視線
見られてる気がする。いつもならマイナスの感情しか湧かない。
今日は気分がいい。午後だけ出勤なんて、ほんと勘弁してほしいけど。自分担当の来客があるので、仕方がない。
ぽっかり空いた午前中。いつもの私なら、普段できないことをやろうとする。シーツを洗って、乾燥機に押し込んで。水回りを磨いて、くたくたになって家を出る。
この日はなぜだか気が向いて、メイクボックス片手に鏡の前に立ってみた。ふむふむ。だいぶお疲れですね。
丁寧に泡立てて洗顔。基礎化粧品、全種つけたのいつぶりだろう。
髪だって、毛先から解いていけば、絡まらない。わかってはいるんだけどね。おお。一筋の乱れもなく結い上げられた。小顔に見せようなんて小細工は、とっくに卒業している。いつの間にか、見合いの話もこなくなって。だから言ったじゃないの、なんて歌の歌詞みたいなこと言われたくない。しばらく実家に帰ってないなぁ。想像してたのと違って、さみしくない。知らない子供たちの、つまらなそうな顔を見るたび、ああ、よかった、って思う。
斑なくのびるファンデーション。眉もきれいに描けた。派手すぎず、地味すぎず、いい具合に紅をさす。いい仕事しましたね、私の右手。半分マスクで覆っちゃうのが、もったいないくらい。言葉を知らない後輩に、先輩、今日はきれいですね。とか言われそう。それだけが憂鬱。
もともと蒸し暑い時分。小雨に濡れたシャツや、カバンのせいで、よけいに蒸し暑く感じる車内。でも、十分、間隔を空けて座れるからね。隣のホームに入ってきた列車の中も、同じくらいの混み具合。ガラスを二枚隔てて、誰とも目が合わない。それは、そうだ。私もまた、手にしたスマホに目を向ける。でもさ、今日の私は、なかなかに素敵。お仕事モードで、華はないけど。髪の根元が白くなってる奥さんが、私もあんな頃があったわねと懐かしんだり。まだまだひよっ子の会社員が、あんな上司に指導されたいと妄想したり。椅子に土足しかけてる子供が、うちのママもあれくらいきりっとしてたらいいのにって溜息ついたり。ダンディーだけどくたびれてるおじ様が、少々薹が立っているけど年下の女の子はやっぱりいいなと癒されたり。理由なんてわからないけど、一人くらいこっちを見ててもおかしくない。
私は、じぃーっと画面に集中しているふりをして、突然、顔を上げた。背筋がぞくりとする。皆が見ていた。マイバックを脇に置いた太めの女性も、不思議な髪形の青年も、ふくれっ面の親子連れも、肩にフケののった男性も。全員が、私を見ていた。私は、一心にスマホを操作する。何だかわからないページに飛ばされても、滅茶苦茶にスクロール。
視界の端で、景色が流れ出して。お尻で振動を感知できるまでに回復。恐る恐る視線を上げる。よかった、誰も私を見ていない。窓の向こうは通り過ぎる窓、窓、窓。
日の光が差し、一瞬、翳る。ガラスに映った一人の女と、目が合った。