122話 リティアの過去 3
「あ……ああ……」
リティアの目の前に、数匹の猿型の魔獣が降り立った。後ずさりをするリティアへ、じりじりとにじり寄る。
キイィィィ……。
「ひっ……」
魔獣の口から牙が見え隠れし、粘った液体が口の端から垂れ落ちる。
魔獣は、いつリティアへ襲いかかってもおかしくなかった。
「ああ……カイ……」
そう呟いた瞬間、石につまずいて尻餅をついてしまった。それと同時に、魔獣が襲いかかってくる。
ギシャアァァァァアア!!
「きゃああ!!」
反射的に頭を守ろうとした時。
ツタを降下して来たカイが、リティアと魔獣の間に落下してきた。
そして……。
「うあああああああああああっ!!!」
力の限り叫ぶカイ。
目の前の数匹の魔獣は、警戒したのか背後の巨木へ飛び退いた。
「はぁ……はぁ……」
「カ……カイ……?」
突然目の前に落ちて来た弟に、困惑するリティア。
しかし、彼の状態に気が付き駆け寄った。
「カイ! そ、その手……!?」
カイの両手は赤黒く染まっていた。ツタを降下する際の摩擦で焼けてしまったのだ。
そして、足も曲がっては行けない方向へ曲がっている。着地した時に折れてしまったのだろう。
「お姉ちゃん……逃げて……」
赤黒く染まり、痙攣する手でナイフを拾い上げたカイは、そう呟いた。
見ると、巨木から1匹の魔獣がこちらへゆっくりと距離を詰めている。
「で……でも、カイが……」
「いいから!! 早く逃げて!!」
折れた足を引きずりながら立ち上がり、震える両手でナイフを構える。
こんな体では、あの壁までは辿り着けない。
彼はすでに、自分が助からない事を悟っていた。
「振り返って……まっすぐ行けば、壁があるから……そこで保護してもらえるかも知れない……」
「だ……だったらカイも……」
「ダメだ!!」
カイの叫び声に、リティアはビクリと震えた。
「2人で逃げても……きっとあいつらに捕まるから……」
魔獣は少しずつこちらへにじり寄っている。
もはや、目と鼻の先だ。
「ボクが……足止めする……その間に、お姉ちゃんは逃げて」
「そ……そんな……」
「はやく!」
しかし、リティアはなかなかカイから離れようとしない。
それも無理のない事だろう。彼女にとって、弟のカイほど大切なものは無かったからだ。
そして、それはカイにとっても同じ。
だからこそ、彼女は自分を犠牲にしてでも守りたかった。
「……」
カイの脳裏にリティアと過ごした日々が蘇る。
いつも一緒だった。暗く狭い部屋に閉じ込められた時も。暴力を受け寄り添って慰め合った時も。
そんな時は必ず、自分の事を暖かく抱きしめてくれた。
カイは心に誓っていた。
姉だけは必ず守る。そのためには自分すら犠牲にしてみせる。
「お姉ちゃん……聞いて」
「カ……カイ……?」
目に涙が滲む。
それを悟られないように、リティアの前へ立った。
「ボク……お姉ちゃんの弟で良かった……」
「カ……カイ……?」
「辛くて、痛くて、苦しくて……そんな事、いっぱいあったけど……」
背を向けながら、明るい声でカイは言った。
「ボク、お姉ちゃんの事……大好きだから!」
姉は一体どんな反応をしているのか……背後に立っているから表情は分からない。
「だから……はやく逃げて。ボクの分も生きて……」
「う……うぅ……」
彼女の声は迷っているようにも聞こえた。
そして……。
「ごめんね……」
背後から、遠ざかる足音が聞こえた。おそらくリティアのもの……。
その瞬間、とてつもない心細さと恐怖に襲われた。
今まで心の支えだった存在が、自分から離れていく感覚。一寸先も見えぬ闇の中に取り残された気分。
しかし、カイ体から力が抜ける事はなかった。
歯を食いしばり、折れた足を踏みしめ、赤黒く染まった手をナイフの柄に食い込ませる。
目の前にいるのは、自分の何倍もある猿型の魔獣。それを睨み付けた。
「ふぅ……ふぅ……」
次第に呼吸が荒くなってくる。上下感覚もおかしくなり始め、めまいを感じる。
その瞬間、魔獣が襲いかかって来た。
「お姉ちゃんは……ボクが守るんだ!!」
それと同時に叫び、自分を奮い立たせる。飛びかかって来る魔獣へ向かって、ナイフを突き出した。
「ぅぐっ!」
しかし、自分の何倍もの大きさの魔獣に力で勝てるはずもなく、地面へ押し倒されてしまった。
その拍子に、全身を地面へ強く打ち付けてしまう。かなりの痛みが走った。
しかし、魔獣の攻撃の手は緩まない。カイは必死に抵抗した。
「ああああああ!!」
少しでも時間稼ぎを……お姉ちゃんが逃げる時間を……。
そう思った時、リティアの顔が目に浮かんだ。
彼女を助けるために、自分が時間を稼ぐ。そう望んでいた。
しかし、たとえ彼女が壁まで逃げ切れたとしても、“2度と会えない”と言う事実に気がついてしまう。
その瞬間、彼女を助けたいと言う思いと同時に、『姉に会いたい』と言う思いが生まれてしまう。
「……っ」
だが、その願いが叶わない事は分かっている。
「……うああ!」
偶然にも、魔獣の顎を蹴り上げた。一瞬グラつき、隙が生まれる。
とっさに、ナイフを魔獣の胸へ向かって突き出す。
「……ぁ……」
しかし、それはギリギリのところでかわされてしまった。
目の前に、魔獣の大きく開かれた口が迫る。
ずらりと並んだ牙が、自分の未来を想像させた。
「お姉ちゃん……」
そう呟き、目を静かに閉じる。
…………。
「カイ!」
暗闇の中、逃げたはずの姉の声が聞こえた。
……え?