご存知? 『彼ら』私たちのことを贅肉って呼んでいるらしいの。
この前ある筋から聞いてね。ほら、あそこのお偉いさんが欲の肥えた見た通りの太った人だから。贅肉さんを消費、贅肉さんを消費って言って、嫌だわぁ……なんて下品な呼び方なのかしら」
「贅肉、ですか。あちらのアーチ(熱心なファン)にも困ったものですね」
人間にもルーサという魔導師ものの漫画を作って信者たちに寄付金を募っていたり、英雄譚などとテーマに選ぶ熱心な思いを寄せるものがいるのだが、彼ら彼女らは非常に回りくどく、直接に交流をしようとはしてこない。直接何も言わないくせに
嫌がらせは継続するといった具合で、実質居ても居ないのと変わらない、構って欲しい悪霊のようなものだが──
2021/5/2612:31加筆
□
翌日。
「ヘーイ! コトくーん!……やっぱ返事ねぇなあ」
ピンポンピンポンと呼び鈴を連打しても出てくれないので、クルフィは勝手に中に上がることにした。コトの両親は共働きでほとんど家に居ないのは知っている。
靴を脱ぎ、フローリングを進む。
二階からどたばたと音が聞こえてきたので、クルフィは、ふと足を止め、耳をすませた。
「……、……っん……あ、あ……待っ――」
吐息混じりの甘い声。
簡単に言えば、あえぎ声に近い。
「えーと……」
クルフィは混乱した。
コトの恋人でも居るのか?
そんな話は、聞かなかったが……
様子を見に寄った手前、引き返せないような、引き返すべきなような。
甘い声が次第に激しさを増す。やべえ、帰りたい。クルフィはあせる。
ぎし、ぎし。
寝台が軋む音までわずかにしている。やべえ、帰りたい。
クルフィは冷や汗をかく。
「あ……あ、あっ……や、や、だ……っ」
頭上から、甘い声。
やべえ、かなり帰りたい。つーか案外音って丸わかりなんだな。
やれやれ。
なんの拷問だよ。
仕方ないから、待っててやろうと、壁にもたれ掛かる。
彼女にしてはめずらしく気を遣って、コトを待つ。
少しして、階段をどたばた降りてくる音。
しかし隠れなければ、と咄嗟に振り向いたクルフィは、近くに積んであった雑誌につまづき、よろけた。
「うわ!」
どさ、と転んで尻餅をついていると、階段を降りてきた少年とはちあわせた。
「く、クルフィさ……!」
「コト?」
彼は、どうしてかシャツ一枚羽織っているだけだった。
「いや、あの。今さっきたまたま……呼んでも返事がなくって……えと」
クルフィは必死に弁明する。
コトはコトで、変な部分で肝が座っているのか、平常心。
「どうか、しましたか」
クルフィが挙動不審なので、彼は怪訝そうに聞く。
「あの……音が、ですね」
「ああ、着替えを手伝ってもらっていました……慣れないですね、なんか。魔力の偏りがこう、身体にも出てくるとは……」
「へ?」
クルフィは、きょとんとした。
……っていうか。
「誰に」
「キャンディさんです」
「なんで?」
「先代の魔女の血のせいで――魔力の偏りはそのまま、先代の魔女の体に近くなるという……」
「つまり?」
「……言わなきゃ、わからないですか」
コトの胸元を見る。
わずかに膨らみがある。それに、全体的に、どこかしなやかだ。
「あー……」
クルフィは、一旦、言葉に詰まった。思考停止だ。やがて、納得して、うなずく。
「わかった。なるほどな……」
いや本当は全然わからない。でも、わからなくもない。
魔女、が女性である以上、そして彼女たちの呪いがかかる世界である以上。魔力の影響が、そのまま、身体に与える変化もまた――――
「って、おいおい……なんでキャンディなんかに頼るんだ……相談してくれりゃ――」
「……クルフィさん、どこ行ってたんですか?」
コトは、昨日会社に行った。でも、彼女はいなかった。
ホテルにもいなかった。
「そ、れは――」
そういやそうだな、と、クルフィは視線をそらす。コトはそのリアクションは眼中に無いらしく言う。
「それに、恥ずかしいじゃないですか。精神的には、追い付いてないから」
「あぁ……まあ、そうか」
「おれ、どうなっちゃうんですか」
「あー。それはたぶん、一時的な乱れだ。と思う……落ち着いたら、安定する、はずだ」
「キャンディさんも、言ってました」
「そういやあいつは?」
「さぁ」
コトが曖昧に言葉を濁す。クルフィは思い出す。着替えを手伝われてあの反応って、どうなんだろう……
クルフィは数秒悩んだが、細かいことは考えないことにした。踏み入ると、なんだか面倒なことになりそうだ。
着替えてきます、とコトが二階に上がるのを見届けて、クルフィはため息を吐く。
なんだろう。
よくわからないが、なんか、よくわからない気分だ。
「うーん……」
コトは目覚めたとき、驚いただろうか。
キャンディが来ていたって言ってもいた。そういえば、この家から感じる気配は、自分を除くと2人ぶんな気がするが。
キャノは、昨日のあのときからホテルにこもっている。呼んでも出てくれなかった。
彼女があそこまで思い詰めていたなんて、思ってもみなかった。
「よく、鈍いって言われるけど、さすがに、そうだなと思った……」
彼女は彼女で強い。
無理に引きずり出したらそれこそ、変な癇癪を起こしそうだから、できない。
クルフィはキレたり泣いたりすることはあっても、癇癪を起こすということがなかったので(殴るか、消すか、忘れる、みたいな感じにはっきりしてたから)
ああいうのはどうしていいかわからない。
というか、正直言ってめんどくさいのだ。
怖いし……
不満ならはっきり言えばいいのに、と他人事だから思ってしまう。
その点については「全然わかってない」だの「お前と違って繊細なんだから」だのと、散々に言われてきたけれど、よくわからない。
行動するかしないか、単にそれだけのこと……ではないのだろうか。
と言うと、ばあちゃんなら、また怒るかもしれない、と亡き身内を想ってみる。
クルフィは自分が傷つきやすいと考えている。繊細で傷つきやすいどころか、すぐに許容量をオーバーするくらいに脆い。だからこそ、さっさと問題を片付ける必要があった。
ちょっとした不満でも、持ち続けるとおかしくなるから。
これは、繊細と言うのではないのだろうか。
でも、彼女には慢心があり、自信があった。
全員が味方してくれないなら、全員を消せばいいだけなのだ。
そう考えたら、すっと胸の中が軽くなる。自分は強いから、いつだって最悪なときの覚悟を出来ていた。
自信があり、根拠がある。だから、大抵のことに落ち込まずにいられる。
――例えそれを、誰も認めてくれなくても。
しかし、他の人にはそういう強さになるものが、無かったのだろう。
言い返されたりしたときに、慰めになり、強みになるものが無かったのかもしれない。
キャノはクルフィが何も気付かないことに、どう思っていたのだろう。彼女を励ますことは、自分にはできない?
わからない。
誰に、言ってるんだろう。誰に、言いたいのだろう。
クルフィは、学生時代、自分が強いから、あまり人が寄り付かないと知っていた。でも、キャノは違った。当然のように、隔てなく接してくれた。なのに。結局『あいつら』と同じなのか、と、身勝手に考える自分が嫌だ。不快だ。
学校をやめていった同級生を思い出す。
自分のせいだと言われた。彼女が強いから、やる気を削がれたと言われた。クルフィには、わからなかった。
勝手に見下して、勝手にそんな風に言われて、それで言い訳にされて――
「弱さにしがみついて慰められて諦めて、死んだ目をして、それで、何が残るんだよ」
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
「どうか、しましたか」
背後に気配。
着替え終わったコトが立っていた。
「あ……えっと」
クルフィが呆然としていると、コトはその頬に触れてくる。
「涙の跡があります。何か、辛いことがあったんですね……おれ、何か力になれたら、言ってくださいね」
コトは、彼女を心配そうに覗き込んでくる。
「え……」
クルフィは自分の頬に手を当ててみる。少し、水が張っていたような感覚がある。 泣いてた?
全く気づかなかった。
自分のことじゃ、ないのに。
自分に何かあったんじゃないのに。
泣くような理由が、ない。動揺するクルフィに、コトは微笑みかける。
「大丈夫、です。少なくともおれは、強いあなたのことも、弱いあなたも、大切に思っている」
目の回りを擦りながら、クルフィは無理して笑った。
「お前、いつから、そんなかっこいいことが言えるようになったんだよ」
「あなたに……会ってからですよ」
コトはくすくす笑って言った。
おかげさまで、自分の強さに気付きました、と。
「なんだ、それ」
よくわからないけれど、また涙が溢れてきて、クルフィは顔を覆う。
そんなの、今まで一度だって言われたことがなかったのに。
「でも、お前はもともと、案外、頼りになるやつだったんだぜ?」
クルフィが、声が震えそうなのを堪えて呟くと、コトはそうですか?
と少し嬉しそうに言う。
「あのさ――」
「はい」
「気づいてると思うけど、お前たぶん」
「人間で、魔族なんですよね。信じられないけれど」
「ああ……」
「あはは。なんか。みんなが平等に、仲良くって、難しいですね」
区別や環境は、なんだかんだで必要ですよね、とコトが苦笑する。
身体が合わないのだから、仕方がないのに。と。
どんな目をしているか気になって、クルフィは顔をあげた。
「なんで、魔族の里を、滅ぼしたんだろう。人間は、ばかだな」
「さあな」
クルフィは、目を伏せて笑った。
それから。
「――キャノが、私に手紙を出した。そして、私はそれを見てやってきた」
クルフィは、リビングのソファーに腰掛けながら、左隣に座るコトに、時系列順に、最初の頃の話から、今に至るまでの経緯を整理して聞かせた。
クルフィがあの手紙から、どこか知ったような魔力のにおいがした、と言うと、コトは、表情を変えずに質問した。
「二人は――互いの魔力を知ってますよね?」
「ああ」
「……一番強い魔力が、そんな風にして、現れてくると思うのですが、キャノさんから、強い炎を感じたことは、俺はありませんが」
それは、クルフィも不思議に思っていたことだ。
「あいつ、前から、人工魔法や、レジスタンスの行った魔力製造実験に関する話になると、やや熱くなる部分があったんだよな。普段はもう少し冷静なのに」
「まさか――」
二人は同時に、ひとつの予想をした。
行かなければならないというようなことを、言っていたと思うが。
「そういや、あいつのライブ会場が燃えていたって話もあったっけ」
「そのとき、指名手配されているにしても、実際に使ったような場面は無かったはず、なんですよね。ライブ映像、ネットとかでも見ましたが。手をあげてるくらいの――こじつけって感じで」
「ああ、確かに、曖昧だったな……あいつとは限らないのに」
「この国は、疑わしきは罰せずという言葉があります――証拠が決定的でないのに、それほど追われるって、そもそも、何か、不安定な感じがしていました」
彼女を捕まえたい、別の理由が、あるみたいで。
「まあ、確信は、今も持てないままですが……」
コトは、困ったように眉を下げながら言う。
「局の側の人間の何割かが魔族に反感を持っている。それは予想できたことです」
「やらせ……というか、そっち側が仕組んだって言いたいのか?」
「たぶん、そうなんでしょうね――そして彼女は、それに関して何かまずい情報を握っ――」
コトの唇が塞がれた。
すぐ前にあるのは、クルフィの整った顔。
「…………」
目はどこか怒っているみたいなのに、自分に触れている感触は柔らかくて優しい。
――少し、黙れ。
不思議な感覚だった。
彼女の声が、自分へと流れ込んでくる。
しゃべっていないのに。
コトは、一瞬、恥ずかしくてかあっと顔が熱くなったが、すぐに目を伏せて彼女を引き寄せる。
彼女の声が自分に流れてくるのと同じように、自分も伝えたい。できるはずだ。
――なぜですか。
彼女の声が、流れてくる。
――聞こえているかもしれない。誰かが聞いているかもしれない。
あいつだって、だから、その辺の事情は迂闊に言えないんだろう。
私たちにさえも。
――そんなこと、可能なのですか。
――わからない。けれど、リミッターとは別に、《そういう機能》が、この世界のあちこちに、あったとしたらまずい。
――ですが……
――勘だけどな。いっとくが、なかなか、魔女の勘は当たるぜ。
占いも出来るからな。
――はあ……わかりました、信じます。でも、魔力による反乱を、未然に防ぐために、怪しい人物への監視くらいなら、すでにやっていたのかもしれませんね。
――ああ。しかし、だいたい私に、匿名で手紙を書いた理由も謎なんだよな……事情なら聞くのに。
――報酬、彼女が払ってるんですか?
――さあ、な……
振り込まれてはないというか、何をやってもらいたいかも曖昧なままだったが。回収も中途半端だし。
――クルフィ、さん。
――なんだよ。
――あの。
少し、間が空いて、コトは言う。名前を呼んだのはなんとなくだ。
なんとなくだけれど、何か言わなければと思ったのだ。
――好きです。
彼女を。
どこかで繋ぎ止めておかないと、消えてしまいそうな、そんな気がして。
クルフィには、彼が曇りのない、まっすぐな目をしていたように見えた。どうして、そんな目ができるのだろう。
――ああ、私もだ。
クルフィは、どこか彼の成長を感じながら、にやりと笑って言う。
――おれは、キャノさんも、好きです。
コトが続けて言うと、少し、間が空いて、クルフィも言う。
――ああ。私もだ。
それから、二人は体を離す。キャノを、白銀の髪の歌姫を探さなければと二人とも思った。
クルフィは思い出す。
彼女の目的は、マザーリミッターの破壊のはずだ。
大魔女が5人で支える、世界の基盤とも言えるような巨大な柱。
それの破壊に必要なのが、コトのような、魔族と人間の血の混ざったような人間なのかもしれないと、彼女は言っていたが――――
ちょうどそのとき。
外から、楽しげな歌声が聞こえてきた。
どこからともなく、脳にねじ込まれるみたいに、響いてくる声だ。
魔力を持つ音。
耐性がある程度ある者には耐えられる暗示だったけれど。
「な、なんだ」
クルフィが、慌ててドアの外を覗き込む。
コトも、その後ろに続いた。
「そんじゃ、みんなぁ、いっくよーー!」
目の前、というか頭上で白銀の少女が、電線の上に乗っている。
そして、にたりと笑っている。けど……
「あれは、誰だ」
キャ―――――ハハハハハハハハハハハハハハッ!!!
高い声が辺り一体に響き渡っていく。
空気が、町が震えていく。目の前の彼女は、キャノに似ている。そっくりである。
なのに、違うと感じる。なぜだ?
歌声が聞こえる。新曲らしい。けど、けど……
「キャノさん」
コトが、声をかけるが、彼女は歌っているままだ。ちらりと下を見て、一瞬コトに笑いかけた。
しかし、それは、冷たい笑顔だ。
人間とは思えないような。
「キャノさん……?」
どうしたのだろう。
知ってるのに、知らない気がした。誰だ。
隣を見るとクルフィも驚きに固まっている。
「お、まえ……」
「あら。お久しぶり、フェイブル」
「キケル、なんで、ここに?」
クルフィが、青ざめながら聞く。キケルとは誰だ?
コトは口を挟めない空気と会話に困惑を隠せない。
「キケルぅ、キャンちゃんと喧嘩しちゃってねっ、それでぇ、身体、なくなっちゃったのー」
キャンちゃん、とはキャノのことだろうか。
「キャンちゃんが、どう、関係するんだよ?」
クルフィが聞くと、キケルは愉快そうに答えた。
「喧嘩したときにぃ、キケル、あいつらから逃げ遅れたのよう。そしたらー、リミッターに食べられちゃった」
白銀の髪に、白い肌。
そして桃色の目。
キャノにそっくりだ。でも口調は、違う。
それに。
「リミッターに、食べられた?」
クルフィが聞き返す。
「うんー、リミッターに吸収されちゃったっぽいよ? だって私たち」
エネルギーの集合体みたいなものだから。
その言葉に、クルフィが固まる。
コトも固まった。
言われてみれば……いや、しかし、それはあまりにも非現実的ではないのか?
肉体が、『殻』に『器』に、ならないなんてことがあるだろうか。
エネルギーすべてが体を通り抜けるわけではないはず。でなければ、栄養も何もかも、身体を構成できないではないか。
「キケル、今の話は」
「本当だよ? けど、肉体の殻を破る方がより魔力を扱えるし、いいこともなくは無い」
「キケル……」
ひと、であることを捨てたその台詞の悲しさに、本人は自覚がないのだろうか。
クルフィとコトは複雑そうに顔を見合わせる。
「キケルは――」
クルフィが何か言おうとしたときだった。キケルが歌を再開する。
そういえば一度止めてくれていたみたいだな、と気づく。
横切る通行人が、ぱたり、ぱたり、とその場で眠りにつく中、コトはキケルの居る場所の電柱に向かって行き、手を添えた。
「キケル、さん……」
目を閉じ、念じるように。
「そこにいるのは、危ないです」
少しずつ、こもっていく力。
コトの髪が、ふわりとなびき、肩までのびる。
辺りにさわさわと風が吹いて、彼を囲む。
キケルの身体がふわりと浮いた。
「きゃっ!」
驚いたような声をあげて、彼女が落ちてくる。
コトはそれをぼうっとした顔で受け止め、抱き上げると、崩れ落ちるように、その場に座り込んだ。
「お、おい、コト――」
まさか、無力化を使ったのか。あんなに離れた位置から……
クルフィは驚きを隠せない。少し辺りを見渡せば、時間が止まったかのように、静まり返り、近くの人がみんな寝ている。
(解けてない……)
「おい、コト」
クルフィが、電柱のそばによりかかる彼に呼び掛けると、少ししてコトが目を開けた。
「あ。ああ……クルフィさん? おれ――――」
彼のそばには、彼女、キケルが眠っている。
いや、彼女には身体がないと言わなかったか。
だとしたらこれは誰の。
「んー……」
身じろぎして、体をくねらせた少女を見ながら、クルフィは、何か思った。彼女の口の中に指をつっこむと、かきまわす。唾液を採取して、それを自らの魔力で燃やした。炎がゆらめき、淡く銀色になる。
「……キャノ」
「えっ」
コトは、もう一度目の前の彼女を見た。
「……まさか、キャノさんに、キケルさんが、入っている?」
クルフィは何かを考えるように顎に手をあてた。
「さあ、な。どういうことなんだか」
キャノが、レジスタンスを追っているのとなにかの関係があるのだろうか。だとしたら。
「リミッターの破壊、か」
寝ている白銀の少女の髪を掻き分け、そっと頬を撫でた後、その右腕を掴み、着ていたボタンの多いピンク色の服の袖をめくった。
白い肌に浮かび上がる、真っ青ないくつもの不自然な形の、筋。
それは痛みの形。
苦悩の傷跡。
「……………………」
「それ――」
コトが、キャノの身体の筋を見て少し青ざめる。
「ああ。そうさ」
クルフィは苦しそうに頷いて、そして言う。
「痛みを誤魔化したところで、受けるダメージは変わってない」
「でも、クルフィさんは」
コトは、クルフィのきれいな腕を見て、首をかしげる。
「私は、まだここまでではないな」
中和しているのだ、と思った。
自らの結界で中和し、ダメージを軽減させている。
(それでもなお、あの魔力か)
ぼんやりと思い出すことがある。何を思い出したんだっけ。なんか、わからなくなってきた。
「キケルさんは……大丈夫でしょうかね」
コトが呟くと、クルフィは苦い顔をして笑った。
「ああ、恐らくな」
どうしてそんな苦しげに笑うのだろうとコトはわからない。
クルフィは、コトが、ときどき知らない誰かになる、そのことに関係するのではないかと考えていた。
しばらく間をおいて、クルフィが呟く。
「今さら、言うまでもないがキケルは、キャノの双子の姉妹だ。たまに学校で会っていた。来なくなったと思って忘れていたが、こういうことらしい」
「なるほど」
コトは、キャノが言えずに抱えていた秘密はこれだったのだろうかと、複雑な想いにかられる。
少しして、キャノが目を覚ました。状況が飲み込めないようで、あたりをきょろきょろと見渡している。
「おはよう、キャノ」
「お、お、おはよう?」
彼女のとぼけたような表情に、クルフィは少し安堵した。部屋に籠っていたときは心配したが、まだ、大丈夫だ。
彼女は完全に世界を否定するくらいには壊れきってはいない。
「私、どうして……」
「なにか、あったのか」
驚きをごまかそうとしたのか思わずクルフィが聞くが、彼女はただ混乱していた。
「部屋に居たはず! 気づいたら意識が無くて……なんで!」
「以前も、そんなことがありませんでしたか」
コトが横から聞く。
キャノは、その瞬間、何かを悟ったように俯いた。
「そっか……気づいちゃったんだ」
クルフィがまくりっぱなしだった服の袖をもとに戻し、彼女は立ち上がる。
実はしばらくはクルフィに膝枕されていた。
だが彼女にしては珍しいことに、そんなことには目もくれずに起きた。
それから自分の胸元に手を当てると、目を閉じて何か唱え出した。
「ィデル・トラィ・リデ・シルロット・キケルルレル」
彼女の姿が二つにぶれ、壊れかけのビデオテープの映像のようにずれて重なって、やがて二つの影になっていく。
キャノが二人になった。
「どういう、ことだ?」
クルフィが唖然とする
二人のキャノは同時に笑った。
「リル」
「リル」
「好きよ」
「好きよ」
「お前たち、は、いったい……」
焦りのこもる声。
コトは、クルフィがこんなふうにあせるのを初めて見た気がした。
目の前の二人のキャノが言う。
「『幻影の魔女』によって、身体を統一化してもらっていたのだけどね」
「こういうことよ」
「これが、リミッターが奪い取る私たち」
「これが私たちのエネルギーを、過剰に吸収し続ける町の正体」
「私を保つこと自体が危うい」
「人間の魔術開発に使っているの」
「じゃあ、私たちは、なに?」
「その辺の人間が持てばろくなことが無いこと、何年も繰り返し経験した戦いで、気づかないのよ?」
「キャ、ノ……」
クルフィが、悲しそうに顔を歪ませる。
「私は……」
キャノは首を横に振った。
「リルは悪くない。あなたは、大変だったでしょう? あの部屋から出てこられないほどの、大きな傷跡をおっていた」
「そんなことはない、ばあちゃんが亡くなったのは切なかったけれど、あの村で、のんきに暮らしていた……」
「のんきに暮らすことができる時点で、あなたはもう、受け入れ過ぎてる」
「わたし――」
「あの日の話なら、いつか思い出すわ」
キャノが、前よりも知らない人に見え、コトもただ黙るしかできないで見ていたが、やがて口をはさんだ。
「リミッターによるあなたの、傷跡、見てしまいました。それから、俺――」
そういえば存在に気づいたというようにキャノが彼の方に向く。
「コトちゃん?」
「……やっぱり、おかしいです。魔族の村を滅ぼして置いて、魔力を人間のために使うなんて」
「でもね、私たちが《特別》じゃなくなることは、かつてのような『異端の排除』を起こさずに済むわ」
「あなたは、でも、破壊したいんでしょう?」
コトのその台詞に、少し、キャノの目に戸惑いが浮かんだ。
「キケルさんが、リミッターの犠牲になった」
「それを、どこで」
キャノが、動揺する。
薄々わかっているのだろうが、確かめずにいられない、というようでもある。
「本人が、ここに、いらっしゃっていました」
「ああ――やっぱりね。あの子、ここに来たんだ」
「ええ」
クルフィは思い出す。
リミッターの反動に耐えうる存在があるのなら、コトのように、人間と魔族の間の存在であるのがいいとキャノが言っていたっけ。
「もし――」
そのとき。キャノを引き寄せて、クルフィは抱き締めた。
そして顔を近づけて囁く。
「もし、私たちが」
その先の言葉は彼女たち二人の体内に消えていく。
しばらく、繰り返される浅い呼吸だけが聞こえ、その過程のうちに、キャノの体が一つに集められていくのも見えた。
どうやらこれは、彼女の統合、修復も担う行為だったらしい。
二人の間に交わされた無言の意味がコトにはわかった。
『世界の破壊に協力すると言ったらどうする?』
守りたいものがある。
破壊のあとに残るのが、後悔かもしれなくても。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
??:??
「――ですから。この国の王に、お伝えしたいのですが」
或る日。
『テーブル』に向かい合うなり、彼女は言う。
まっすぐな目をしていた。
彼女もまた目的――制限の緩和または能力者の尊重――の為には、この国の王の前に、どうしても自分か環境のものを通さなくてはならない。
そもそも話し合いなど出来るのかという疑問が先立つが……
制限装置の区域制御を手伝う傍らの縁で、管理局の長としての『彼』は、どうしても『彼女』と関わらなくてはならなかった。
『他ならぬ彼女』の連絡だからこそ、無下にすることも出来ずこうやって話をしているが、なんとも話し合いたくない話題で苦笑いしてしまう。
まだ若々しく見えるのに、随分大人びた口調。
そもそも見た目で判断するのが間違っていることは十分認識した上で、それでもやはりそう思わずには居られないし、何度見かけても慣れることがない。
「今の世界が魔力を持つ者へ規制によって逆に生態系レベルでバランスが乱れていることはご存知ですか? さすがに力の強い土地の巫女や、王にまで及ぶこととなりますし、少しずつその弊害が出始めております」
「その件でお通しするのは……この国は今、せっかく、目立たないように隠し通し人間が少しでも優位に立てるよう規制し育て上げた今のこの社会を重視しています。相手になどされませんよ。今更、なんだかよくわからない力に乱されてはウザいと、政治家やら偉い方々はそう思っているのです」
「魔力は本来人間には無いもの。一度規制すれば自分にも助けることはおろか何もできないというのに、制約を付け、更に、力の大半を機械に注ぎ込むことで、生命維持すら拒絶するなんて、最低限度の保障すらスレスレではありませんか? 奪うことは出来ても、与えることは出来ないのなら、それは」
「ですがこれで、しばらくは安定して力を得られそうなので、そうも言っていられないんですよね。電力などを、魔力に数パーセント置き換えて使っているおかげで料金は下がり、国民の支持率が跳ね上がった。魔族を含めたあらゆる民の生活にも関わっています」
かなりのエネルギーを消費してやった。できることなら、奴らの職業も下級な職にしてやりたかったが、さすがにそこまですることは出来ない。
などという上のやつらの本音部分も知っていたが隠し、笑顔を向ける。
「あれだけの制限をされていれば余程の者でなければ強くなれるはずもない、それをもって、我々は国民に平穏を証明して見せた。そうして均衡協定が、人類と彼女らの平和が、現在まで続いてきたのですよ」
「それでも……変化を嫌い、同じことを繰り返しているだけでは、新しい時代に対応できません。全てのものが、時のなかで等しく生き、その時間の歳をとります。もしかすると、そのうちとんでもないことが起こるのではないかって」
「起こらなきゃ、わからない、やってみなければわからない、それが人間の素晴らしさです。今は、多少のことはあれどおおまかに見れば平穏が続いているでは無いですか」
――魔法遣いとその他の人類の戦いは長きに渡って行われてきた。
その中で常に劣勢を強いられてきた人類にとっては、機械ひとつで魔力が規制できるようになったというだけでもかなりの進歩だった。
そのために随分の血が流れ、随分と技術、莫大な予算、幾年にもわたる歳月が必要だったし、それだけの価値があったはずだと思わなくてはやりきれない。
そもそもそこまで行うほどの労力を費やしたところで土台、物理には収まるはずもなく、完全な制御は無理な話なのだが、それでも人類には人類の意地というものがある。
彼女らを早いところ抹殺してしまおう、と人間至上主義団体や政治活動家たちが何度考えたことだろう。
(例えば、国力、とはいかなくとも、一定の条件下であれば能力者を利用するための手筈を整えられる……)
政治家のバックにも各国に信者を持つ宗教団体もあることだ。
本当はそこまでして機械なんか作らず、どうにか呼び出して、何も出来ないように縛り付ければ済むのかもしれない。そういう話し合いも確かにあった。
使えないようにさえすれば、彼女らは生きることすらままならない軟弱な、所詮は人間だ。ただし、にんげんだから、人権がある。
これが問題だ。
それに真正面から戦っては勝ち目など無い。だから機械を作った。
けれどどのみち、彼女たちが生きられるぎりぎりまで規制することで、強制的にエネルギーを使ってしまう。
それで十分に彼女らを縛りつけ、機械に頼るだけではない見えない部分の数字まで規制することに成功してもいる。よくやった、人類バンザイ!
それなのに……
起きても居ないことで双方を納得させることなど出来るわけが無いように思える。
「私たちが居なくなればどのみちその分のエネルギー負担は急激に増え、一気に同時期に異変が起きるでしょう、そのとき、誰にも救えなかったで、本当にいいのでしょうか」
押さえつけることしか能が無いのに。
はっ、と目を覚ます。
自宅の寝室のベッドの上だった。こめかみに流れ落ちる汗を拭いながら辺りを見渡す。
「はは……」
ボードから取り上げたリモコンでテレビをつける。
部屋が一気に目に良くない光で満たされ、26インチの画面に大きめのボリュームで音楽が流れると同時に芸能人の笑い声がする。『放火か!?』という仰々しい見出しが大写しになっている下品な情報番組のチャンネルに合わせてから、彼はほっと息をついた。自分は何に対して安堵しているのだろうか。一体何を恐れているのだろう。
「……あんなことを言うからだ……あぁーあ!」
何かを言い聞かせるようにわざとらしく独り言を呟きながら部屋から立ち上がる。
押さえつけるしか能がない?
そんなことはわかってるんだ。
だから、焦ってるんだ。他のことに頼ることは何一つ出来やしないんだから。
じゃなきゃこんなに、安心したりしないんだ、それがどうした。
「……あぁー、変な汗かいちゃった!」
壁に貼ってある大きなグラビアのポスターの女性が彼に笑顔を向け、手を振っているのに気付き、彼は慌てて笑顔になった。
同時に、異変に気がついた。
壁にこっそり部屋で描いていた漫画のページが貼られている!
神話をモチーフにした『呼ばれていない者』というタイトルで、あらゆる世界に現れてデウスの邪魔をする為に存在する存在について描かれたものだった。
呼ばれていない者は昔の寓話に登場しており彼が好きな話だった。悪いことをして地獄と現世の隙間に彷徨うようになり、転生をしても永遠に悪役という役目を与えられた女が自分はどうしても悪役以外になりたいとあらゆる世界に出没しては創造神や属神などが築いた世界に現れ攻撃を繰り返すようになる。
悪役以外になりたいという我侭を聞き入れたデウスは『呼ばれていない者』という名で彼女を縛り、どの世界に置いても呼ばれていないのに現れて話を掻き乱す存在という役目を彼女に与える。話を全ての纏める存在と、話を徹底して破壊する存在はこうして別々に生まれた。というものだ。
……なんにしたって、ページを貼った覚えは無いのだが、なぜかこんなところ(グラビアの隣)に貼られている!
それもちょうど、女が『わたし、あくやくなの……』と泣いているシーンだ。
慌てて周囲を見渡したが、誰かが居る様子は無い。
恐る恐る壁からテープごと引き剥がすと、壁に文字と、魚の絵が書かれていた。
『ありがトー! 飲みに行ったよ☆ 木塚』
「!?」
意味がわからない。いきなり漫画を貼っていたかと思えば、飲みに行ったよ☆ 部屋に入ったということだろうか……いや、そもそもどうして此処に?
それになぜあんな監視をほのめかすようなことを。
頭を抱える彼の後ろでは、グラビアのポスターの女優が口を動かし、にこっと微笑んでいた。
(202010312255加筆)




