握りしめた出会い
それは、ある春の夜だった。
四月、朝。
桜満開の並木道を抜けた。
青い空には雲一つなく、新しい門出には文句のない天気である。
春の柔らかな匂いは私の全身を包みこんだかと思うと、名残惜しさも持たない様子で消えていった。
今日から私は新しい高校に通う。
母の仕事の都合で、高校三年生から編入という形だった。
「今日の夜は何にしようかなー。」
「えー、そこは兄ちゃんの大好きなハンバーグでしょ!!」
前を歩く同い年ぐらいの高校生と、その弟のたわいもない会話が聞こえてくる。
一週間前の夜。
めったに仕事で家にいない母と、久しぶりに家で夜ご飯を食べていた。
〝…ごめんね千絵。大事な仕事が入っちゃったのよ。先生には一人で挨拶しに行って。ごめんね、夜は美味しい料理作るからね。〟
母はそう言いながら、笑っていた。
〝全然いいよ。仕事頑張ってね。〟
私も満面の笑みで答えたが、それを作るのは難しかった。
そして今日。
友達ができるか不安を抱えながら、私は一人学校に向かっている。
新しい街。
空気は北海道より濃くて流れが早く、途中で休憩が欲しくなる。
しかし、澄んで輝いていたあの空気よりも大分気が楽だった。
そして、事もなく始業式は終わった。
何かをしようということもないので、帰りにコンビニに寄る。
可愛い洋服が目に留まり、ファッション雑誌を見つけて立ち読みすることにした。
「あの…。」
「え?」
話しかけらたような気がして、その方へ振り向くと、
なんとも懐かしい顔がそこにあった。
「…あかり!?」
それは小学校の卒業式のあと、すぐに東京へ引っ越してしまった友達、田茂あかり[たもあかり]だった。
「やっぱり!こっちに越してきたの?」
パーマがかかり、茶色がかった綺麗な髪。
小学校の時よりもあか抜けており、その大きく弾んだ声に少しびっくりしてしまった。
「うん、ついこの間…。」
私はなんとなく目を逸らしてしまう。
「懐かしいな…。」
あかりが、私の方を見ながらにっこりと微笑む。
「今、暇?」
唐突にあかりが言い出したので、私は思わず首を縦に振った。
すると彼女は突然私の手を引いて、コンビニから連れ出す。
今からどこに行くかも教えてもらえないまま、一緒にその目的地に向かって歩く。
「ってか、千絵変わってないね。小学校の時のまんま。」
あかりが笑いながら私に話しかける。
「えー…そうかな…。」
私はどこを見たらいいのかわからない。
すると、あかりは急に寂しい顔をした。
「…ごめんね、何も言わずに北海道離れて…。」
私は言葉に詰まる。
「でもね、」
あかりは私の目を見た。
「会いたかったよ。」
その瞬間、
私の何かが、溶けてどこかへ落ちた。
「…そっか。」
私は微笑んだ。
三十分くらい歩いて、路地に入る。
「何ここ、暗くない??」
「大丈夫。いいからついて来て。」
そう言われたので、私は黙ってついていくことにした。
坂を登る。
階段を降り、今度はフェンスの穴をくぐって進んでいく。
そして、やっとあかりの足が止まった。
「…ほら。見て?」
私は、あかりが見ている方へ目をやった。
「…すごい。」
ちょうど、夕日が私達の見ている街の後ろに沈もうとしていた。
ここは、東京を一望できる、あかりのとっておきの場所だった。
「ね?すごいでしょ?」
いろんなところで車や電車や人が動いていて、
自分たちがさっきまでいた世界だなんて考えられないくらい、とても綺麗だった。
「私、考え事するとき、よくここに来るんだよね。」
あかりの顔が夕焼け色に染まる。
あかりを見ていると、目が合った。
また最初に会った時のように、にっこりと笑った。
「私の思い出の場所なんだ。」
そう小さな声で言うと、それからあかりは何も話さなくなった。
ただ、今にも沈みそうな、赤く光る夕日を見つめている。
私も、あかりの隣に並んで、黙ってそれを見ていた。
東京にもこんな場所があったなんて知らなかった。
しばらく見とれていると、時間はあっという間に過ぎて、辺りは一気に暗くなる。
「…そろそろ、帰ろうか。」
ずっと黙っていたあかりが口を開いた。
私はこくっとうなずき、二人で来た道を戻る。
「あー、今から一人で帰んなくちゃなぁ…。あ、そうだ、千絵って今から電車??」
私がうんと頷くと、あかりの顔は明るくなる。
そして、二人で歩きながら駅へと向かう。
「そっかー。学校違うのかぁ…。」
あかりが残念そうに言う。
「でも、これから遊んだりしようね!」
あかりは満面の笑みでそう言ってくれた。
「…うん!!」
私は精一杯の大きな声で返事した。
するとその大きな声がおかしかったのか、あかりが笑う。
なんだか小学生の頃が懐かしくなった。
駅に着いて、私達はホームに上がる。
すると酔っ払いの中年サラリーマンが、フラフラしながら大きな声を出して、人々に話しかけているのが見えた。
横目で見ていたら、こっちに歩いてくる。
すると私の目の前で止まった。
「おねぇちゃんさぁー、どう思うぅぅう??」
「…はぁ。」
「俺、いらねぇんだと。ほんとに、俺がいなくなったら、どうするんだろうねぇぇぇえ。」
私は、適当にうなづいて事を済ませようとしていた。
「お姉ちゃんくらいはさぁ、俺に優しくしてくれてもいいじゃあん??」
まだ私に話しかけてくる。
「俺だって頑張ってるんだよ。」
私は、サラリーマンの顔を見た。
「俺だって、好きでお前の夫やお前の親になった訳でもないのにさあ!!!」
その声が、私の鼓膜を激しく揺らす。
サラリーマンの目からは、涙がこぼれていた。
そんなこと言わないでと、私は強く思った。
そんな事を言われると、誰を頼って生きていけばいいのか、私は分からなくなってしまう。
するとそのサラリーマンは何も言わない私に飽きたのか、私の前から去ろうとした。
その瞬間、男の人の体が大きく傾く。
「危ない!!!」
咄嗟にあかりが男の人の腕をつかみ、体をホームへ引き戻した。
しかしそのはずみで、あかりの体がホームへ投げ出される。
〝…まもなく、快速列車が通過いたします。危ないですから、黄色い線までお下がりください。〟
駅内放送が辺りに響きわたる。
私は寒気がした。
あかりは背が小さく、一人でホームに上がることができない。
ホームにいる人々がざわつき始めた。
だが、誰も近くまで来ようとしない。
もう電車が来てしまうのだ。
私の鼓動がだんだん早くなっていくのがわかる。
あかりは必死に上がろうとする。
私は手を貸すが、私の力だけではあかりをホームへ引き上げることはできない。
「誰か...!!!」
そう叫んでも、
他人は不安そうな顔でこちらを見ているだけだった。
電車の光が微かに奥の方から近づいてくる。
私の頭の中は真っ白になった。
しかしその瞬間、
思いがけないことが起こった。
私の後ろから黒い影が飛び出して、ひょいと身軽に線路に降りたち、あかりをだき抱えホームに上げた。
しかしやはり線路とホームの段差は高すぎた。
その男の人は必死で上がろうとするが、
彼の高い身長でも上がることができそうにない。
私はとっさに手を貸すと、彼は大きな茶色がかった瞳を大きく揺らしそれを掴んだ。
すると、なんだか私は不思議な感覚に陥った。
泣きたくなるくらい、この時間と空間が、
大切なものであるような気がした。
絶対に離してはいけないと、
そう思った。
そして電車はその五秒後に、
私達の前を通過した。
彼は、ギリギリホームに引き上げられていた。
周りから拍手が沸き起こる。
私は気が動転して、その拍手の音すら頭に聞こえてこなかった。
だけどそのとき、
まだ彼の手を強く握り締めていたのを、
鮮明に覚えている。
1ー握りしめた出会いー