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ローマでは豊穣の神のため、ルペルカリアという祭りが何百年ものあいだ行われている。
毎年二月十四日の夕方になると、若い未婚女性たちの名前が書かれた紙が箱などに入れられ、祭りが始まる翌十五日に男性たちがその紙を引いて、当たった娘と祭りの間、時には一年以上もお付き合いするというのだから驚きである。
それがバレンタインデーの由来であるらしい。
二月十三日。店をクローズさせてから私は厨房に入り、熱心にバレンタインチョコを作っていた。渡す相手は言うまでもなく涼音さんだ。
正月休み明けから彼女とはいろいろな場所に行った。動物園、遊園地、ゲームセンター。そんな中でも特に印象に残っているのは水族館だ。水槽を眺める彼女の顔が蒼く照らされ、殊更美しく見えたものだった。美の女神がこの世に舞い降りていたとしたら、きっと彼女がそうなのだろうなどと思っていた。
なんといっても本命チョコである。下手なものを涼音さんに渡すわけにはいかない。
でも……。女の子が同性に対して、本命チョコを渡すなんていう行為自体がどうなのだろうか。そもそも、私が恋する相手は涼音さんでいいのだろうか。
同性のことを恋しく、愛しく想う。結ばれたいとさえ願う。
そんなことが許されるのだろうか。
だけど……。
それでもチョコレートを作る私の手が止まることはなかった。
涼音さんを想うと気持ちが温かくなり、心臓は早鐘のように脈打つ。この気持ち、この想いは、紛れもない本物だということだ。空が青いのと同じく、これが私の本当の気持ちなんだ。だから私は丁寧に心を込めてチョコレートを作っている。
「え!? 私に本命チョコって本当なの?」
私は顔を朱に染めながら、控えめに肯定する。
「引くわー。それはないって。同性から本命チョコとかあり得ない」
明日のことを思い、そんな会話を想像してしまう。確かに引かれてしまう可能性が大きい。
だけど、それでも私は彼女に想いを告げ、自分の気持ちを知ってほしかった。チョコレートの上にココアパウダーを積もった想いのように振っていく。
カンフリエの箱を拝借し、できあがったチョコをその中に入れる。黄色の可愛らしいリボンで箱を飾り、ようやく完成となった。
明日、このチョコレートを見て、涼音さんは喜んでくれるだろうかと一抹の不安がよぎる。しかし、それを振り払うかのように頭を振り、厨房を出て自室へと戻った。明日はこのチョコレートを涼音さんに渡すのだ。もしかしたら、受け取ってもらえないかもしれないが、それでもいい。私の気持ちさえ、彼女に伝わればいい。
涼音さんを想うと身体が火照ってくる。今夜はなかなか寝つかれそうにないなと思いながら、頭の上まで布団をかぶった。
翌日は平日なので、学校の講義を終えてから帰宅した。臨時でもう一人バイトの男の子を入れたのだが、それでもレジは長蛇の列だったので、手早く着替えて店に出た。
さすがに今日は女の子が多い。きっとこの子たちも私と同じように意中の人へチョコレートを渡したいのだろうなと思うと、自然と口の端が上がる。
やっぱり人は人に恋をする。それは義理チョコであったり、本命チョコであったりもするのだろうけど。これだけのお客様がそうしているのだから。この人たちと私は「誰かを好き」でいるという気持ちにおいては平等なのだ。
大忙しでレジを打っていると時間があっという間に流れていって、気がつくとすでに閉店間際になっていた。
私はちらちらと開く扉を見る。入店してくる人が涼音さんじゃないと知るとそのたびに肩を落とした。
それにしても来るのが遅い。このままではお店が閉まってしまう。今日は平日だけれど、バレンタインデーのかき入れ時。今となってはこのお店のバイトとして欠かせない彼女が、今日に限ってシフトを入れていないわけがない。
不審に思い、涼音さんはどうしたのかと母に尋ねてみる。
「ああ、涼音ちゃんね。辞めたわ、昨日付けで」
「え……」
思わぬ返事に私は絶句した。目の前が真っ黒になっていく。黒一色で塗りつぶされていく。店の出窓も何もかもが見えない。
「彼女、留学が決まったんですって。その準備があるからって昨日退職したわ。私も彼女を頼りにしていたのに、惜しい人材が去っていってしまったわねえ」
母が嘆息まじりに説明する言葉が遠く聞こえる。
私は閉店五分前だというのに、ふらふらとした足取りでカウンターの中から去っていった。母が呼び止める声が背中越しに聞こえてきたが、もう駄目だ。平静を装う気力すらなかった。
自室に戻り、真っ暗な部屋の中でぼんやりと立ち尽くしていた。今の私には灯りなど必要ない。眩しい蛍光灯の光など鬱陶しいばかりだ。
そのうちに膝ががくりと折れた。
「涼音さん! 黙って消えちゃうなんてひどいよ! これじゃあんまりだよ……」
そこから先は言葉にならなかった。嗚咽とともに大粒の涙が頬を濡らした。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。時計を見ると、とっくに日付が変わっていた。
目を閉じると彼女の爽やかな笑顔や仕草が次々に思い出される。あの水族館で見た蒼くて美しい彼女の横顔。初詣のとき握り合った手の温もり。初めて会ったときの緊張した表情。どれもこれも昨日のことのように鮮明に思い出せる。
私はよろよろと立ち上がり、机の上に置いたまま彼女に渡せなかったチョコの箱を引っつかみ、窓を開けた。月明かりと共に、冷気をはらんだ外気が部屋の中に押し寄せてくる。
「こんなものっ!」
私はチョコの入った箱を窓の外に力一杯放り投げた。これは涼音さんを想い、彼女のために、彼女のためだけに作ったものだ。それが叶わなかったのだから、こんなものはもういらない。野良犬にでも、野良猫にでもくれてやる。
チョコを投げ捨て、ほんの少しだけど心がすっきりとした。そうしてから、私は静かに部屋の窓を閉めた。
それから一か月が過ぎた。三月十三日はホワイトデーの前日ということもあり、それなりに忙しかった。
涼音さんが音もなく去って行った後のカンフリエは、それはそれは物寂しいばかりだった。けれども私がいくら彼女を慕ったところで今、彼女は日本ではない、どこか遠い空の下にいるはずだった。思い煩っても仕方がないと思っていたのだが、一度好きという気持ちが芽生えてしまうと、なかなか消えてくれることはなかった。
この一か月、大学生活に家業に忙殺されてきた。多忙な日々を過ごしているうちに、私の中から涼音さんの成分が少しずつ、ほんの少しずつ消されていった。いつまでも傷心のままでいられるはずもない。だが不意にフラッシュバックするかのように思い出すこともあり、そのときは胸に針が刺されたように痛む。
店をクローズしてキッチンに行く。ダイニングテーブルの上には国際便の荷物が届いていた。
「これは?」
「知らないわよ。午後に配達があったんだけど、あなた宛みたい。ローマ字でそう書いてあるもの」
ドクンと胸が高鳴る。
確かに宛先は私宛だ。差出人は……と恐る恐る見ると、Suzune Odaと書かれてあった。その荷物を持ったまま、私は急いで自室へと戻った。
はやる気持ちのまま荷物の包装を解き、中を開けた。そこには瓶詰めの手作りらしき白いクッキーがあった。その脇にメッセージカードも添えられていたので、慌てて開けてみる。
「ホワイトデーおめでとう、飛鳥ちゃん」などとそこには書かれていなかった。
カードには小田涼音という名のサインだけがされていた。
こういう気障っぽい演出は、いかにも彼女らしいなと思い、私はくすくすと笑ってしまった。
そうして、彼女と縁を結んでくれた洋菓子の瓶を頬に当て、小田涼音とだけ書かれているメッセージカードに、そっと口づけをした。