上馬の森の梟
/友人が仕事を紹介してくれた。自動車雑誌の読み切りだ。だが、その編集長の打ち合わせがしつこい。そのために、私は上馬のバーに何度も通うことになる。そのうち、そこに同じ出版社の女性編集者も来ていることがわかった。彼のかつての部下らしい。彼女も彼を信頼している。つきあっているのかと思ったが、彼は帰ってしまう。いったい、どういう関係なのだろう。/
環七と246の交差点。上馬に森などない。ただ樹海のように果てしなく住宅が広がっているだけだ。店舗、マンション、アパート、そして、一戸建て。それぞれに趣向を凝らしてはいるつもりなのだろうが、どれもこれも小さく、路地裏に満員電車のようにぎゅうぎゅうに詰め込まれている。こんなせせこましいところに好んで住む人は、おそらく私とは違う世界を生きているのだろう。
住所を聞き、地図も送ってもらったが、こんなところ、夜の九時過ぎにうろつくものでない。街灯や玄関灯、家々窓の明かりばかりで、どの路地も同じにしか見えない。隠れ家風のバーだとか。近くまで来れば、すぐにわかる、と言われたが、しかし、近くがどこだかわからないのだから、話にならない。店に電話をかけて、ようやくにたどり着いた。ふつうの住宅の駐車場を改装した狭い店。コンクリートの箱。路地側がガラス張りになっていて、薄暗い中のようすが外からも見えるようになっている。
岡本氏は、当然、先にいた。暗い中、カウンターのいちばん奥の席に座り、パソコンで仕事をしていた。店にほかには入口横のテーブル席に営業マン風の地味な男。一人で携帯を片手に飲みまくっている。どういう店なんだろう。「すいません、遅くなりまして」パソコンを横によけながら言う「ああ、いいんですよ、迷ったんでしょ」「ええ……」「どうです、なかなかいい店でしょう」「はあ……」
こういうのを、いい店と言うのか。たしかに、いかにもどこかの著名空間デザイナーが手がけたような内装だ。しかし、しょせん駐車場は駐車場だろう。岡本氏。初対面だ。これまたいかにも編集者らしい、横長細目の眼鏡をかけている。その眼鏡だけでなく、服装やバッグその他も、黒づくめで、たぶんとても高いものなのだろう。この出版不況だというのに、やたら羽振りがよさそうだ。とはいえ、全体に影が薄い。しょせん表に出る側の人間ではないからか。
ただ印象的だったのは、その目。細い眼鏡の奥から、ぎょろり、と、大きな二つの目をむいて話す。これはちょっと気味が悪い。いくら初めて会ったとはいえ、なにもそこまで人のことを見つめなくてもいいだろう。「まあ、どうぞ」「ありがとうございます」カウンターの隣の席に座った。「はじめまして、岡本です。先日は電話で失礼しました」と、名刺を差し出す。スタイリッシュと言うのか、字が小さい。暗くて読めない。まあ、会社の場所など、どうでもいい。「すいません、私の方は、ちかごろ名刺を持ち歩いておりませんで……」「まあ、先生方では、最近はそういう人も少なくないようですね」「そうなんですか?」「ええ、そうみたいですよ」
バーのマスターが、タイミングよく、メニューを置いた。やはりよく読めない。カウンターの裏の妙な色の照明が並ぶボトルをきらめかせていて、逆光なのだ。いや、年のせいか。まあ、いい。どうせ、岡本氏のおごりだろう。場所柄、馬鹿の一つ覚えのオーダーで見栄を張る。「ああ、シンガポールスリング、ジンは三〇、コアントローを少し加えてください」オールバックに固めたマスターが、ちらっとこちらを見て、ほほえんだ。「ベネディクティンはいかがいたします?」「ええ、あればぜひ」岡本氏は口を少し曲げた。おもしろくなさそうだ。その様子を察して、マスターが岡本氏にもおかわりを勧める。「ギムレット、もう一杯、いかがですか?」
シェイクして注がれたばかりのグラスを一気に飲み干し、岡本氏が言う「うちは小さな事務所ですが、気が楽ですよ。編集なんて、人数ばかり多くても、目が届かない」超高級輸入車のオーナーたちのための会員制雑誌だとか。見開きに短編の連作。これまでに書いてきた著名作家たちの名を聞いて、気後れする。どう見ても、私のような三文ミステリ作家は、格落ちだろう。しかし、編集の岡本氏は口がうまい。「通俗的な大衆作家ではなく、通に受ける先生方をお選びしているんです」たしかに近年、何百万部を売り上げるアイドル小説家と、知る人ぞ知るその道の作家というのは、大きく二極分化してきている。しかし、それにしても。
私の場合、売れっ子の友人からの紹介だ。「ギャラは悪くないぞ。ちょっと手間取るがな」彼と違って、私の方は仕事を選べる立場ではない。「先生、車は何を?」「え、車ですか」正直に答えるべきか。ウソをついても仕方あるまい。「ビストロという軽のオンボロです。もう二十年近くになります」「へぇ、あれですか。まあ、先生らしいですね」やはり、小馬鹿にされた雰囲気だ。「今日は?」「バーと伺っていたので、電車ですよ。駅から、だいぶ歩きましたけどね」「そうでしょうね。バスで来ればよかったのに。上馬バス停なら、すぐ近くなんですよ」
バス停以前に、こんな街中のややこしいバス路線など、知るものか。だいいち、店の場所ですら、わからなかったのに。こうなると、私も、外車専門の高級雑誌を編集するスタイリッシュな岡本氏が、どんな車に乗っているのか、とても気になった。「ははは、よく聞かれるんですよ。じつはねぇ、特定の車は持たない主義なんですよ。このあたり、道が細くてね。駐車場もありませんし。乗りたいときは、タクシーで環八まで出れば、知人の輸入自動車屋がどれでも貸してくれるんです。その日の気分にあったものを飛ばして、湘南の方なんかによく行くんですよ」
主義か。なんだか面倒くさそうなやつだ。そもそも、なんで会社ではなく、こんなところで打ち合わせなんだ。それも、こんな時間に。とりあえずお近づきのあいさつで、一杯おごってやろうというつもりなのだろうが、そういう安っぽい虚礼は、あまり好きではない。それとも、こいつ、自分が酒好きで、会社の経費で飲みたいだけなのか。
しかし、岡本氏は、グラスを次々と空けながら、きっちり説明をし続けた。雑誌の特徴や読者層。これまでの諸先生の連作の様子と反応。フォーマットと入稿形式。締め切りその他。よほど酒に強いらしい。こっちの方が、相づちを打ちながら酒をなめるものだから、酔いが回ってきた。
「というようなところなんですが、先生、いつプロット、上がりますか?」「まあ、数日中には」「では、週明けに、ここで、九時に」「はあ……」プロットチェックがあるのか。あまり聞いたことがないが、仕事をもらう以上、私に断れるわけもない。「じゃ、出ましょうか」「はあ」岡本氏は胸の長財布から折り目のない五千円札を取り出し、カウンターの上に置いた。「マスター、おやすみ」領収書も貰わず、外に出る。どこか食事にでも連れて行ってくれるのか。「先生、楽しみにしていますよ」と、馴れ馴れしく人の肩を叩く。「ではこれで。私はこっちなので。おやすみなさい」と行って、岡本氏は、住宅地の路地の奥の方への消えていった。なんなんだ、あいつ。
仕事の約束となると、すっぽかすわけにもいくまい。嫌み半分で、天才編集者がホテルの駐車場の監視カメラを利用して超高級車を盗む話を考えてみた。我ながら安っぽい筋とは思う。しかし、週末だけで何かアイディアを出せと言われても、そうそうおもしろいものが簡単に思い浮かぶわけがない。そのあらすじをペラ一枚に打ち出し、それを持って、またあの店に向かう。
すこし迷ったが、こんどは自力で辿り着けた。九時ちょうどだが、今日も岡本氏は先に来ていた。この店に似合う洗練された服装。今日もどこかの有名ブランドのものなのだろう。タキシード風のジャケットには銀色の金具が飾りでジャラジャラとついている。一方、テーブルの方にいる若いカップルは、妙に地味だ。こんなところにも、いまの時代の世代間経済格差がかいま見られるというところか。
「こんばんは」「ああ、先生、お待ちしていました」パソコンを横に除け、私に席を空けてくれる。マスターが聞く「いらっしゃいませ、何になさいますか」「シンガポールスリングを」ほかにカクテルなど知らない。「でも、すこしアルコールは弱めに」「かしこまりました」原稿書きなど家でやる仕事だ。毎晩、酒を飲む習慣など無い。先週、ここで一杯ひっかけただけなのに、翌日、ひどい二日酔いになった。
いや、酒のせいではないのかもしれない。こんな面倒な仕事も珍しい。それにしても、岡本氏、たった一枚のあらすじしかないのに、よくもまあ、あれこれ長々と注文をつけてくる。「編集者が犯人ですか。興味深いですね」興味深い、って、どういういいぐさだ。とは思うが、そのことにケチをつけてくるわけでもない。
ただ、駐車場の監視カメラの方には難をつけてきた。「実際の犯罪にヒントを与えるようだと、いくら会員制の雑誌でも……」それはそうだ。とはいえ、少部数の車の雑誌で、ついでに載っているだけの、たかだか一回ものの短編に、そこまで細かいことを言わなくても、と思わないでもない。だいいち、そこがトリックのキモで、それがダメだとなると、ゼロから考え直さないといけない。
「というわけで、先生、まずはこのプロット、お話させていただいたような線で、書き直してきていただけませんでしょうか」え、冗談だろ。まあ、書き直すのは仕方ないにしても、もういっぺん、編集側が検閲するのか。しかし、この男の眼鏡の奥の目玉に、慇懃無礼な口調で、じろっとにらまれると、プロの仕事として断るわけにもいかない。「じゃあ、これで」そういうと、岡本氏は、ピン札でさっと支払いを終え、外へと消えた。
そんなこんなで、もう三回目だ。いいかげん腹が立たないでもない。シロウトや駆け出しではないのだから、原稿を依頼する以上、中身については一任してもらいたい。今日もしまたあれこれ言われるようなら、いいかげん、もうはっきり言ってやろう、それでこの仕事がお流れになってもかまうまい、と腹を立てながら、今日は迷わず店に着いた。
やはり岡本氏は先に来て、パソコンで仕事をしていた。あいかわらず店はすいている。手前の方のカウンター席で、ジャンパーを羽織った中年男がマスターと話し込んでいた。近所の酒屋のおやじのような感じだ。私が入ると、マスターは顔を上げてほほえんだ。「いらっしゃいませ」さすがに三日続けてくると、私ももう常連か。顔は覚えてくれているようだ。「ああ、先生、たびたびほんとうにすみません」先に謝られると、さっきまでの怒る気力も萎える。
それだけではない。今日はベタ誉めだ。あらすじだけのものをこうまで誉められても、正直、どう答えたものか。とにかく今日も岡本氏は、例のあのギョロ目で人のことを見つめつつ、ペラペラとよくしゃべる。こっちは酔いが廻って、さして聞いてもいないというのに。まあ、誉められている打ち合わせなら、聞いていなくても問題はあるまい。
岡本氏は横に向けたパソコンの画面をのぞき込む。時計代わりか。きょうは、きのう、おとといよりは、時間もすこし早いだろう。三日がかりのとんでもない打ち合わせだったが、ようやく私のあらすじの出来に満足できたのか、ニヤッと笑いながらパタンと画面を閉じ、ちょっとトイレへ、と、奥に立った。入口の方の中年男は、マティーニのオリーブをチビチビとかじっている。マスターが寄ってきた。
「なにか新しくお作りしましょうか」とりあえず今日は話が上首尾に終わったのに気づいたのだろう。「あ、ええ、じゃあ……いや、やめとくよ。まだこれから田舎の方まで電車で帰らないと行けないんでね」「では、お水を」「ああ、ありがとう」「打ち合わせ、たいへんそうでしたね」「まいったよ」「いつもなんですよ」「え、そうなの?」「ええ、もうほとんど毎日」「いい客だね」「ええ、ありがたいことです」
と、そこに若い女性の客。もさい格好をしているが、一目で美人とわかる。それも格別の美女だ。「いらっしゃいませ」「こんばんわ」「岡本様もいらっしゃってますよ」「え、そうなの、うれしい!」そういって、カウンターの中程に座った。岡本氏がトイレから戻ってきた。「あ、山中くん」「こんばんわ、編集長」「ちょうどよかった、こちらね」そうか、岡本氏が毎晩この店で打ち合わせをするのは彼女が理由だったのか。しかし、紹介してもらったものの、この山中さんという女性が何をしているのか、二人がどういう関係なのか、さっぱりわからない。
「じゃ、こっちは、ちょうど終わったところだから」え? これから三人で一緒に飲むんじゃないのか。「先生、さっきのあの線で、明日までにはラフ、できますよね」「はぁ」「また同じ時間に、先生。おやすみなさい」岡本氏は、現金で払い、今日も領収書ももらわず、当たり前のように店を出ていく。おい、ちょっと待て。明日もか。いや、それより、山中さんは、どうする。まさか岡本氏は、私を接待させるために彼女を呼んだのか。
とまどう私に、山中さんの方から話かけてきた。「先生、大変ですね。岡本編集長、打ち合わせ、やたら細かいでしょ」「ええ、まあ」「私もね、あの人がうちの編集部にいたころ、ずいぶん泣かされたわ」ああ、山中さんも編集者なのか。岡本氏は元上司なんだな。彼女の方が辞めたのか。すると、いまは? 私の怪訝そうな様子から察したのか、「先生、機会があったら、ぜひうちの雑誌でも」と言って、名刺をくれた。集学書堂『キャヴィ』か。「すみません、私、名刺は」「あ、先生のことは、作品でよく存じ上げていますよ。でも、うちはティーン向けの赤文字だから、小説はなぁ。まして、先生みたいに通向けなのは。それより、先生、女の子たちのおとうさん役で、雑誌モデルとかやってみます?」と笑う。
この山中さんも、岡本氏と話を合わせたように、同じようなお世辞を言う。いや、どこの編集者でもよく使う、三流作家に対する体のいい牽制だろうな。山中さんのバッグの中にも、大きなノートパソコンが見える。ラフな服装からすると、職場から直接に来たのではなく、この近所に住んでいて、家で着替えた後、この店にひとり、仕事の残りを片付けに来ただけのようだ。岡本氏や私がいたのは、たまたまのことだろう。むだに長居して、彼女のじゃまをするのは気がひける。
マスターが聞く「先生、何かお作りしましょうか?」「あ、いや、いいや。私も、とっとと帰って、原稿、書かないといけないんでね」さっきマスターが出してくれた冷水を飲み干す。そう、しゃれにならない。明日までに、あらすじどおりに現物を作らないと。「あら、残念。先生、モデルの話、真剣に考えておいてくださいね」
家に戻って、仕事机の前に座ってみたものの、さっぱりやる気にならない。いまさらだが、どう考えても、最初の監視カメラのトリックの方がおもしろい。だいいち、編集者のくせに作家のトリックにまで口を挟んでくるって、どうなんだ。まあ、ファッション誌出身じゃ仕方ないか。岡本氏の方が集学書堂を辞めたのか。編集長にまでなっていて、もったいない。あの仕事の緻密さからすれば、重役まででも出世できただろうに。いや、いまの方がさらに桁はずれに実入りが多そうだから、独立して成功だったのだろうな。それにしても、山中さんは、どういう人なのだろう。編集者というより、本人自身がファッション雑誌のトップモデル並みの美貌だ。
遅い時間にもかかわらず、電話だ。私にこの仕事を紹介してくれた売れっ子作家。「どうだ、すごい面倒だろ」「面倒だろはないだろ、ひどい目に遇っているよ」「ははは、でもな、払いはすごいぞ。おれですら驚くほど振り込まれた」「私にも、それほどくれるとはかぎらんよ」「いや、有名なんだよ、あそこ。おれの聞くかぎりでは、全員一律に百だぜ」「え、一枚十万か?」「ああ、信じられんだろ」「あたりまえだ、バブルのころだって、そんなの、聞いたことがない」「会社を黒字にしたくない、とかなんとか、なにか理由があるらしい」「へぇ、こんな時代に、景気のいい話だな」
「話は変わるが、山中さん、っていうのは、なんだ?」「ああ、おまえも、あの店で打ち合わせか。集学書堂のころの岡本さんの部下だな。あの近所に住んでいるというだけで、いまの仕事とは関係が無いよ。よくあの店に飲みに来るんだ」「そうか、ちょっとびっくりした」「なんだよ、彼女に接待でもしてもらえるとでも思ったのか。まあ、たしかにすごい美人だな。早応大学のミスキャンパスとかで、学生時代から読者モデルをやっていて、そのセンスを買われて、そのまま『キャヴィ』の編集に正社員採用になったらしい」「そんな話、よく知っているなぁ」「おまえみたいに世情に疎いやつの方が珍しいよ。何年か前に週刊誌なんかでもさんざん記事になっていただろ。とっくにモデルはやめたのに、いまだに全国にファンクラブまであるんだぜ」「へぇ、サインでももらおうかな」「ああ、そうしておけ。いずれ高値になるぞ。彼女、そのうち自分のブランドでも立ち上げそうだからな」
「それより、仕事は進んだのか?」「それがなぁ」「岡本さんの言うとおりに書けばいいんだよ。それでカネをくれるんだ。あれこれ余計なことは考えるなよ」「だけど、やつにボツにされた最初のトリックの方がおもしろいんだよ」「どんなトリックだ?」「監視カメラ」「……」「どうした?」「いや、話しておいた方がいいのかな」「なんだよ、思わせぶりに」
「この話は、おれも本当かどうか、よく知らん。あくまでウワサだ」「どんな?」「岡本さん、昔、集学書堂でトラブルがあったんだ。それで編集長として責任を取らされて辞めさせられた」「トラブルって?」「モデルたちの着替えの盗撮動画がネットに流出したんだ。撮影の場所もなにも、編集部しか知らないんだから、内部犯行にちがいない、ってな。まあ、結局、事務所ぐるみで揉み消して、流出したのはニセモノということにして沙汰止み」「編集長というのも大変だなぁ」「とにかく監視カメラはまずい」「ああ、事情はわかった」
小さい事務所の方がいい、と岡本氏が言っていた意味が、すこしわかった。大きな出版社の大きな編集部では、内部もなにも、出入りが多すぎる。まあ、雑誌なんて、いろいろな人々の才能の持ち寄りで出来ているようなものだが、あの細かな性格では、身がもつまい。きっと、全部の記事からレイアウトまで、いちいち注文をつけていたのだろう。それだけ完成度の高い雑誌も出来るだろうが、だれか一人に裏切られただけで、そこで仕事を続ける気力も失せるのもわかる。
仕方ない。彼の言う線で書いてやるか。それが仕事だ。そう割り切ると、妙に捗る。考えてみれば、かなり細部に至るまで岡本氏の方が先にすべてイメージを膨らましてくれているのだから、打ち合わせどおりにやれば、簡単に書ける。岡本氏が自分で書けばいいのに、と思わないわけでもないが、なんにしても原稿は仕上がった。これで百万をもらったのでは、泥棒のようで気がひける。
これでこの仕事も終わり。いくら短編とはいえ、一晩で書き上げた。いつも締め切りぎりぎりまで出来上がらない、というか、書き始めもしないことを考えれば、これは奇跡だ。岡本氏との約束の時間までまだかなりあったが、今日は陽のあるうちから飲んでやろう、などと、酒に弱いくせに豪胆なことを思って、早々にあの店に繰り出した。
「いらっしゃいませ」まだ客はいない。マスターは下ごしらえに忙しそうだ。狭い店内にレモンが香る。手を休め、カウンターに座った私にメニューを出す。「今日はお早いですね」「原稿が上がったからね」「それは、おめでとうございます。では、店のおごりでシャンパンカクテルでもいかかでしょう?」「あ、ありがとう」
鮮やかな緑のミントが浮かぶロンググラスをすっとテーブルに出して言う「おそらく先生が最短ですよ」「え?」「みなさん、たいてい七回くらいはここに通われますから」「へぇ、そうなんだ。でも、あれだけ打ち合わせすれば、短編だし、一晩で書けるよ」「昨日、早くお帰りになってよかった」「ああ、おかげで仕事が捗った」「いえ、そうではなくて……」
「なにかあったの?」マスターはすこし口ごもった。「昨日、あの後、山中さんにメールがあって、それで大変だったんです」「どうしたの、彼氏にふられた?」「いえ、彼女の女友達からです」「どういうこと?」「ネットに山中さんの下着について詳しく書かれているって」「?」「それが、図星だったらしいんです。まさに昨日の。彼女、かなりショックだったみたいで、そこでずっと泣き通しで」「あの編集部、中にまだ盗撮魔が潜んでいるのか……」「え?」
そこに別の客が来た。キャリアウーマンっぽい地味な中年女性。テーブルに座る。足を高く組み上げる。なんの仕事か知らんが、こういう話を世間に広められては、山中さんや岡本氏に顔が立たない。何事もなかったようにマスターは仕事に戻り、私もグラスを爪ではじき、無言で泡を眺める。そうこうしているうちに岡本氏も来た。私が先にいるのを見て、驚く。「先生、早いですね」「それより、ちょっと」と言って、手で招き、小声で話す。
「え! ほんとうですか。じつは私の方にも昼間、山中さんからメールが入っていて、相談ごとがある、って。きっとその話でしょうね」「あなたのクビを飛ばして、それでも懲りないやつらしい。心当たりは?」「私が辞めた後、けっこうスタッフも入れ替わりましたから、あのころからずっとあの編集部に残っているやつといえば、そう多くはない……」「なんにしても、山中さん本人から詳しい話を聞かないと」「ええ、そうですね」岡本氏が電話をかけてみる。「もうすぐ来るそうです」
来た。昨日の明るく陽気な様子とはうって変わって、店に着くなり、泣き崩れる。岡本氏が慰める。「だいじょうぶだ、なんとかするから」「でも、もう編集部の仲間が信じられない……」「きみは知らないだろうが、あの編集部では前にも同じような事件があったんだよ」「え?」「ぼくが辞める前だ」「岡本さんは、その責任を取らされて編集長を辞めさせられたんだそうです」「そうだったんですか……、わたし、てっきり御自身で望んで新しい会社を興すのかと」「まあ、結果が良かったからいいけどね。でも、ぼくも犯人には強く思うところがあるよ。ましてきみを狙うとは、絶対に許せない」
話は長くなりそうだ。「それはそうと、岡本さん、これ原稿。なにか問題があるようなら書き直しますから、後で読んで、電話でもください」「あ、ありがとうございます」「では、私はこれで」冷たいようだが、私がいたところで、何ができるわけでもあるまい。まして、大手出版社の編集部の内輪のトラブルなど、へたにクビを突っ込んだら、作家として喰えなくなってしまう。
とはいえ、気になることがあった。それを確かめる機会は、すぐにやってきた。岡本氏から電話。原稿はたいへん満足しているとのこと。ただ、ルビの配置と漢字の開きについてちょっと相談したいとか。そんなの、そっちで好きにやってくれればいいのに、と思いつつも、またあの店へ足を運んだ。
今日も少し早かった。だが、狭い店は混んでいた。そうか、今日は週末か。といっても、前に見かけたような客ばかり。営業マン風の携帯電話男、貧乏そうな若いカップル、近所のジャンパーおやじ、キャリアウーマンっぽい中年女。カウンターに座る。あれからどうなったのだろう。マスターに話しかけようにも、今日は忙しそうだ。
岡本氏が来た。今日も私が先に来ていたので、すこし驚いたようだ。「今日は私がおごりますよ」「でも、仕事の打ち合わせですよ」「岡本さん、いつも領収書、もらってないでしょ。自腹でしょ」「まあ、この程度の金額ですから」「でも、いつもおごってもらっていたんじゃ、私も気がひける。それに、酒に強い岡本さんを見習って、今日はちょっとカクテルについて勉強してきたんですよ」「そうなんですか。じゃあ、先生、遠慮なくいただきます」「マスター、ドッグズノーズを二つ。失礼、ちょっとトイレへ」
さて、ひっかかるだろうか。ドッグノーズは、ビールにジンが入っている。味はビールだが、アルコールは強い。ゆっくりと手を洗う。まだまだ。まだまだ。席に戻ると、私を待ちきれなかったのか、岡本氏はパソコンを開いている。それを半ば閉じて、横にのける。「すいません、お先にいただいています」「ああ、どうぞ」 「で、先生、原稿の方なんですが、拝読させていただきました。ありがとうございました。もうこれでいいんですが、表記の方を」と言って、バッグからレイアウト済みのゲラを取り出す。早いな。もう流し込みも終わっているのか。
「それより、山中さんの件、どうなりました?」「先生にも御心配をかけて申しわけありません。いまいろいろ調べているところです」「盗撮なんかしてどうするんでしょうね?」「さあ、どうするんでしょうねぇ」「売るとか?」「売れますかね」「ルートがあれば売れるんじゃないですか?」「そうですかね」「この時代、超高級輸入車なんかより売れそうですよ」
予定どおり、岡本氏はすぐにグラスを空けてしまった。「マスター、編集長にボイラーメーカーを」「あ、先生、すみません」「まあ、今日で、この仕事も終わるでしょうから」と言いながら、レイアウトを確認する。いろいろ言うが、ようするに、岡本氏は句読点の行末ぶら下げなどの見た目の悪さが嫌で、前後を開いたりなんだりで、うまく納めたい、ということらしい。こっちは、三文作家だ。どうにでもしてくれ、と思う。
しかし、安く踏まれるのも、おもしろくない。いちおういちいち絡んでみる。そこに、半量ほど入ったビアタンブラー。爆弾酒だ。ショットグラスにはバーボン。「では、いきます」と言って、マスターがビアタンブラーにショットグラスを沈める。「これ、胃の中がボイラーみたいに熱くなるそうですよ」「そりゃすごいですね」と笑いながら、岡本氏はグラスの半量以上を一気に飲んでしまった。そして、腕を組んで、それまでとまったく変わらぬ様子で、こと細かに反論してくる。ふんふん、なるほど、とうなずくと、うれしそうだ。
それでまた、彼はグラスを空けてしまった。「岡本さん、もう一杯、いかがですか?」「はあ、ではお言葉に甘えて」ほんとうに酒好きだなぁ。ビアカクテル尽くしの私の意図を察しつつも、さすがに強い酒続きなのを心配して、マスターが言う「では、次はレッドアイなどいかがでしょう?」レッドアイは、ビールをトマトジュースで割ったものだそうだ。生卵を入れることもあるとか。「じゃあ、それを。ちょっと私もトイレに」と言って、岡本氏が立った。
うまくいった。いくら酒に強くても、こんなビールベースの強いカクテルを立て続けに飲んでいれば、トイレにも行きたくなるだろう。席を変わって、岡本氏のパソコンを開く。動画だ。どこかの部屋。山中さんが映っている。やっぱり。「はい、そこまで。触らないで」と、テーブルで足を組んでいたキャリアウーマンっぽいスーツの中年女性が立ち上がった。いや、彼女だけではない。営業マン風の男がトイレに入って行く。若いカップル風の二人が岡本氏のパソコンの写真を撮り、データのコピーをかける。ジャンパーおやじは、電話をかけ、迎えの車を呼んでいる。路地で場所がわかりにくいらしく、いらいらと大声で説明している。
マスターは呆然と立っている。私もだ。やがて、トイレから岡本氏が営業マン風の男に引っ張られて出てくる。あれが手錠か。本物は初めて見た。岡本氏は眼鏡の奥のあの大きな目が赤く泣き腫している。おやじが言う「マルガイも、すぐこちらに来ます」地元のパトカーがサイレンも鳴らさずに店の前にとまる。それに続いてダークグリーンの地味なワンボックスカー。
「じゃ、先に持ってきます」と、おやじがスーツ女に言う。男二人に挟まれて、岡本氏は連れて行かれた。岡本氏の荷物も、カップルの男の方がまとめ、一緒にパトカーに乗っていった。カップルじゃなかったんだ。連中は、連日ずっと交代で私たちのことを監視していた。なのに、まったく気づかなった。そして、仁王立ちのスーツ女と、テーブルに座り直した若い女だけが店に残った。私はどうしたものだろう。「あの……」「あ、先生、すみません。先生は、もうすこし残っていてください」
ワンボックスカーの横をすり抜け、普段着の山中さんがやってきた。さっき、画面で見たかっこうだ。なにが起こっているのか、まったくわかっていないようだ。そりゃそうだろう。私にもわけがわからない。だが、確かなことは、盗撮魔は岡本氏だ、ということ。今回は、モデルの着替えが盗撮されたのとは、わけが違う。山中さんは編集部で着替えなどしない。その下着姿を見るとなれば、会社にカメラを仕掛けるより、自宅だろう。
「あ、山中朋子さんですね。警察です。容疑者を捕まえました。ちょっとこれを見てください」と言って、パソコン画面をデジカメで撮ったものを見せる。「……」「あなたとあなたの部屋ですね」「はい」「盗撮カメラの心当たりはありますか?」「……棚に、岡本編集長が退職する時に記念にくださった置時計が……」「これから御自宅に伺ってもよろしいでしょうか?」「え、ええ」
二人の女性とともに、山中さんも帰った。それから延々と待たされた。もう酒でもあるまい。店も閉めた。マスターと二人、テーブル越しに語る。マスターが言うには、高級雑誌はカネの流れを見えなくするための隠れ蓑で、岡本氏の会社の本業は、あれこれの盗撮ビデオの流通販売だったのだろう。岡本氏本人も、自分で撮っていて、彼女の部屋に仕掛けたカメラの電波を拾って録画するために、彼女が帰ってきそうな時間に、いつもこの店に来ていたんじゃないだろうか、ということだった。それじゃあ、領収書のような足のつくものをもらわないのも当然だ。しかし、警察の方も特殊車両で、街中の路地裏まで電波を探っているとかで、それに捕まれてバレてしまったのだろう、と言う。
「マスター、詳しいねぇ」「そうですか? 場つなぎに、よろしかったら一杯、ちょっと新作を試していただけませんか。この店のウリにしようかと思っているんですよ」と言って作ってくれた。これまた爆弾酒だ。グラスには半分ほどの黄色い液体。炭酸の泡が吹き上がっている。その横に黒い濃厚な液体の入った小さなショットグラス。それを落とすと、血のように赤いシミが、泡に踊りながらグラス全体を染めていく。
「どうぞ」「うっ、見た目も、味も、独特だねぇ。何が入っているの?」「前にシンガポールスリングにベネディクティンを、とおっしゃっていましたよね。これも薬草リキュールがベースなんです。それにカフェインたっぷりのエナジードリンク。これだけでもイェーガー・ボムというカクテルなんですが、それに大辛の国産ヒネショウガの絞り汁の濾したものを大量に入れ、レモンで味を調えてみました」
「後味もきついなぁ。こりゃ目が覚めるよ」「そうでしょ。イェーガー・オイレ、狩人のフクロウ、という名にしようかと思っているんですよ。この店のあたりは夜更かしの酒好きが多いですから」たしかにフクロウは猛禽類だ。木陰に潜んで大きな目で獲物を狙っている。そして、鋭いツメとクチバシで小動物を捕まえると、ばらばらに引きちぎり、血まみれにして食べ尽くす。
深夜近くなってやっと店に電話があった。もう帰っていいそうだ。必要があれば、呼び出すので協力しろ、と。だが、事件の詳しいことは何も教えてはくれなかった。「すいぶんひどい話ですね」「警察もそうだが、私の原稿は、どうなるんだ? ひどい話だよ」「ああ、そうでしたね。もうむりでしょうね」と笑う。「私の苦労して書いた原稿はカネにならないっていうのに、いくら美人だって、山中さんの下着姿の映像なんか、カネを出して買うやつがいるのかね。べつにヌードでもないんだぜ」
「知らないんですか? 彼女、昔からファンが多いんですよ」といって、マスターはポケットの財布からカードを取り出した。山中朋子私設応援団会員証。ほかにも何枚もいろいろ持っている。「まさか、マスター、この店の奥で、どこかの電波なんか拾っていないよね?」マスターは、コップを洗いながら、黙って笑っていた。
(おわり)